第45話 城
地下牢は
明かりは片隅の皿に立てた
その近くに置いてある
ケンプは痰壷の側でしゃがみ込み、足を抱くようにしてうつむいていた。
頭をかかえるように両耳をふさいでいるが、羽虫の音が絶えず耳鳴りのように聞こえた。
扉は内側から棒をつっかえさせ、鍵を開けても開かないようにして、ずっと閉じこもっていた。
何度か、次がつかえているから早くしてくれという笑い声が、扉を叩く音とともに外から投げかけられた。
扉が叩かれたのは、一度や二度ではなかった。その音が鳴る度に、ケンプは自分自身が叩かれたかのよように体をすくめ、よりいっそう耳をふさいだ。
そんな若者の体に、薄布一枚だけを羽織ったマリヤウルフが体をすりつかせてきた。
十歳をわずかにすぎたころの幼い少女にしか見えない姿で、柔らかい肉体を押しつけてくる。
「ねえ、しよ?」
うつむくケンプを天真爛漫な笑みが見上げてきた。
しばらく陽をあびていない肌は白くなり、並んだ歯はさらに白く、抜かれた犬歯だけが黒く小さな穴を開けていた。
「あなたを、気持ちよくしたい。わたしも、気持ちよくなりたい」
たどたどしい口調だったが、そうはっきり聞こえた。
マリヤウルフの黒く大きな瞳がうるみ、小さな唇を赤い舌がなめた。
「気持ちいいわけないだろう!」
邪険に振り払おうとした手を、ケンプは空中で止めた。
新しい尿の臭いが漂ってくる。頬を赤く染めたまま、マリヤウルフは体を固くしていた。
人間のように涙を浮かべ、それでも顔を引きつらせるように笑っていた。
本能から発情していたのではない。そう躾られているのだ。
振り上げていた手をケンプは床に叩きつけた。
何度も、何度も叩き続けた。
地下牢の床は冷たく硬い。
それでも、皮膚が削れ、血が流れ、肉が裂けようとも、ケンプは拳を叩きつけた。
「……こんなことをしに、ここへ来たわけじゃ……ない」
血の臭い、その塩気。
大陸へ渡る船上で浴びた潮が思い起こされ、ケンプは鼻をつまらせた。
領主から直々に武術の型を教えられ、いくらか旅の支度も助けてもらったが、ほとんど放逐に等しい旅立ちであった。
それでも気持ちを支えていた魔物を打ち倒す使命感や、歴戦の勇者達に仲間としてもらった高揚感はあったが、それも今はすっかり消えうせてしまった。
人々を苦しめる魔物ならば倒せる。弱き者を助け、強き魔物を駆逐する。それが戦う理由だった。
だが、この少女が強き魔物だとはとうてい思えない。いや、たとえ凶悪な魔物であっても、このようなことが許されるとは思えなかった。
目を閉じて身をすくませていたマリヤウルフが、ケンプへ背後からにじりよった。
ケンプの押し殺すような声を聞いたためか。表層でしかない淫蕩な装いは消え失せていた。
振り上げられた拳を、マリヤウルフは両手でしがみつくように止めた。
ふり返ったケンプを見つめ、人形のように首を横にふり、両手で優しく握った拳へ顔を近づけた。
ケンプが声をもらす。
「痛……」
ざらついた舌がケンプの肌をなめとって、痛みがしみた。
マリヤウルフは傷口を何度もなめ、顔をあげてうなり声をもらした。
見つめてくる瞳に蝋燭の炎がゆらめいて見えた。
マリヤウルフがしなだれかかってきたが、今度はケンプも何もいわなかった。
炎が蝋燭一つしかない地下牢は冷たく、たがいの体温だけが暖かかった。
やがて皿に融けた蝋が流れて固まり、じりじりと音をたてて燃える芯が短くなった。
用意された蝋燭がつきてきた。もうすぐ夜が明ける。
マリヤウルフはケンプの肩へ頭をあずけて眠っている。
その魔物とは思えないおだやかな顔を見て、ケンプは一つ決意した。
腰へ手をやると、もともと持っていたナイフのかわりに、ソードストールの小刀がある。中庭に落ちていたものを拾っておいたのだ。
刀剣についてケンプはくわしくないが、なかなかの業物だと感じていた。
その刃は鋭く滑らかで、達人が扱えば相手へ痛みすら感じさせず切断できそうなほどであった。
「せめて、ともに死ぬか……」
ケンプのつぶやきを聞いたのか、マリヤウルフが目をこすって体を起こした。
まとっていた衣が滑り落ち、なだらかな裸体をさらした。
蝋燭の小さな炎をあび、少女の姿が暗い地下牢へ浮かび上がった。
幼い魔物を、ケンプは思いつめた顔で見つめた。魔物の少女も若者を見つめ返した。
「君を救いたい」
マリヤウルフが目をしばたたかせた。
言葉は通じないようだ。先ほどの言葉はすべて意味を知らされずに教えこまれただけのようだった。
ケンプは小刀をマリヤウルフの足枷に当て、押し引きを始めた。少女の足を切らないよう慎重に。
「皆、まだ起きて騒いでいる。夜明け前に休み始めるが、夜明け直後には出撃の準備を始めるだろう。君達の村を襲うんだ。きっと、ひどいことになる」
ケンプは口を引き結び、腕に力をこめる。
蝋燭の灯で小刀がきらめいた。ケンプは小刀の刃先をマリヤウルフに向ける。
一瞬、言葉がつまった。
ケンプはマリヤウルフを正面から見つめた姿勢で固まった。
マリヤウルフは目を細め、歯をむきだした。
笑ったのだとケンプは思った。
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