老人と桜の古木

 メリィ・ウィドウの街の外れ、桑畑の奥にひっそりと佇む臙脂色の屋根のログハウス、その部屋の中に、何人かの女性が沈んだ顔で立ち尽くしていた。

 外にはここ数日来、強く吹き続けている風が、枯れた桜の古木をざわざわと騒がせている。

 薄曇りの空は雨を零す寸前のようで。

 彼女らの沈鬱な表情にさらに暗い影を落としている。


 彼女らの視線の先にあるのは、小さなベッドに横たわる獣人の老婆と、ベッドに縋り付くようにして泣きじゃくる聖騎士の少女。

「ぐすっ。おばあちゃん……」

 震える声で泣くヒカリは、布団からはみ出た皺だらけの手を握る。

 その手は冷たく、肌は青白い。

 かさついた肌に力はなく、静かに目を閉じた顔は、丸で眠っているようで―


「勝手に殺すんじゃないよ、ばかたれが」

「へぶっ」

 

 実は起きていたシャオレイが、ヒカリの脳天に手刀を振り下ろした。

「お、おばあちゃん!」

「何だいあんたたちは雁首揃えて。葬式でもあったのかい」

 気怠げにベッドから身を起こし、ぐるりと集まった女性たちを睨め上げる。

「冗談でもそういうこと言わないで、シャオレイさん」

「私たち、ホントに心配したんだからね」

「ふん。この赤ん坊が派手に騒ぎ過ぎなんだよ」

「ぐすっ。おばあちゃあぁぁん」

「シーツに洟水付けるんじゃないよ!」


 台所で倒れるシャオレイを見つけたヒカリが慌てて駆け寄ると、シャオレイはぐったりとした顔で、ちょっと立ちくらみをしただけだと呻くように言った。ヒカリはシャオレイを抱えてベッドに運ぶと、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら街の人たちの元に走った。

 その様子に驚いた女性たちが街の医家役を引き連れてぞろぞろとログハウスに押しかけ、安堵半分、苦笑半分の顔でシャオレイの悪態を聞いているのだった。


「シャオレイさん。まさかと思うけど、台所のグレープフルーツ食べたんじゃないでしょうね」

 医家を務める人族の女性が腰に手を当ててシャオレイを見下ろす。

「あたしの好物にケチつけるんじゃないよ」

「だから! 血圧下げる薬飲んでる時に食べちゃダメって言ったじゃないですか! ちゃんと言うこと守ってくれないと、お薬渡せないんですよ!」

「はいはいはいはい。悪うござんしたね」

「もおぉぉ、ホント頼みますよ。一歩間違えたら命に関わるんですからね」

「そんなもん生きてりゃ当たり前だろうが」

「シャオレイさん!」

「はいはいはいはいはいはいはいはい」

「はああ……」


 どうやら大事ではなさそうだということで、街の女性たちはほっとした顔で、来たときと同じように、またぞろぞろと引き返していった。

 後に残ったのは目を真っ赤に腫らしたヒカリだけである。

「ほれ、あんたももう帰んな。それとも、今ならあたしの服も掴めるかもねえ?」

 ベッドに腰掛けたまま、いつも通り、それでもいつもより力なく悪態をついたシャオレイに、ヒカリは俯いて問いかけた。


「あの、おばあちゃん」

「何だい」

「あの。その……もし、あの、私が……。私がこの前から無理言っておばあちゃんに甘えて、…無茶させちゃったのが―」

「ばかたれ」

「へうっ」

 鼻にデコピンを食らわされ、ヒカリの言葉が遮られた。


「あんな程度のごっこ遊びで、何で今更身体壊したりするもんか。あれで死んじまうようなら、あたしゃもう、とっくに楽になってるよ」

「で、でもでも」

「あんたね。あたしをいくつだと思ってんだい。何もなくたって身体のあっちこっちにガタが来てんのは当たり前だろう。特に血管はね。もう大分固くなってる。ゴムホースみたいだとさ」

「……おばあちゃん」

「そんな顔すんじゃないよ。いいかい赤ん坊。世の中にはね、順番ってもんがある。あたしゃもう随分と順番待ちをしてんのさ。ただ、どうにも割り込むやつが多くてね。何をみんなして、そんなに急いでんだか知んないがね。ついにこないだ、桜の木にまで先越されちまった」


「桜の……」

 普段よりも力のない声で、シャオレイは溢すようにぽつぽつと喋りだした。

「あの庭のでっかい枯れ木だよ。不思議なもんだろ。桜の木なんて、春にひょっこり生えてくるわけでもなし、一年中ずっとそこにあるのに、普段は誰も気に止めない。その木が桜だと分かるのは花が咲いた時だけなんだ。なら、花を咲かせなくなった桜の木は何なんだろうねえ」

「……」


「あの木はね。ずっとあそこにあった。私が木登りを覚えた時からずっとね。旦那がここに家を作ってね、なんでわざわざ花弁が降り積もる中に家なんか建てるんだ、って、あたしゃ随分文句を言ったもんさ。ああ。ひたすら邪魔だったよ。もう花弁の掃除も毛虫取りもしなくていいのかと思うと清々したさ。いいことだよ。順番が来るってのはね」

