後ろの正面だあれ

 その二日後。

 深更。

 ハタガミの里の民家の並びに、一人の人間の姿があった。

 薄い雲の張った、僅かに欠けた月の明かりが、ぼんやりと照らす道で、全身をローブで覆った人物が、滑るように歩いている。


 やがてその人物は、一軒の民家の前で足を止めると、勝手口に回り、懐から何やら薄黄色い液体の入った小瓶を取り出した。

 勝手口の蝶番と、ドアノブの隙間から、やや粘性のあるその液体を、とろとろと流していく。

 ノブを回し、開けた。

 元より住民全員が顔見知りの田舎街のこと、鍵などかかっているはずもない。

 流し込まれた液体のせいで摩擦を無くしたドアは、軋み声一つ立てずに、すうっと開き、侵入者を招き入れた。


 ローブの人物は勝手知ったるように、家の廊下を迷いなく、するすると歩いていく。

 その足運びは、頭が殆ど上下していない。

 窓から漏れる薄ぼやけた月明かりを、邪な影が横切っていく。

 やがて一つの部屋の前で足を止めると、ローブの人物は先ほどと同じように、ぬめりのある液体を引き戸の隙間に流し込み、ゆるりと戸を開けた。


 そこは、寝室だった。

 ベッドの上に、薄手の毛布を頭まで被った人物のシルエットが見て取れる。

 ちゃき、と。

 ローブの人物が初めて立てた音は、硬質な金属の擦れる音。

 月影を、その刃が映す。

 そろり。そろり。

 ベッドを覗き込む。

 その頭に。


「ヒカリちゃんならいないわよ」


 後ろから、女性の声が掛けられた。


 桜色の髪が、僅かな月光に照る。

 肩口の布が切り取られた、濃緋色のジャケット。

 メリィ・ウィドウの新聞屋・アヤが、腕組みをして立っていた。


「ま、そりゃそうよねえ。魔獣の仔を攫って鱗を剥いで、それをお守りに入れて旅人を襲わせる、なんて、6歳児の考えつくことじゃあないものねえ。黒幕の一人や二人、いて当然よねえ」


 ローブの人物はそれを見て、部屋の壁へと後ずさった。

「あ、その窓、鍵かかってるから」

 その動きを見たアヤが機先を制するように言う。


「何かしらヒカリちゃんにアクションを起こそうとする、ってのはヨル君と曖昧屋の考えだったけどねえ。理由は聞いたけど忘れちゃったわ。問題は、何をするつもりだったのかしら、ってことなんだけど」

 そこで言葉を区切ったアヤに。


「簡単ですよ」

 ローブの中から、返答があった。

「へえ?」

「シナリオはこうです。曖昧屋さんに手柄を取られた聖騎士は、このままでは報酬を得られなくなると焦り、暴走。功を求めて単身雷獣に挑むも返り討ちに遭い、逆に雷獣の怒りを買ってしまう。『折角丸く収まるところだったのに、これだから聖騎士は信用できないんだ!』」

「成る程ねえ。よく考えるわ」

「まあ、それが仕事ですから」

「で?」

「で、とは?」


 アヤが、組んだ腕を解き、一歩踏み出した。

「あたしにそれを聞かせて、一体この後どうするつもりかしら?」

「簡単ですよぉ。死んでもらいます」

 鈴を転がすような声で、ローブの人物が含み笑いを零す。


「あなたにそれができるかしら?」


 その眼が、髪が、赤い輝きを放った。


「ねえ、アズミちゃん?」


 ……。

 …………。

 

