6.穏やかなケモノたち


「ぼくらが何かを生み出すってこと、ありますかね」

イチが口を切った。

その言葉はトシに対する真摯な問いかけというよりも、始めから答えを知ってしまっていることを、特に期待もせずに口に出してみたかのようだった。

広い空と水のあいだに、その問いかけに含まれた寂しさのようなものが、よく似合った。


「あのビデオのようなものを?」

「そうっす」

「あんなふうにキレキレのものを」

「そう」

「さて、ここまでをふり返る限り、あまり無さそうな人生だな。未来にどんな運命のいたずらが待っているかは知らんが」

「トシさんは以前、ぼくらにはセンスと頭のよさはあるから、打ち込めさえすれば勝負できるものになるって言ってましたよね。本当に、その問題がでかいっす」

「根性ね」

「出自が穏やかすぎて。ハングリーになれないっすよね」

「慣らされた獣には悲しみがあるよな。まあ、獣にしても、俺らがトラだかウサギだかは知らんが」

「トラだと思いたいところですけど、まあせいぜいイタチ程度だろうってのはいい加減気づいちゃいましたよね」

「よく見積もってイタチね。悪く見積もりゃどこまででもいけるな。カメムシやミミズぐらいでもありえる」

「昆虫っすか。サイアク」

「サイアクとは言うけれど、カモぐらいまでいけたら十分に幸せなんだろうな。前にもこの池のカモを眺めていて、ずいぶん悟りの境地に達したことがある。そんなことをノートに書いたよ」

「ノートっすね。最近は、書いてます?」

「まあちょくちょく。一時期よりは減ったよ」

「減ったんすか。もったいない」

「ま、いいんじゃね。最終目的は書かなくなることだし、そんなものの存在も忘れるぐらいまで達したらずいぶん生きやすくなってるんじゃないかと思って始めたもんだから」

「どうなんでしょうね。なんか面白くないですけど」

「悟った人間なんて、他人から見たら面白くないものだと思うわな」

「焦りとか、ないですか?」

「焦りがあるから、生きづらくなる」


 トシは以前、吉祥寺でアルバイトをしていた。

夕方からアルバイトに入る前に、井の頭公園に座って池を眺めていたことがある。

カモは水に浮き、たまにもぐり、いつしか群れをなして飛び立った。

またあるカモは水面に戻り、何ということもなく浮き、たまにもぐった。停滞とくり返しだけがあり、どこにも向かわず、前進も進歩もなかった。


 そういうカモを見て、トシは人間の生活も同じなのだと納得したのだった。

トシは日本の、この東京という土地に貼りつき、ときに遠くを放浪することはあっても、ここに戻ってくることはわかっていた。

することといえば、メシを食い、仲間と笑い、ときに恋や仕事に悲喜を感じるだろう。

そして夜には眠りにつき、次の朝にはまた同じ場所で目覚める。

カモが腹を満たしたあとに眠りにつき、この池で目を覚ますのと同じように。

池の外から見たカモが何の意味もない無駄な存在に見えるのと同じように、トシの人生も何の意味もない無駄な存在である。

池の外から見たカモが何のドラマも無いながらそれはそれでなかなか大変なところもあるのだろうと察せられるように、トシの人生も何のドラマも無いながらそれはそれでなかなか大変なところもあるのだ。


 そういうことを、その日のバイト中のヒマな時間に、当時使っていたシャープ製の二つ折り型ケータイから『ゲド戦記』になぞらえた内容でツイッターに打ち込み、家に帰ってからノートに記しておいた。

思ったことを記したそういったノートは、もう四冊に達していた。

ノートを見せたことがあるのは、一年前に付き合っていた彼女と、イチだけだ。彼女はトシの内面に触れるそのノートを見ることを喜んでくれたし、イチはトシの特異な思考の辿りを興味深く感じて楽しんでくれたらしい。

人生におけるそういった人間的交流の奇跡を生んでくれたのだから、そのノートはいいものだったとトシは思っている。

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