我が哀しみの咲くほどに

 その扉を開けると共に全身を打った怨嗟の波動に、ヒカリは一瞬、気を失いかけた。

 地下道を10メートル程も進んだ先にあった八畳程の広さの石室は、血と、泥と、腐った膿の匂いが充満していた。

 蝿の羽音が耳を犯す。


「………こ、こんな、ことって」


 震えるヒカリの声には、涙の色が滲んでいる。

 その視線の先にあったものは。


 鎖に四肢を繋がれた、死にかけた雷獣の仔であった。


 かふ。はふ。


 僅かに聞こえる風前の灯火のような息遣いが、その獣の命を火をかろうじて伝えている。

 だが、その足は所々が不自然に曲がり、全身は赤黒く、所々黄色く染められ、緑色の瞳は既に光を写していなかった。

 無理矢理鱗を剥がされた傷が胴体の右に広がり、粘性の高い赤黒い液体を床に垂らしている。


「ひどい。こんな、こんなの……」

 がくがくと震えるヒカリの横で、ジンゴが顎に手を遣り、呟くように言った。

「成る程。こやつの体から発せられる青の魔力が地に染み、そこに根を張る木槿の木に吸われて、あの青い花弁をつけたわけだ」

「ジンゴさん! それより、これ、これ。あの、どうすれば……」

 囚われた魔獣の元にヒカリが踏み出すが、何をどうすればいいか分からない。

 体中のあちこちに打撲・裂傷・擦過傷・火傷の跡があり、その全てに膿が溜まり、蛆が湧いている。

 ヒカリは立ちすくみ、おろおろと、魔獣とジンゴを交互に見遣る。


 ジンゴはそれを見て、腰に留めた黒鞘から、静かに脇差を抜いた。

「今、楽にしてやる」

 かつかつと、石の床をブーツの底が叩く。

「ジ、ジンゴさん……?」

 魔獣の首が僅かに動き、既に光を失った瞳を虚空に彷徨わせた。

 その首にそっと差し出すように、白刃が添えられ。

 静かに引かれた。

 こぽこぽと、弱々しく血の筋が流れ。

 やがて魔獣の体から、最後の力が抜けた。


「あ……ああ」

 ヒカリが耐え切れずに膝を突き、崩れた。

 その瞳から、ぽろぽろと涙が溢れる。

「なんで……なんで、こんな……」


 嗚咽を漏らすヒカリに、ジンゴは脇差を清め納めると、懐から厚紙で折られたお守りを取り出した。

 ヒカリがぼやけた目でそれを見る。

「……それ、アカネちゃんとアオイ君の」

「俺がこの里に最初に入った際、山に入る前に、里長の子供から渡されたものだ」

 ジンゴがそのお守りを解き、厚紙を広げると、そこから、薄青い花弁のようなものが現れた。

「それ、は……。外の、木槿の…?」

「違う。よく見てみろ」

「ひっ」


 それは、鱗であった。


 ヒカリの顎ががくがくと震え、その視線が事切れた雷獣の仔に向けられる。

「恐らく、この魔獣から採られたものだ」

「な、なんで……」

「これは、撒き餌だ」

「……撒き餌?」

「里の連中から話を聞いた。あの子供たちは、里を出る人間に、必ずこのお守りを渡しているそうだ。今里にいる商隊も、これと同じものを渡されている」

「じ、じゃあ、あの雷獣は、この鱗の魔力を辿って……?」

「十中八九そうだろう。俺はこれを見た時、二年前に山の禁域で死んだ魔獣の仔のものではないかと考えた。しかし、そんなものが未だに魔獣を引き寄せる程の魔力を残しているというのが、俄かには信じられなかった。その謎の答えが、ここにあったという訳だ。その時とはまた別の個体をここに捉え、監禁していたのだろう」

