4.明鏡止水、ふたり


 トシが大学二年目のとき、所属していたサークルに、イチが新入生として入部してきた。

それから、四年が経った。

今ではサークルには通わなくなったものの、トシは今でも当時と同じ学部の三年生であり、イチも当時と同じ学部の三年生だ。

同級生たちは、とうに卒業していった。


「最近、調子いいっすよ」

 池を見わたすベンチに並んで座ったイチが、バーガーをほおばりつつ、片手で空中にリズムを刻みながら言った。

「授業出て、バイトして、本読んで、寝る。やっぱり、ピッチで刻んでいくのが一番ですね」

「だな。朝は? 起床時間は、定時?」

「定時っすね。七時っす」

「おー、理想的」

「トシさんは何時っすか」

「俺は九時ぐらいだな。一限は結局全部あきらめることにしたから」


 言いながら、トシは少し焦るのを感じる。

実際には、毎日九時に起きるという理想を実現できているわけではないから。

しかし、焦るのがもっともよくない。

こうして、できていると見栄を張ってしまうのもまたよくない。

できていない自分を素直に認めて、他人にも正直に見せていくほうがいいというのはわかっている。

「出た。まあ最初っから捨てちゃうのも、一つの手ですよね。ヘンに行こうとがんばって、中途半端にできないほうがよくない」

「四月の履修の時点では、なんか最強の心理状態にあるから、余裕でできる気がして、一限もガンガン入れちゃうけどな」

「なんなんすかね、四月のあのバーサク状態は」


 バーガーは、美味い。

マヨネーズ、ソース、ピクルス、ハンバーグ、レタス、トマト、パン。

すべてが渾然として溶け合い、ただの旨みへと帰っている。

何とも名を指し示されず、どこへも向かわない、無でありすべてであるがゆえに永遠にそこにとどまる完成態を形づくっている。

「美味えな、これ」

「悪くないっすね。フレッシュネス、やるもんでしょ」

「やるもんだ。贅沢だな」


「就活、いけそうっすか?」

「いけるっしょ。卒業に比べりゃ、難易度は全然低そうだな」

「卒業は、いけそうっすか」

「うん、見通しはたってる。胸を張って、卒業見込みと書けるよ」

「うおー、出た。いよいよ漕ぎつけた、憧れの単語」

「憧れの単語の、一歩手前な。憧れがいよいよ現実的になってきたことを示す単語。君はどうなの」

「どうだろ、まだ、現実的ではないっすね。ぼくは来年も三年っすから」

「そうか、そしたら、まだ就活を悩むときでもないわな。その前段階というか」

「そうっすね。卒業できるのかってのと、したらどうしようかってので、精一杯です」

「ま、そうだよね。そしたら、ホントに俺とほぼ同じペースで来てるってことになるね」

「そうなんですよね。七年で卒業パターン。就活は、どんなところを見ようとか、あるんですか」

「んー、業種とか職種とかまだよくわからんし、今のところそんなにこだわる気もないけど、とにかく働く場所を見つけるわけだから、働き方とか、働きやすさにはこだわりたいかな」

「具体的には」

「そうだね。早く帰れるとか、人がうざくないとか、ブラックじゃなくて、居心地いいとこ」

「それが大事っすよね」

「うん、俺は就職っていっても、キャリア的なことはもう考えないようにしようと思って。そこで働いて、お金をもらう場所を探す。そういう場所を選ぶんだって考えるようにしてる」

「わかります。ぼくもキャリア的なこと考えると、すげえやる気出てきてハイになるときもあるけど、逆にもう絶対無理だしやりたくねえみたいに欝になるときもあって、アップダウン激しいっす。たぶん、この感じじゃ、一時的には乗り切れても、長くはつづかないんだろうなって思います」

「そう、そんな感じ。こっちの計算可能性を超えてるし、そもそもそこまでそのことにアタマ使うだけの動機とかやる気も足りなすぎるんだよね」

「はは。やる気ないのが、まさに致命的」


 少し高いところから池の全体を見わたせるベンチに二人は座っていた。

遠くまで広がった池の表面は、静かな曇り空の下で風にゆらめき、水面の下を泳ぐ鯉も、寄り添って浮かぶ鴨たちも、そこから見える何もかもが、そこにあることに満足しているようだった。


 こういう時間を共有してしまうから、トシとイチがお互いに抱く親近感はさらに増すのだ。

二人はお互いに大学に通うのが下手で、卒業後のキャリアにも興味が持てないでいる。

もちろん、二人は別個の人間であり、共通するところのほうが少ないだろう。

しかし、一人で抱いているだけでは儚く消えてしまいそうな実感も、誰かと共有するのなら、それほど弱いものでもないのかもしれないと思える。


 この池の水のように、鯉のように、鴨のように、今この瞬間にある美しさを愛でることさえできるなら、ただそれだけでいい。

他に求めるものなどないと、大学の卒業が、キャリア形成が、いったい人生に何をもたらすかと。

そんな小さな実感を、口に出してはいなくても、きっと共感しているこんな時、二人は二人ともが心強いのだ。


 左手の方角からゆっくりと、トシとイチの座るベンチの目の前に流れてきたボートには、一組の男女が寝そべっていた。

「うわー、あれよさそう」

「水のゆらぎという、贅沢っすね」

「いちゃついてる?」

「いや、たぶん普通に寝そべってるだけっすよ。しかもあれ、たぶん外人っす」

「おー、ヨーロッパ系か。白人がやると、何でも絵になってしまうな」

 これは、二人のあいだで何度も繰り返されてきたトピックだった。東アジア人に生まれた二人の、身体の扱い方。

「ボート乗るか」

「乗ります。そんなに単純に行っちゃいます?」

「いいんじゃね。たぶん、気持ちいいよね」


 単純に、とイチが言ったのはおそらく、外国文化をいったん経由してしか、目の前の快楽を受け入れられない、ありふれた単純なコンプレックスについてだったが、トシとしてはその気持ちはあまり無かった。

もっと単純に、この時間を気持ちよく味わう上々の方法に思えたのだ。

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