敗残者ジンゴ

「大丈夫ですか、ジンゴさん?」

「問題ない……とは言えんな。指先が上手く動かん」

「うう……」


 外気から遮断され、しんと冷えた石室の中で、ジンゴが仰向けに横たわっている。

 目を真っ赤に腫らしたヒカリが、ジンゴの傷だらけの身体の応急手当をしていた。

 右の脇腹の出血が特に酷い。

 聖水と薬草で消毒をし、晒を力一杯握り締めて止血を試みる。


 その横で、人間の姿に戻ったアカネとアオイが、すうすうと寝息を立てていた。


「二人は、大丈夫でしょうか……」

「命に別状はあるまい。恐らく、記憶は欠落するだろうがな」

「……記憶?」


 なんとか晒を締め終えたヒカリが痺れた指先を解す傍らで、ジンゴが虚空に視線を彷徨わせながら言った。

 その息が、少しだけ荒い。

「鬼への転化を止めることが出来るのは、強力な『陽』の魔力、だけだ。ただし、対象に魔力欠乏症と、記憶喪失を起こす」

「私、そんなこと、初めて聞きました」

「完全に鬼と化した後では意味がないのだ。聖騎士にとって、鬼とは退治するための存在でなくてはならん。鬼を救う方法など、教えるものか」

「そう、ですか……。ジンゴさんは、どうして知ってたんですか?」

「実体験だ」

「え? でも、ジンゴさん。聖気どころか、魔力なんて殆どないんじゃ……」

「逆だ」

「逆?」


 ジンゴは呟くような喋り方で、事も無げに言った。


「俺は昔、鬼になったことがあるらしい」


「…………え?」

「俺の持つ一番古い記憶は、焼け焦げる草の匂いと、曇った星空と、傷だらけの男の掌だった」

 水が漏れるように、ジンゴの口が言葉を紡いでいく。

「俺には十代以前の記憶がない。いつの間にかこの世にあって、ただなんとなく、目の前を歩く男の跡をついて歩いていた。そいつに連れられて大陸を渡り歩くうちに、生きることを覚え、言葉を覚え、剣を覚えた」

「その人は……」

「ゲンジ・ミヤマだ」

「あ。だから、さっき……」

「ある時、ゲンジが辺境の地で鬼を退治したことがあった。鬼への転化を防ぐ術があるというのは、その時に知った。ただ、『今度は間に合わなかった』という言葉が妙に引っ掛かってな。しばらく経って聞いてみたのだ。俺はお前に退治された鬼だったのか、とな。答えは肯だった」

「…………」

「俺の転化はかなり進行していたらしい。鬼と化した魂を祓った後、俺の身体には殆ど魂が残らなかった。俺の記憶は魂と共に消え去り、俺の体は魔力を殆ど持たなくなった。その代わり、自分以外の魔力の流れには人一倍敏感になったがな」


 ヒカリの眼が、再び潤み始めた。

「俺は、記憶と共に人としての感情を失った。揺らぐ魂を持たんのだからな。愛しいだの哀しいだのと、知識としては把握できても、実感として理解できん。人間の心の機微という奴が、俺には分からんのだ」

「で、でも、ジンゴさん。この剣をくれた時、私に……」

「あれはヨルの仕込みだ。俺はあいつの書いた台本を読んだだけだ」

「そうだったんですか!?」

「このガキ共からお守りを貰った時、俺は正直に言って困惑した。母親を魔獣に殺された子供が、里を出る者の安全を祈ってお守りを渡すというのは、自然なことなのか、不自然なことなのか、俺には分からなかった。ただ、これは捨ててはならんものなのだろうと考えた。里長の話を聞いても今一つ腑に落ちん。妻を亡くして尚、自分に何の縁故もない里の面倒を見続ける男というのは、一体何という名前の感情を持っているのだ。愛か。贖罪か。それとも虚栄か? どの言語の辞書を繙けばそれが分かる?」


 喋る勢いで血の唾を飲み込み損ねたジンゴが咽る。

 ヒカリが慌てて聖水を飲ます。

 ゆっくりとそれを飲んだジンゴは、いくらか落ち着きを取り戻した声で独語を続けた。

「曖昧なのだ。全てが。俺は一度、この世の理とやらに敗けた。ゲンジは俺の身体を人間に戻したが、俺という人間はとっくに死んでいた。ならば今こうして言葉を紡いでいる俺は生きているのか、死んでいるのか。そんな疑問を持つことすら、俺にはどこか他人事のように感じられる。だが何故か、あのガキ共が鬼に転じた時、殺すことが躊躇われた。あの時俺に働いた感情は、名を何と言うのだ。俺には、それが分からん……」