「誰かが、二人の作ったお守りに、その鱗を?」

誰か・・、だと?」


 その時。


 ぎい。


 と、木戸の軋む音が聞こえた。


「見つかっちゃった」

「見られちゃった」


 舌足らずな口調で。

 少し青みのかかった黒髪。

 同じ声が二つ。


「死んじゃった」

「殺されちゃった」

「同じになった」

「一緒になった」


 熱に浮かされたように、その瞳が潤んでいる。


「アカネちゃん……、アオイ君」

 ヒカリが、二人の名前を呼ぶ。

 ジンゴが一歩を踏み出し、ヒカリの前に立った。


こやつらが・・・・、里を出る者を雷獣に襲わせていたのだ」


 親を亡くし、言葉を失くした幼子が、その身を案じてお守りを渡す。

 呪いの篭ったお守りを渡す。

 誰かそれを、拒む者がいただろうか。

 それを、道に捨てるものがあっただろうか。


「ばれちゃった」

「ばれちゃったね」

「おかしいな」

「変だな」


「な、なんで……こんなことを」

 ヒカリの問いに、二人の幼子はにっこりと笑った。


「言われたんだ」

「言われたの」

「人も獣も、みな同じ」

「みいんな、おんなじ」

「悲しいのも同じ」

「辛いのも同じ」

「殺すのも」

「殺されるのも」

「同じ」

「同じ」

「だから、みんな同じにならなきゃ」

「みんな、殺して、殺されるの」

「僕たちと同じように」

「私たちと同じように」


 ヒカリが涙を拭って、二人に踏み出す。

「こんなことをして、お母さんが喜ぶと思ってるんですか!?」

 幼子は、鏡合わせに首を傾げた。


「お母さん?」

「お母さん?」

「お母さんは喜ばないよ」

「お母さんは笑わないよ」

「だってもう」

「死んじゃったもの」

「お母さんは喜ばないし、悲しまない」

「お母さんは笑わないし、泣かない」

「もういないから」

「どこにもいないから」

「でも、僕たちは違う」

「私たちは違う」

「悲しい」

「哀しい」

「苦しい」

「辛い」

「憎い」

「恨めしい」


 アカネとアオイの纏う空気が、揺らいだ。

 ヒカリの背筋を悪寒が走る。

 二人の口角が上がり、三日月のように歪む。

 口の端が、みしりと音を立て、耳元まで裂けた。

 目は爛々と青く。

 吐息はめらめらと燃え。


「だから、みんな同じにならなきゃ」

「同じにしなきゃ」

「悲しみを」

「恨みを」

「同じにして」

「みんな同じに」

「あはは」

「ふふふ」

「ひひひ」

「けけけ」


 その額に、瘤が。

 アオイは額の真ん中に一つ。

 アカネは両こめかみに二つ。

 ぷっくりと膨らんで。

 やがて皮膚を裂き、角が生える。

 裂けた傷口から、血が一筋。二筋。


「な、な……」

 言葉を失うヒカリの横で、ジンゴが黒鞘の柄に手をかけた。


 魔獣には、種として存在する先天のものと、獣が強い魔力に晒され突然変異して生まれる後天のものがある。

 いずれ、此岸の理を外れた存在。

 ならば、人は?

 魔力とは感情の揺らぎ。

 人がその身に余る激情に晒され、それと同時に、強い魔力を浴びた時。

 人が、溢れ出す感情を、人の身体に留めておけなくなった時。

 人が、自らその存在を手放した時。


 人は、鬼になるのだ。


 けきゃあ!!

