囁きは森の奥へ
深緑の天井であった。
日はとうに昇りきっているはずなのに、分厚く、高い広葉樹の葉に遮られ、地には影が落ちない。
胸から下は薄い霧に覆われ、一踏み毎に沈み込む腐葉土の地面を乳白色にぼかしている。呼吸する空気は重く、水の分子が溢れんばかりに含まれているのが分かる。
ただ歩いているだけで、服の端がしっとりと濡れていく。
水の森だ。
何百年、何千年と堆積する植物と動物の死骸。そこに息づく新たな命の脈。それが濁った水の精気に攪拌され、醸造され、静かに渦巻いている。
ききききき。
ちちちちち。
そして。
遠くから、近くから、
谺するように、染み渡るように、
歌うように、呪うように、
小さな声が聞こえてくる。
ししししし。
りりりりり。
まるで水を孕んだ空気そのものが震えているように。
高く、低く、どこからともなく聞こえてくる、声。
『囁く者の森』。
今、その森を、白い聖騎士の正装に身を包んだヒカリが、青い顔をして歩いていた。
白いローブに胸当てと篭手。腰を止めるベルトには自身の腕程の長さの木剣。小さなバックパックを背負い、がくがくと震える口元を噛み締め、今にも涙が零れそうな大きな目を精一杯見開いて、恐る恐る森の道を進んでいく。
道と言っても、整備された道ではない。
ところどころに打たれた杭や、一際大きな木の幹に付けられた、先人の残した目印を繋ぐように、人か獣かによって踏み分けられた跡が続いているだけの道だ。
それでもその跡を辿っていけば目的の場所には辿り着けると、ジンゴの薬草図鑑のメモ書きには残されている。
そうだ。もう何人もの人が採取に来ている森なのだ。
だから怖いことなどないのだ。
そう自分に言い聞かせ、時折耳元で聞こえる枝のざわめきに心臓を凍りつかせながら、ヒカリは歩いていく。
『ヨル君に相談したほうがいいんじゃない?』
街の人たちの声が思い出される。
桜の木を蘇らせる方法を街の住人たちに聞いて回った時、皆口を揃えてそんなことを言った。
吸血鬼に頼るなんて!
内心憤慨していたヒカリだったが、頭のどこか冷静な部分では分かっていた。
あの吸血鬼は、街の人たちに頼られているのだ。
人を襲うことなく、人の暮らしを助け、報酬にほんの少しの血を貰う。
あの吸血鬼はそうやって、あの街で生きてきた。時間をかけて、街の人たちみんなから頼られるようになるまで。
ひと月近く便利屋の仕事を請け負って行くなかで、ヒカリはあの吸血鬼がどれだけの努力を支払い街の人たちの信頼を得るようになったのかを、いつしか察していた。
それに引き換え自分はどうだ。
仕事を任されれば失敗ばかりで、吸血鬼に勝負を挑めば軽くあしらわれてばかり。
折角、頑張って聖騎士になれたというのに。
このままじゃダメだ。
あの余裕ぶった吸血鬼に一泡吹かせてやるためにも、この採取は一人でやりきってみせる。
けど、そんな思考は全て後付けのものだった。
ヒカリはただ、あの獣人の老婆を助けてやりたかったのだ。
体のことはどうにもできない。
思い出を取り戻してやることもできない。
でも、あの意地悪で、心優しいおばあちゃんの寂しそうな顔を見ると、ヒカリはいてもたってもいられなくなったのだ。
必ずあの人を笑顔にしてみせる。
涙の滲むヒカリの目には、それでもまだ火が点っていた。
きちきちきちきち。
しりしりしりしり。
「ひぐっ。うううぅぅぅ」
今にも消えそうではあったが。
……。
…………。
神樹、と呼ばれる木があるのだという。
それは生物学的な呼び名ではなく、むしろ橅だろうと楡だろうと、あるいは杉や檜であっても、それがある程度の年数を生き長らえ、その身に膨大な魔力を蓄え、そのあり方を変質させた樹木は、一般に神樹と呼ばれるようになる。大陸各地に何体かその存在が確認されているうちの、比較的小さな神樹が、この『囁く者の森』の奥地に存在している。
その根元に生える、白い茸。
『真白樹茸』と呼ばれるその菌が、春光丹の核となる原料なのだと、ジンゴの持つ古書に書いてあった。他の材料は街の近辺でも手に入る素材ばかりだ。ならばその茸さえあれば、シャオレイの桜を蘇らせることができるはず。
はずなのだが。
「ううう。なんでこんなとこにあるのぉぉ」
ヒカリはもう涙声であった。
薄暗く、ジメジメとして、時折変な声がどこからともなく聞こえてくる森の中で、すっかり腰の引けたヒカリはおっかなびっくり標を頼りに進んでいく。
「あれ?」
そして、森に分け行って半時程も経った頃。ヒカリは不意に、先程まで断続的に聞こえていた何者かの囁き声がいつの間にかなくなっていることに気づいた。
「聞こえなくなった……。場所によってなのかな。それとも時間?」
きょろきょろと辺りを見渡すヒカリに、霧の奥から、先程までとは別の音が聞こえてきた。
かさ。
かさ。
「な、なに……?」
かさ。
かさかさかさ。
近づいてくる!