 その傷だらけの手を、ヒカリの小さな手が握り締めた。

「何故お前が泣いているのだ」

「ぐすっ。ジンゴさんの代わりに泣いてるんです」

「意味が分からん」

「ジンゴさんは、優しい人です」

「優しいというのは、他人を思いやることが出来るということだ。俺ほどその言葉が似つかわしくないものはおらん」

「ジンゴさんは、優しい人です!」

「だから、俺は……」

「ジンゴさんは! 優しい人です!!」


 大粒の涙をぽろぽろと流し、ヒカリが縋り付くように叫ぶ。

 血の滲んだジンゴの晒に、新たな染みが出来る。

 嗚咽を漏らし俯くヒカリの頭に、ジンゴの震える手が重なり。


「……覚えておこう」


 掠れるような声が、それに重なった。


 ……。

 …………。


「まずいですな」

「まずいですねえ」

「そちらの調子はどうですか」

「ええと、その、私は大丈夫だって言ったんですが、心配性が多くてですね」

「機を逃しましたな」

「うう。でも、そっちこそ、ちゃんと見張ってて頂かないと……」

「どうにもあの御仁は抜け目がないのです」

「まずいですねえ」

「まずいですな」

「まあ、こうなっちゃったものは仕方ないです。次の手を考えましょう」

「ありますか、妙案が」

「お任せ下さい。タイトルは『やっぱり聖騎士は聖騎士だった』」

「成る程。ではそちらは任せましょう」

「了解しました。じゃあ、魔獣の方は宜しくお願いします」

「心得ました。何とかしてみましょう」

「はあ。これで終わりに出来るといいんですけどねえ」

「全くですな。私も早く、故郷に帰りたい。このような世捨て里……」

「悪い顔してますよ?」

「気弱な顔よりはいいでしょう」

「あは」


 ……。

 …………。


「私らのいないうちに、随分大変なことになったみたいねぇ」

「………はい」

「傷はもういいのか、ジンゴ?」

「ああ。問題ない」

「あたしに感謝しなさいよー? 止血に治癒に体力回復、フルコースだからねえ」

「そうだな。礼を言おう」

「はい!?」

「どうした?」

「いや、………あんたがどうしたのよ」


 影が、長く伸びている。

 湿り気を帯びた風が、その四本の影の上を滑るように通り抜けていく。

 真横から照る陽の光が、赤く肌を照らしている。

 視線の先に徐々に藍色に染まっていく空を見上げ、メリィ・ウィドウの住人四人が、街の外れで屯していた。


「恩義を感じれば礼くらい言う」

 ぶっきらぼうに喋るジンゴを、アヤが心底気味悪そうに見る。

「今まで言われたことないんだけど」

「今までは恩義を感じたことがないということだな」

「はあ!? 結構あるでしょ! こないだだって取材のお土産でツブラガイの塩辛分けてあげたじゃない! 何も言わずに食い散らしたくせに!」

「馬鹿か貴様は。何故カタクの街に行ってエイヒレを買って来んのだ」

「あんまり固いの好きじゃないのよ」

「顎が鈍ると痴呆が早くなるぞ」

「将来総入れ歯になるのはどっちかしらねぇ!?」


「ふふっ」

 そのやり取りを見ていたヒカリが、小さく笑みを零した。

「どうした?」

 隣のヨルが訝しげにそれを見る。

「やっぱり、ジンゴさんはジンゴさんです」

「なんだそれ」

「こっちの話です」

「そうかよ」


 地下室での死闘の後。

 ヒカリは躊躇いながらも、全ての事情を里長に説明することにした。

 絶望に打ちひしがれたチュウヤは、二人の子供を強く抱きしめ、泣き崩れた。

 獣のような慟哭は、長く尾を引き、地に染みていった。

 やがて喉も枯れ果てると、二人を老使用人の男に預け、苦渋に満ちた顔を押し殺し、里長として、ジンゴとヒカリと、今後についての話をした。


 アカネとアオイのやったことは、許されることではない。

 ただし、二人は恐らく、自分たちがしたことに関する記憶を失っているだろうと、ジンゴは説明した。

 鬼はもう、消えたのだと。

 葛藤と苦悩の後。

 里の住民には、このことは隠し通すこととし、一日二日置いてから再び調査に出るという名目で山に入り、もう雷獣に襲われることはないということを証明しよう、ということになった。


「そういえば、私もこれもらったんだけど、何で襲われなかったのかしら?」

 アヤがぷらぷらとお守りを揺すると、腕を組んだヨルが答えた。

「多分、一度ヒカリの手に渡ったからでしょう。ちゃんとした魔道具ならともかく、ただ鱗を入れてるだけですから」

「あれ? でも、そうしてなかったら、普通に襲われてたってこと?」

「そうなりますね」

「ちょっと曖昧屋。あんた、私たちは襲われないって、確信して行かせたんじゃないの?」

「?? 何故そんな話になっているのだ? 寧ろ、俺が調査をしている最中、邪魔が入らないように雷獣本体を引きつけていてほしかったんだが」

「ふざけんな!!!」

「だから言っただろう。お前ら二人なら襲われても速度で逃げ切れるだろう、と」

「あれマジで言ってたのか……」


「で、でも。でも。もう、雷獣が里を出る人を襲うことはないんですよね。これで、もう、誰も悲しい思いをすることも、ないんですよね?」

 小さな手を握り締めて言うヒカリの頭を、アヤが優しく撫でた。

「そうだね。ヒカリちゃんも頑張ったもんね」

「私は、別に……」

「うりうり」

「あ、アヤさん。髪が。髪がぐしゃぐしゃに……」


「いや」

「そうはならんだろうな」

「え!?」


 ヨルとジンゴが、顔を険しくして、低く言った。

「ど、どうしてですか? もう、あの雷獣の仔は、お墓を作って、私がお祓いをして……」

 困惑するヒカリに、ヨルもまた、困ったような顔で告げる。

「この里は、魔獣に深く関わり過ぎた。今更因果の元を絶っても、波及した影響からは逃れられない、だろうな」

「む、難しい言い方しないで下さい」 

「ならば端的に言おう」

 ジンゴが、その後を継いだ。


「このままでは、数日中にこの里は滅びる」


 ……。

 …………。

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