5.アドーン


 実際、池の上は居心地がよかった。

休日にはたくさんのボートが散らばり、周囲に終始気を配りながら乗らなければならないほど混雑する井の頭池だが、平日ともなれば、ほどよく寂しくない程度に閑散としている。


 船着場を離れ、まずはトシがオールを取った。

オールが水を押しやる深い重み。

オールが動くと共に少しずつ手ごたえが軽くなりながら、オールを抜いた後にも慣性と共に舳先のほうへと進むボート。

二の腕の力み、手に響く重さと、ボートの加速、失速。

物理という法にもとづいて、物事が正しく配置され、運動する。

この世界を制約するルールの厳格さと、そのルールの中で適切に運動している自分自身に、トシは安心感を覚えた。


 船着場からずいぶん離れ、池の中心辺りから全体を広く見わたせるところまで出たところで、トシはオールを置いた。

「どうよ」

「平和っすね」

「ピースとしか言えないな」


 水は自らの動きに従ってボートを揺らし、ボートはトシとイチの重みを受けて水の揺らぎと調和し、トシとイチはボートの上で水と風に揺らいでいた。

水と風に揺らぐ二人は、空の高くに見えている雲が水面まで降りたのと同じ、すなわち靄のようなものだった。

二人にとって、風にゆらぐ木々はとりたてて親しいものになり、たまに船底に頭をぶつける鯉は、お互いに存在を意識しながらも無関係の生活を抱く隣人だった。

「ほどよく散らばった他人のボートたちがまたいいっすね。平和を引き立てる」

「間違いなく全員満足してるな」

「これ、もしかして音楽かけたらサイコーじゃないっすか」

「かけたいねー。けど、俺のヘッドフォン強力だけど、この環境でちゃんと聞こえるほどの音量出せるかな」

「何言ってんすか。アイフォンのスピーカーなめちゃダメっすよ。最大にするまでもなく、聞こえるはずです」

「マジか。考慮の外だった。それ、便利すぎるな。あれかけようぜ、あれ」

「あれっすか。ビデオのワンカット目からしびれっぱなしのやつ」

「そう、それ」

「任してください。ビデオでかけちゃいますよ」

「あれ」で伝わる共通の話題が二人にはあった。


 トシはかつて、インターネットでさまざまな音楽を大量にダウンロードし、お気に入りのものを見つけてはCD‐Rに焼いて、ポータブルCDプレーヤーと共に五十枚ほど持ち歩くという習慣があった。

それが高校生から二十歳ぐらいまでのことだ。

イチはインターネットでさまざまな動画を探してはお気に入りのものを見つけるのが趣味で、それがトシの趣味にも合うと思ったときには、フェイスブック上でシェアするという習慣があった。

ポップミュージックに対するアンテナを今ではだいぶ引っ込めてしまったトシにとって、イチがそうしてシェアしてくれるビデオや音楽は、自分の把握する圏内に無い、新しいものに触れる貴重な機会になっていた。


 近ごろ二人のあいだで興奮と共に共有されていたのは、ミゲルの「アドーン」というビデオだった。

イチに紹介されたこのビデオを目にしたとき、トシはずっと求めていたものをまったく未知の形で手に入れたような気持ちになった。

基定音のループの中に刺し込まれるハイハットのようなデジタルのシャカ音が、割れがちなほどの強度で迫るベースと交差し、静かに高揚するグルーヴを練りだす。

単純なリズムをなぞっているだけなのに感情に任せたままであるかのようなスキャットがそこに乗り、しゃっくりのようなファルセットがこのヴォーカリストのただ事でなさを予感させる。

下品なネオンに似たライティングに照らされた不潔なトイレのような景色が現れ、廊下を歩く足の横に運ばれるブリーフケースからはどういうわけか大量の水が漏れている。

画面の背景の端に映りこむ女は、黒い網タイツのようなものを頭からかぶっている。

これだけの異物によって構成された映像は、それでいて特に不調和を感じさせず、地元の駅前のレストランでパスタとグラスワインを味わうのと同じほどに落ち着いた気分で、音と映像のマリアージュを楽しめる。

抑制されたグルーヴに込められることで、熱い欲求が散漫になることなく先鋭化されている。

音も映像も、暴発寸前で、それでいて引き絞られている。

その頃トシとイチが夢中になっていたのは、そんなビデオだった。


「いいなー、この渇望感」

「こんなの音にできたらサイコーっすよね」

「音にしちゃってるところがまたさらに壊れてるけどな。求めてるなら、素直にオンナ抱けばいいのに」

「たしかに。切なさが終わらないっていう。トシさん最近、女性方面はどうなんですか」

「いやー、ない。生活の健全さを保つので精一杯だね。むしろ逆に、他人を立ち入らせたくない」

「はは、やばい、潔癖症始まってる」

「うーん、そういうのじゃないと思ってるけどね。土台を固めようとはしてるけど、それは城塞ではないっていうか。そもそもみんながやってる社会に加わろうっていうつもりで日々の生活を律しようとしてるから、それで他人と交われなくなるのは本望じゃないよねぇ」


 トシは以前、イチと二人で出かけたときのことを思い出していた。数年前のことで、イチの家のクルマに乗って、埼玉のアウトレットショッピングモールに行った。

お互いに大学に行かなくなっていた頃で、ただ外出することだけでも覚悟を伴うことだった。

あのときイチは潔癖症で、公共のトイレに入るにも気を使い、苦労していた。

クルマの中でいろいろな会話を交わしながら、トシはイチに対して、自分が世界の美しさにおののくほどの感受性を失いつつあるのを寂しく感じている、と話したのを覚えている。


 東京北部の静かな住宅街の赤信号で止まりながら、トシは助手席の窓から街路樹の豊かな緑が風に揺れるのを見ていた。

かつてのトシが景色のそこかしこに、惜しいほどの美しさを見ていたのは、かたわらにいつも死を感じていたからだった。

もしも健全であることによって時の密度が失われるのなら、病を失うこともまた大きな損失だと、ボートの上のトシは考えていた。

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