ヒカリは咄嗟に腰の木剣に手を伸ばし、するりと引き抜いた。
両手で握り、魔力を込める。
陽光の煌きが剣身を覆った直後。
ぎぎゃあああああ!!!
晴れた霧の中から、枝葉を掻き分け、巨大な蝙蝠が姿を現した。
「ひゃあ!」
それは人の頭ほどの胴体を持った蝙蝠だった。短い毛並みは白と灰色の斑模様で、目は濁ったような黄色。霧の中で銀色に照る牙。
錆びたような鳴き声を上げて、ヒカリに襲いかかるそれを、咄嗟に木剣から放たれた眩い閃光が遮った。
距離を取られる。
ぎぎっ。
ぎりりり。
じゃああぁぁ。
一体だけではない。
右から、後ろから、ヒカリの周りを耳障りな鳴き声と羽音が旋回している。
迦楼羅蝙蝠。
養成校時代にも、魔獣討伐の実地訓練で何度か戦ったことがある相手だ。
常に3~5体程度の集団で行動し、洞窟や森林、山岳地帯で人間や家畜を襲う。
訓練の時は常に4人小隊で戦った相手だった。
逃げられない。
戦わなきゃ。
…………私一人で?
ヒカリの頬を冷や汗が伝う。
木剣を持つ手が震える。
思わず一歩下がった足を、ヒカリは気合で押しとどめた。
「落ち着いて。一体一体は決して強くない。私は聖騎士。試験もクリアしたんだから!」
声に出して言い聞かせる。
訓練を思い出せ。
あの時は、聖気の量が人より少し多い(程度だとその当時は思っていた)自分は、対魔防御力を活かした壁役だった。どの道自分の聖光魔法じゃ素早く空中を飛び回る相手には当てられない。
けど、今の自分にはこの剣がある。
ならば、自分が今取るべき戦法は。
ヒカリは深く息を吐くと、剣を強く握り締め、魔力を閉じた。
深緑の闇を照らしていた陽光が失せ、視界が一気に狭まる。
震える膝を開き、腰を落とす。
無防備に晒された体を、魔獣の視線がねぶりまわしているような錯覚を感じる。
ぎぎぎ。
じりりりり。
ぎぎゃぎゃぎゃぎゃ。
手は小指に、足は親指に力を込めて。
肩と肘の力を抜け。
落ち着いて。落ち着いてったら!
冷たい汗が次から次に滲み出る。
そして。
ぎぎゃああああああああ!!!!
闇を裂いて襲いかかった蝙蝠の牙が背後から肩に、左から脇腹に迫った瞬間。
「やああああああああああ!!!!」
ヒカリは魔力を全開に放ち、独楽のように旋回して剣を振り回した。
ぎびっ。
眩い陽光の輪が煌き、ヒカリに襲いかかった魔獣3体をまとめて吹き飛ばした。
「…………」
再びの静寂。
数秒の残心。
ヒカリは荒い息を吐きながら、周囲を見回す。
三方向から、しゅうしゅうと白い煙が上がっているのが見える。
木剣自体は当たっていない。しかし、ヒカリの規格外の聖気の直撃を受けた魔獣の体は、無残にも焼け爛れていた。
「か、勝った……?」
その声に応えるものも、当然いない。
「あ、あはは」
いまだ震える手から木剣が零れ落ち、ヒカリはその場に尻餅を着いた。
それは、ヒカリが自らの手で掴み取った、初めての勝利であった。
……。
…………。
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