午前6時のカレーライス

北城 駿

第1話

私が妊娠してから、夫の勇司は朝のジョギングを始めた。子を持つ親として、体力をつけなきゃいけないと言って。それまでいつも出社ギリギリまで寝ていた勇司のことだから、どうせ長続きしないだろうと思っていたら、昔陸上部だった血が再び目覚めたとか、朝練を思い出すとか騒ぎながら、雨の日以外はずっと走っていた。


 何を勘違いしたのか知らないけど、私がいよいよ陣痛が酷くなって夜中に分娩室に運ばれる時も、「お前が頑張っている間、俺も頑張る」と興奮して病院の周りをランニングしてたくらいだ。もっとも、気合いが入り過ぎて1時間も経たずにへとへとになって戻ってきて、しばらく待合室のソファーでぐったりしていたと、後で私の母が呆れて教えてくれた。  


 私は5時間以上の難産でそれどころじゃなかったけど、最後は立ち会い出産で無事元気な男の子が産まれ、まあそこそこ笑えるエピソードになった。


 子どもが生まれた後も、勇司のジョギングは続いた。お酒が飲めなくて、煙草も吸わなくて、私が知る限り浮気もしたことが無い勇司。これといった趣味も無かったせいか、馬鹿の一つ覚えみたいに飽きもせず毎朝走っていた。本音を言えば、走っている時間があったら子どもにミルクをあげたり、おむつをかえたり、育児を手伝って欲しかったのだけど、まあジョギングしている時間以外は、割と育児を手伝ってくれる良いパパだったから(夫の名誉のために一応付け加えておく)、私は容認していた。


 そんな勇司が、地元のマラソン大会に出場すると言い出した時はびっくりした。すっかりその気になってネットで大会要項とか見ている姿を見たら、反対するのも可哀相だし、体力作りが目的とはいえ、毎朝走っている成果を試す目標みたいなものがあった方がやっぱり張り合いが出るのだろうと思って、私はそれも仕方なく認めた。


 但し、私と子どもに応援に来て欲しいと言うのは断固拒否した。マラソン大会は2月。冬の寒空の下に長い時間連れだしたら、赤ちゃんが風邪をひいてしまう。


 その代わりじゃないけど、一つだけ勇司からリクエストがあった。マラソン大会の朝6時、朝食にカレーライスを用意すること。


 走る前にカレーなんて食べていいのかと思ったら、夫によるとマラソンは長丁場だから途中でお腹がすいたら大変で、スタートの3時間前にしっかり食べておくのがベストらしい。


「イチローだって朝カレー食べて好成績残してるんだぜ」


 そう得意顔で言う夫に、あなたとイチローは違うし、イチローはもう朝にカレーを食べてないって女性週刊誌か何かで読んだわよって言いたかったけど、それは言わないでおいた。


 そしてマラソン大会当日。なにが悲しくて冬の日曜の朝早くに、と思いながら、私は前の晩に仕込んだカレーを温めていた。タイマーでセットしていた炊飯器からは勢いよく蒸気が噴き出している。


「よかったね、晴れみたいで」


とっくに起きてシャワーを済ませジャージを着た夫に、私は言った。さっきベランダから見たら、まだ暗い空に月と星が輝いていた。


「体調もばっちり。あとはカレーを食ったら準備万端だ」


「ちょっと大きな声出さないでよ。勇輝が起きちゃうでしょ」


愛しい我が子は1時間程前に母乳を飲んで、ベビーベッドですやすやと眠っている。周りから聞いていたほど夜泣きはひどくなくて助かっている。


「ごめんごめん。でも残念だなあ。勇輝にもパパの晴れ姿見せたかったなあ」


「だから無理だって。こんな寒い日に外に連れ出したら風邪ひいちゃうわよ」


 本当はこの後、実家の母に来てもらって勇輝の面倒を見てもらい、こっそり私だけ応援に行くのだけれど、それは内緒だ。久しぶりに勇司が真面目に走る姿を見てみたかった。 


 高校時代の私は、陸上部の勇司をずっと好きで、グランドで走るその姿を追いかけていたなんてことは絶対に秘密だ。卒業してから同窓会で、勇司から告白されて仕方なく付き合ったことになってるから。


 


 午前6時。目ざまし時計が鳴る。私は顔を洗ってから、朝食の準備をする。今朝は、前の晩に作ったカレーを温めるだけだから楽だ。タイマーでセットしていた炊飯器からは勢いよく蒸気が噴き出している。