「そんな! そんなこと……」

 ヒカリの手が、きつくシーツを握り締めた。

 赤く腫らした目に、また新しい涙が浮かぶ。

「なんであんたが泣いてんだい」

「だって、おばあちゃんが……」


 目に涙を浮かべるヒカリを見て、シャオレイは目を細めた。

 ヒカリの背の後ろ、風に吹かれてかたかたと鳴る窓ガラスから、雲間に揺れる陽の光が零れる。

 窓の向こうに覗く枯れた枝葉に、光の華が重なった。

 はらり。

 はらり。

 光の粒が、花弁の形に変わる。


『ぐすっ。おばあちゃん。死んじゃやだよぅ』

『誰が風邪引いたくらいで死ぬもんかい。大袈裟な子だね』


 シャオレイの灰色の髪の中から、幼い少女の声が甦り。


「泣き虫は治らないねぇ、レイファ」


 掠れるような声が、口から漏れ出た。


「…………え?」

 それは優しい慈愛に満ちて響き、思わずヒカリは顔を上げる。

「おばあちゃん?」

 シャオレイは、いつの間にか両目を閉じ、静かな寝息を立てていた。

「…………」


 喋り疲れて、寝てしまったのか。

 ヒカリはそれをしばらく見つめ、不意に後ろを振り返った。

 風に揺れる、桜の枝は寒々しく。

 ヒカリは大きな目を見開いて、その枝葉を見続ける。

 やがてぐしぐしと顔を擦って涙を拭くと、静かに立ち上がった。

 お土産に持ってきていたお菓子をテーブルに置き、ついでに台所のグレープフルーツを回収し、ヒカリはログハウスを出た。


 もう一度、桜の木を見上げ。

 桑畑の道を駆け出した。

 その目には、いつしか強く火が点っていた。


 ……。

 …………。


「枯れた木を蘇らす魔法? さあ、私は聞いたことないわねえ。うーん、ジンゴ君かヨルちゃんなら何か知ってるかも知れないわねえ。ああ、二人とも今いないのよねえ」


「魔法はどうか知らないけど、そういう薬の話なら、聞いたことがあるよ。何でもエルフの森に古くから伝わる代物だとか。うーん、名前まではちょっと…………。ヨルにでも聞いてみたらどうだい」


「ああ、確かに、エルフの秘薬にそういうものはある。名前は『春光丹』と言ってね。ジンゴ君の持ってる本に、作り方も載ってる筈だから、素材さえあれば作ってくれるんじゃないかな。ただ、ここからだと少し遠出しないと採れない素材もあるから、時間はかかるかもしれないね」


「この辺の地図? 聖都か帝都行きの街道地図ならあるけど、ああ、港国方面なの。そうねえ、たしかジンゴ君が持ってたような気がするわねえ。なあに、港都に興味があるの? 私も一回行ってみたいと思ってるのよねえ」


「おや。いらっしゃい。薬草?  はいはい。これと、これも持ってきな。使い方は分かるね? うん、そうそう。へえ。素材の採取……一人でかい? 大丈夫? ヨル君が帰って来てから相談したほうが……」


 ……。

 …………。


「おい。誰か俺の本を持って行ったやつはいるか」

「おや、なんだいジンゴ。帰ってたのかい」

「今さっきだ。何故か文机に枇杷が置いてあってな、代わりに棚から薬草図鑑と港都方面の地図が失せていた」

「さあ。私は知らないねえ。貴重な本なのかい?」

「いや、どちらも広く流通してる品だ。別に誰が持ち出しても構わんのだか、所在が分からんのは落ち着かんのでな」

「さて。誰だろうね」


「あれ? そういえば、ヒカリちゃんが何とかいう薬のことで、あちこち聞いて回ってなかった?」

「ああ、そういえば。枯れ木を蘇らせるとかなんとか。ひょっとして、シャオレイさんとこの……」

「そうかも。こないだから通ってたみたいだし」

「優しい子だねえ」


「待て。枯れ木を蘇らせるだと? まさか『春光丹』のことか」

「さあ。あたしはそんなもんは知らないから、あんたかヨルにでも聞いたらどうだって、言っただけだからね」

「その薬って、作れるの?」

「材料さえあれば製造は可能だ。ふむ。それで、あの小娘はどこにいる?」

「ちょっとあんた、本勝手に持ってったくらいで怒るんじゃないよ」

「そうよ。悪気があったんじゃないんだから」

「別に叱りつけようというのではない」


「でも、そうね。今日はヒカリちゃん、見てないね」

「ひょっとして、その薬の素材集めに行ったんじゃないかい?」

「あら。大丈夫かしら」

「ふむ。ならば行き先は特定できるな。春光丹を作るのに遠出が必要な素材は一つしかない。しかし、そうだとすると少々厄介だな」

「危ない場所なのかい」

「普段はそうでもない。ただ、時期が悪いのだ」

「その場所って?」


「……『囁く者の森』だ」


 ……。

 …………。

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