 二つの怪音が重なり、石の床が砕けた。

 二つの青い塊がジンゴとヒカリに襲いかかる。


「きゃ!」

 木剣を抜く暇もなかったヒカリをジンゴが庇い、その肩に鋭い爪が食い込む。

 鬼と化したアカネとアオイが、ジンゴに組み付き、牙を剥く。

「ジンゴさん!」

「ふん!」

 腰のホルスターから黒鞘を外し、左側の肩とそこにしがみつくアカネの体の間に滑り込ませ、引き剥がす。

 右足に組み付いたアオイを蹴り飛ばす。

 二体の小鬼はそれぞれ石室の隅に転がり、獣の如き目を爛々と輝かせた。


 しゃああああ


 その口元から、青い炎が揺らめき立つ。

 

 アカネとアオイの肌には、いつの間にか鱗のような紋様が出来ている。

 にょっきりと生えた角から、ぱちぱちと紫電がはためく。

 四足獣の狩りのような姿勢で、力を溜める。

 ヒカリがようやく木剣を構えるが、その剣先はぶるぶると震え、本来の構えよりもかなり下がっている。

 それを見たジンゴが小さく舌打ちをし。


 けああぁ!!


 小鬼が駆け出したと同時、ヒカリの首根っこを掴んで後ろに放った。

「きゃあ!」

 受身も取れずに転がったヒカリに目もくれず、ジンゴが左右から襲いかかる小鬼と組み合う。


 脇腹を狙うアオイの爪を右手に握った黒鞘で弾く。

 飛び掛かったアカネの頭を狙った一撃はスウェーバックで躱し、左手でその服の端を掴んで投げ捨てる。

 下から襲い来るアオイの連撃。

 膝裏。

 下腹。

 太腿。

 その全てを黒鞘の防御で弾いていく。


 しゃあ!!


 気炎を吐き、再び胸元に飛びかかってきたアカネを、右足を軸に体ごと回転していなし、襟元を掴んで投げ飛ばす。

 その体が空中で回転する。

 壁に着地。

 跳躍。

 小さな体が宙を跳ねる。

 それと同時に、アオイが地を這うように迫り、二匹の爪が上下からジンゴを挟み撃ちにする。

 ジンゴは顔色一つ変えずに脇差を鞘ごと外し、無造作にも見える動作で放り投げる。

 回転する黒鞘が狙いすましたかのようにアカネの体を打ちすえ、鈍い悲鳴を上げさせる。

 それと同時に、左足の裏でアオイの顔面を踏みつける。

 そのかおが、にんまりと笑っている。

 次の瞬間。

 小鬼の角が輝き。

「ぬぐっ」

 電流を流されたジンゴの体が硬直した。


「ジンゴさん!」

 ヒカリが悲鳴を上げる。

 ジンゴの左脇腹にアオイが噛み付き、牙を食い込ませている。

 苦悶の声。

 その首筋に噛み付かんとするアカネの額を、かろうじて掴み、抑え付ける。

 再び電流。

「ぐぁ」

 ジンゴが膝をつく。

 アカネの牙が肩口に食い込む。

 脇腹に埋もれるアオイの顔が、真っ赤に染まっている。

「ぐ。ん、……ぐ」

 ジンゴの手が、アカネとアオイの首の後ろを掴んだ。

 引き剥がそうとしているのではない。

 寧ろ強く、自身の身体に押し付け、身動きを封じている。

「………れ」

 脂汗の滲む顔で、言葉を振り絞る。

「……やれ! ヒカリ!」


 ヒカリの顔が、恐怖に歪んだ。

 自分の力で鬼を斬るということは、その鬼を殺すということ。

 それをしないということは、ジンゴを見殺しにするということ。

 

 殺す。

 アカネとアオイを。

 自分が、この手で。

「ふぐっ。……うう。ううぅぅぅぅぅ」

 弱々しく、陽光が灯る。


 最後の力を振り絞るように、ジンゴが叫んだ。

「今ならばまだ間に合う! やれ!」

 その双眸には、強い光があった。


「お前にしかできんのだ! ヒカリ!!」


 その眼を見て。

 ヒカリは強く足を踏み。

 木剣を引き絞った。


「うあああああああああああ!!!!!」


 石室を陽光の爆発が満たし。


 そして、全ての音が消えた。


 ……。

 …………。

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