「勇くん、起きなさい。朝ですよ」


180度回転して、枕の方に足を向けて寝ていた勇輝が、むっくりと起き上がる。


「ん……、おはようございます」


「はい、おはようございます。顔洗ってきてね」


 勇輝が顔を洗って着替えを済ませる間に、私は手早く化粧をする。10分もかからず。勇輝が生まれる前は、小1時間かけて化粧していた私を思い出すと、笑ってしまう。懐かしくもあるけど。


「勇くん、これパパに持って行ってあげて」


一人でちゃんと着替えられた勇輝に、カレーを盛った皿を渡す。


「はーい」


勇輝の小さな手が、皿からカレーをこぼさないように、そろそろと茶の間へ運び終えると、ぱたぱたと駆け戻って来た。


 あの時は赤ちゃんだった勇輝が、こうして立って元気に家の中を走り回っているのを見ると、私は胸が熱くなる。勇輝は救いだ。


「ねえママ、ボクはカレー大盛りにしてね」


エプロンの端を引っ張って、勇輝が私を見上げて言う。


「だめよ。そんなに食べられないでしょ」


「大丈夫。ちゃんと食べるから」


今度は強くエプロンを引っ張って、勇輝がせがむ。


「仕方ないわね。残さないでよ」


「わーい」


 勇輝はまた茶の間に、今度は駆けて行って自分の子ども椅子を持ってくると、食器棚の前に置いてそれに乗り、自分で引き出しを開けてちゃっかりアンパンマンのスプーンを取り出した。


 食卓の上に、福神漬けとらっきょうの入った小皿を並べる。カレーには欠かせない福神漬けとらっきょう。絶対に忘れない。カレーが大好きな勇輝は、まだチビ助のくせに福神漬けもらっきょうも好きだ。誰に似たんだか。




 今でもあの日のことははっきり覚えている。マラソン大会のあの日のこと。


「あれ、らっきょうは?」


「ごめーん、買い忘れた」


「なんだよ、カレーには福神漬けとらっきょうって決まってるだろ」


 家でカレーを食べる時は、福神漬けとらっきょうの両方をセットする。夫の面倒臭いこだわりだ。もっとも、いつの間にか私もそれに影響されて、いつも両方食べるようになってしまったのだけれど。


 でも、うっかり忘れた。福神漬けは買い置きがあったが、らっきょうは無かった。


「ちょっと俺コンビニ行って買ってくるわ」


「えー、わざわざ?」


「らっきょうが無いカレーなんて、縁起でもないわ」


 縁起でもないなんて大袈裟な、と思ったけれど、勇司は一度言い出したら聞かない。


「気をつけてよー」


「買って来るまで待ってて。先に食べるなよ」


「はいはい。待ってるわよ」


 それが夫との最後の会話になった。ジャージにウインドブレーカーを羽織って出ていく姿を見送った、それっきり。


 居眠り運転でセンターラインを超えたトラックが、勇司の車に正面衝突した。即死だった。




「ねえママ、パパはあんな小さいお皿でお腹いっぱいになるの?」


勇輝の問いに、私は我に返る。


「いつもパパはお代わりしないし」


アンパンマンのスプーンを手に、勇輝のあどけない瞳が私を見る。


どうして? なんで? と、なんでも無邪気に質問をしてくる勇輝。子どもの発想に驚いたり、その返答に困ったりすることもしばしばだ。


「パパの分も勇輝がいっぱい食べて大きくなりなさいって、パパ言ってたよ」


今の答えは丸をもらえただろうか。


「さあ食べましょう。保育園に遅れちゃうわよ」


「いただきまーす」


 スプーンを器用に持って口に運ぶ勇輝。先週カレーにした時は、大盛りを食べきれず残したけれど、今朝はきれいに食べきった。これも成長だろうか。先週よりたまたまお腹が空いていたのかな。いずれにしても、勇輝は元気に育っている。


「ごちそうさまー」


「はい。じゃあ歯を磨いてきて」


 感慨に浸る暇も無く、私は食器を片づける。朝は忙しい。そろそろ時間だ。勇輝を保育園に送ったら、私は仕事だ。


「ママ、まだ~?」


 洗い物をする私を、茶の間から勇輝が呼ぶ。慌ただしく手を拭いてエプロンを外し、私は勇輝の隣に並ぶ。


そして、仏壇で微笑む勇司に手を合わせる。


「いってきます」

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