 一方、その頃。

 代々ハタガミの里の長を務める、イブスキ家の屋敷にて。

 主のチュウヤを支える、老使用人の男―モトベは、まる二日間寝たきりの双子、アカネとアオイのシーツを交換し床ずれを直すと、里長の執務室へと歩を進めた。

 ドアの隙間から漏れる明かりが無くなっていることを確かめ、ほう、と溜息を漏らす。

 そのまま屋敷を廻り、戸締りを一通り確認すると、ランタンに火を入れ、裏庭へ出た。

 少し湿った、それでも昼間よりは肌に心地いい風が、その深く皺の刻まれた顔を撫でる。

 とろとろと、淡い月光が庭木を照らしている。

 ランタンを握ったのと反対の手で、懐中時計を取り出した、その時。


「っ!?」


 モトベの身体を、悪寒が走り抜けた。

 頭から冷水を浴びせられたような。

 体が地に沈んでいくような。

 魂が、何処かへ引きずられていくような。


 慌てて周囲に首を巡らす。

 その中に。

 血の赤が、二つ。


 僅かな月明かりを呑み込むような、木々の隙間に凝った闇の中から、赤い瞳がこちらを覗いている。

 しずしずと、掠れるような足音を立て。

 闇の魔物が、顕れる。


「スパイ女なら来ないぜ、じいさん」


 その不遜な声に、モトベが困惑する。

「あなたは、……ヨル様、でしたな」

 一歩、後ずさる。

「ス、スパイ女、と言いますと……?」


「面倒くせえこと言うなよ。『曙の貴妃』のアズミ・アタラシ。あんたと通じてたんだろうが」

「つ、通じてた?」

「今回の件の黒幕。俺は最初、里の内部にいるんだろうと思ってた。ただ、ジンゴは、外部から来た説だった。何のことはねえ。両方からだったってわけだ」

「何を、仰っているのか……」

「だから。騒ぎを起こすんならそれを治める役所が必要ってことさ。あんたが里を混乱させ、あの女がセイカさんたちを唆してそれを解決する。そういう計画だったわけだ」

「何故それが、私たちだと?」

「悪いが俺は探偵でも傭兵でもないんでね。ご大層な推理も証拠もない。匂いだよ」

「匂い?」


「あの女は、自分は戦闘に参加することはないから、装備してるナイフも殆ど使ったことがないと言っていた。けど、あいつのナイフからはそんじょそこらの傭兵の得物とは比べ物にならないほどの死臭がしていた。芯から染み付いた血の匂いは、洗ったくらいじゃ取れやしない。ああいう分かりやすい嘘つきは端から信用しないで済むから、こっちも気が楽だった」

「成る程」

「あんたも同じさ。俺が山で見つけた四人の死体の血の匂いが、あんたの服からも感じられた。まあ、それ以外にも色々・・、やってるみたいだけど」


 それを聞いたモトベは暫し呆気に取られ、やがて、くつくつと忍び笑いを漏らした。

「ははあ。これは、厄介な犬に目を付けられましたな」

 そっと、地面にランタンと懐中時計を置く。


「あの女、里からの救援依頼を握り潰してるな。それで時系列の矛盾に説明がつく。使者の人は……まあ、気の毒だったな。で、丁度いいタイミングで救援に行けるように、依頼を届けるタイミングを測ってた訳だ。これじゃいくら待ったって応援なんてくるはずがない。が、お人好しで心配性の騎士隊長のせいで、正体不明の曖昧屋が里に潜り込んでしまった」

「そうなのです。全く、困ったものですよ。里の皆様が必死で引き止めたにも関わらず山には入ってしまうし、あの傭兵団もこちらの予定より早く雷獣と交戦してしまう。小細工を弄する間もなかったですからな。セイカ様はすっかり及び腰になってしまわれた」

「『第一に仲間の命を尊ぶべし』。あの人は、そういう人だ」


 モトベが苦笑した。

「何やら嬉しそうですな」

「まあな。で、そっから先はあんたとあの女とで方針が割れたわけだ。あっちは里の人に噂を流してヒカリを遠ざけさせ、あんたは逆にヒカリを焚き付けた。つまりあんたの狙いは単純。この里の経済を潰すこと」

「ご名答です。これについては嘘は言っておりません。助けを求める先など、私にとってはどうでもいいこと。ただ、あのお方にだけは頼るべきではなかったと、今となっては後悔しております」

「曖昧屋のあざなは伊達じゃないってことだ。それで、じいさん?  あんたの本当の雇い主は誰だい?」


「それを私が言うとでも?」

「どうかな」

 ヨルが浮かべた不敵な笑みを見て、モトベもまた、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「ほほ。言いますとも。大したことでもない。ツグロウ・イガラシ。イガラシ商会の、現会長ですよ」

 そこで初めて、ヨルが意外そうな顔をした。


「ああ?  じゃあ、チュウヤさんの……」

「はい。弟君にございます」

「そりゃ、なんでまた」

「それも簡単なこと。横恋慕でございます」

「あああ……」

「私こそ、この里に何の縁故もないのでございます。私は元々、イガラシ家の使用人でした。チュウヤ様と御一緒に、この里に入ったのです。シオン様がコソウの街にいらした時、一目惚れなさったのはチュウヤ様だけではなかったのですよ。ただ、ツグロウ様には、既に商会長としての地位があった」

「それで、愛しい人をむざむざ死なせた兄を、里の人間ごと潰してやろうって?」

「我が主様も、なかなかに人の道を外れておりますれば」

「あんたはどうなんだい、じいさん?」


 その問いに、モトベは暫し言葉を選び。

 平素と変わらない、柔和な笑みを、その皺の刻まれた顔に浮かべた。


「愛する妻を失った世間知らずの若造一人。取り入るのになんの苦労もございませんでしたよ。とでも、言えばよろしいですかな?」

「……上等だ」


 ヨルが腰を低く落とし、逆手にナイフを握った。

 モトベの顔が表情を失くし、左足を下げる。右前の半身。


 視線は互い、足元に伏せられ。

 湿った風が通り抜ける。

 どこかで、ぽとり、と木槿の花が地に落ちた。

 激震。

 淡い月明かりの下で。

 二つの影が交差した。


 ……。

 …………。

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