森に赤い鳥が舞い
「思ったよりも厄介なことになっているようだぞ、ヨル君」
港国領バルの街。街の警備隊の詰所の執務室で、雑多に書類の散らかった机を挟んで、警備隊長ラジーブと、客人のヨルが向かい合っていた。
つい先刻部下からの報せを受け、街の入口広場に向かったラジーブが見たものは、疲労困憊といった様子の商隊の連中と、あちらこちらに傷を負った数人の傭兵の姿だった。
何でも、聖都からバルを継なぐ街道の、丁度聖国領を過ぎたあたりで、巨大な蟷螂型の魔獣に襲いかかられたのだという。
幸い死者はでなかったものの、たまたま知人の誼でこの街まで運ぶことになっていた傭兵たちがいてくれなければ、どうなっていたか分からないとのこと。
「馬鹿な」
それを聞いたラジーブは、猜疑と動揺を足して割ったような顔を作った。
蟷螂型の魔獣だと?
そんなもの、長年警備隊に所属し港国領を巡っていた自分でさえ実物を見たことはない。
書物を繙けばその存在は詳しく特定できるだろうが、ぱっと思いつくのは山奥の樹林に生息するとされる
平野部の、しかも人界で目撃されるような生物ではない。
あの不可思議な少年が討伐したという紫色の魔獣の首が頭をよぎる。
一体、何が起きているというのか。
取り敢えず、商隊人員の安全の確認と、傭兵たちに対する治療の手配。
内心の不安を気取られぬよう、平時と変わらぬ態度で部下に指示して回るラジーブに、別の部下から、更なる報がもたらされたのだった。
「……突然変異の魔獣、ですか」
顎に手を遣り、ヨルが軽く俯いた。
「うむ。たまたま我がヴァルダナ王国領にてフィールドワークに出ていた帝国の研究者チームが発見したらしい。昨年末に、大きな地震があっただろう。その影響で地脈の筋が僅かにずれて、ラーイガル山の麓の森に巨大な魔力溜まりが出来ていたのだそうだ。そして、何か大きなものが暴れた形跡と、何処かへ移動した痕跡……。不運な生物が噴出した魔力の直撃を浴び、何かしらの魔獣に変異してしまったのではないか、とのことだ」
「成る程、そいつが暴れたせいで住処を追われた魔獣が、逃げ場を失い草原に出現した、と?」
「そういう見解が出ている、というだけだがな。しかしまあ、十中八九間違いあるまい。燻大蟷螂も紫呪狗も、件の森になら生息していてもおかしくはない。問題は、その魔獣がどれ程の規模か、ということだ」
手元に集められた報告書と資料を手繰りながら、ラジーブが眉間の皺を深くする。
「そうですね。燻大蟷螂も紫呪狗の群れも、普通は小隊を編成して退治する魔獣です。俺もあの時、紫呪狗がもう一体いたら危ない所でしたから」
「少なくともそれらの魔獣以上の力はあると見るべき」
「災害級ですね。ちなみに、その魔力溜まりは何色ですか」
「少し黒ずんだ黄色だそうだ。帝国の調査団は、もしこちらさえよければ青の騎士団に出撃依頼を出すと言ってくれてはいるが、そう悠長に構えてもいられん。我らの軍は内陸部では十分な力を発揮できんからな。魔獣の進行ルート付近の村や街には警戒勧告を出し、同時に傭兵組合に近場で青魔法を得手とする傭兵団へ特別依頼を出すよう申請した」
「速いですね」
ヨルが少し驚いたように言う。
「本来であれば傭兵団の件は港都の軍部に承認をとるべき事案だが、それを待っていてはいつ人民に被害が出るとも限らんのでな」
「大丈夫なんですか?」
ラジーブは眉間の皺を深くして答えた。
「無論、大丈夫ではない。が、どうせ港都にいる俺の上役でも今ここにいれば同じ判断をするだろう。民草の安全には替えられん。ただ、問題は件の魔獣が国境を越えてしまった場合だ。傭兵組合は元より国境なき組織故、運用するに問題はない。ただ、だからと言って何の説明もなしに、というわけにもいかん。俺は な、ヨル君。はっきり言って聖国の国軍があまり好きではない」
「自国の軍規違反よりそっちの心配ですか」
ヨルが思わず苦笑した。
「大いに心配だ。ああ、俺は一体どれだけ堪忍袋を持っていけばいい? 先月の軍事演習の件でもう在庫が僅少なんだ」
「傭兵団の方々の働きに期待しましょう。国境を超えられる前に片付けられれば問題ないわけですし。それで、その魔獣の進行ルートはどうなってますか?」
「ああ。帝国の研究者が逐一データを送ってくれている。彼らも身の安全を確保しての事だから全く精確というほどでもないだろうが、大同小異というよりかは信頼できるだろう」
そう言って、ラジーブが港国北東部の地図を広げると、黄色い色素で染められた筆で、線を引き始めた。
それを見た、ヨルの顔色が変わる。
「……ああ。ラジーブさん、まずいです」
「何だ」
「この進行ルートだと、万一国境を超えられた時、聖国領の何処に出るか分かりますか」
「うん? 確かこの辺りに村や街はなかったと思うが……」
闇色の眼が細められる。
「『囁く者の森』です」
……。
…………。
おかしい。
どう考えてもおかしい。
「やああ!!」
ヒカリは11体目の迦楼羅蝙蝠を弾き飛ばし、木剣を構え直した。
ぎぎっ。
ぎぎゃっ。ぎゃっ。
そして目の前に舞う、3体の魔獣を見据える。
「一体、何匹いるのぉぉ……」
ぜいぜいと荒い息を吐くヒカリの口から弱音が漏れる。
最初の襲撃を退けたヒカリを、さらに一群れの迦楼羅蝙蝠が襲い、さらに一息ついたところでまた別の個体に襲われた。
繰り返すこと3度。
倒しても倒しても次から次へと現れる灰色の魔獣に、ヒカリは徐々に焦り始める。
迦楼羅蝙蝠は一群れせいぜい6体で行動する魔物だ。一つ所にこんな量の群れが存在しているなんて聞いたことがない。
「うぅっ」
先程、不意を突かれて一撃くらってしまった脇腹がずきずきと痛む。
歯を食いしばり、両手に力を込めた。
じじじじ。
ぎゃぎゃ。ぎぎゃああ!!!
さらに一群れ。
右側から現れたそれに気を取られた刹那、前方に見据えていた一群れの姿を見失う。
「あ。しま―」
じゃあああ!!!
「くぅっ!!」
背後に感じた殺気に、咄嗟に体を前に倒す。
服の端を牙が掠める。
振り向きざまに陽光を放つ木剣を振り切り、一体を吹き飛ばす。
体勢が崩れる。
踏ん張った足がぬかるんだ腐葉土に取られ、ずるりと滑った。
「きゃ」
剣先が下がる。
ぎぎゃあああああ!
駄目。
やられる!
ヒカリが数瞬後訪れる痛みに思わず目を瞑った、その時だった。
「伏せて! ヒカリちゃん!!」
霧の中から、よく通る澄んだアルトが。
腐葉土を掻き散らす足音が。
空を切る、音が。
咄嗟に頭を下げたヒカリの頭上を、赤い光が駆け抜けた。
肩口の布が切り取られた濃緋色のジャケット。股下のだぶついた亜麻色のボトムス。
手には分厚い革の手甲。
木剣から放たれる陽光に照らされて、桜色の髪が煌く。
「アヤさん!!??」
「『
空中で握ったアヤの拳が、瞳が、赤く光る。
「ぜあぁ!」
ヒカリに襲いかかった魔獣の一体を殴りつけると、その体が剛速で吹き飛び、木の幹にめり込んだ。
着地。
腐葉土が舞い散る。
ぎぎぎ。
じじゃああああ!
突然の闖入者を4体の魔獣が空中から取り囲む。
旋回し、飛翔し、アヤの死角に迫る。
赤く光るアヤの眼球が目まぐるしく動き、その動きを見切っていく。
ぎぎゃあ!
背後から肩口に襲いかかった一体を、振り向きざまの裏拳で打ち落とす。
そのまま右の廻し蹴り。
震脚。
飛び上がり、打ち下ろしの右。
ぶぎっ。ぎぎゅ。
魔獣の悲鳴が潰れて消える。
その、背後に迫る最後の一体を、
「やああああ!!」
立ち直ったヒカリの木剣が、陽光と共に打ち払った。
久方ぶりに、森に静寂が訪れる。
「あら、ありがと」
ぜいぜいと息を吐くヒカリを涼しい顔で見下ろし、メリィ・ウィドウの新聞屋、アヤが笑った。
……。
…………。
「さて、ヒカリちゃん。私がどうしてここにいるのか分かるかしら?」
静寂の訪れた深い森の中。ぱたぱたと手足の汚れを払い落とし、腰に両手を当てたアヤがヒカリを見下ろして問う。
「え、ええ……と。し、森林浴……じゃ、ないですよねあうっ」
目を泳がせながら答えるヒカリに、ぽこんと拳骨が落とされた。
「街のみんながあなたを心配して寄越したからに決まってるでしょ」
「あう……すびばせん……」
すっかり小さくなったヒカリが涙声で俯いた。
「全く。素材の採取に行くなら行くで、どうしてヨル君か曖昧屋が帰ってくるまで待てなかったのよ」
「だって…その、それは……」
「だってじゃないの!」
「はうう。あの、でも。でも、この森はそんなに魔獣もいないし、色んな素材の採取場所として、よく使われてるって……」
「あのねぇ。確かにこの森は普段ならそこまで危険な場所じゃないわよ。でも、今の時期だけは別なの!」
「ふえ?」
繁殖期の迦楼羅蝙蝠の危険性について説くアヤの話を聞くうちに、ヒカリの顔が青くなっていった。
「あの、じゃあ、さっきの蝙蝠は……」
「全体からしたら、一部の一部。また一部ってとこでしょうね。一説によれば、迦楼羅蝙蝠の母体は強さとしては災害級の魔獣。でも、生まれると同時にすぐ群れを生み出して消滅しちゃうから、近づきさえしなければ害はないの。誰かさんみたいに近づきさえしなければね」
「あうあう」
「それで、ヒカリちゃん?」
「はい……」
再び腰に両手を当てて、見下ろすアヤに、ヒカリは手を前で組み、俯いた。
「私は街のみんなから、ヒカリちゃんを連れ戻すように言われて来たんだけど?」
「…………」
ヒカリが、その小さな手にローブを握り締めた。
きつく皺の寄った白い布を見下ろし、アヤが言葉を待つ。
「わ、わたし……」
ヒカリは逡巡した。
言うべきことは分かっている。
やるべきことも分かっている。
これ以上、迷惑をかけちゃ駄目だ。
街の人たちも心配してる。私なんかのことを。
言わなきゃ。
言うべきことを。
でも。
だけど。
私の、言いたいことは。
私のやりたいことは。
「わたし、諦めたくありません」
意外な程力強く出た声に、自分でも驚く。
ヒカリの濡れた目には、強く火が点っている。
その目に正面から見つめられ、アヤは少しだけ目を見開き、そして細めた。
「うん、分かってる」
「え?」
ヒカリの栗毛に、アヤの手が優しく置かれた。
「分かってるわよ。ヒカリちゃんの意地っ張りは」
「あ、アヤさん?」
ぐしぐしとヒカリの頭を撫でると、アヤはすぅ、っと口の端を引いた。
「だから、お姉さんが手伝ってあげる」
「そんな。危ないですよ! アヤさんだけでも、先に帰って……」
「何言ってんの。ヒカリちゃん置いて行けるわけないでしょ」
「で、でも……」
「でもじゃないの。ほら、行くよ」
そう言ってさっさと歩き出したアヤの姿をヒカリはぽかんと見つめ。
また溢れそうになった涙をぐっと堪えると、ぴょこんと大きくお辞儀をして、小走りにその後を追った。
(いやいやいや。こんな状態の森の中一人で帰るほうが危ないでしょ。むしろ魔獣の天敵のヒカリちゃんといる方がよっぽど安全だっての。さっきの戦闘で、敵方もヒカリちゃんには手を出さないほうがいいことは分かったはず。ここは引っ付いてた方が得策だわね)
酒代のツケを質に取られて嫌々ここまでやってきた、そんなアヤの内心を、ヒカリが知る術はあろうはずもないのであった。
……。
…………。
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