7.蛇足、注釈


 トシとイチが二十代の青春と朱夏を過ごす、二〇一〇年代という時代について記述しておこう。

というのは、トシやイチも若き日にしばしばそうであったように、人は時代や土地について考えるのを忘れることがあるからだ。

子供とは自分の生活に夢中になるあまり、自分の生が唯一の絶対のものであると思いがちで、自分が外部的環境によって作られた、数ある受動的な創造物の一つに過ぎないとはなかなか思い当たらないものだ。


 二十一世紀に入ったばかりのこの時代において、ヨーロッパを発端として世界的に五百年ほどつづいた農業と工業の飛躍的な発展は成熟を迎え、生産面において人間はかつてないほどの豊かさを誇っていた。

物質的に生命を保つことにおいて不自由することはほとんど無いと言えるほど、生産と健康は劇的に改善された。


 また、ある歴史家によって「極端な時代」と評された二十世紀の、思想と戦争と産業が極度にラディカルになりすぎたことへの学習と反省からか、二十一世紀初頭は穏やかな中庸主義、妥協主義が主流となっていた。

何しろ、第一次世界大戦だけで、過去のすべての戦争の死者を足した数を上回るほどの人々が死んだと言われるほどであり、他方では地球の人口は二十一世紀に入る頃には二百年前の六十倍に増加していた。

また、ユーラシア大陸北部の広大な土地を舞台として、第一次世界大戦勃発と同じ年、民族や土地にもとづくのではなく、あるイデオロギーにもとづいた国家が誕生した。

二十世紀においては、たとえば「歴史的必然」のような教義的な思想が現実に信望され、イデオロギーのために人を殺すことも致し方なしというほど思想を絶対視する傾向もそれほど特別なものではなかった。


 しかし結果的には、行き過ぎた思想による相次ぐ虐殺と、思想国家の最終的な破綻によって、人々の信望は薄れていった。

思想の空回りを早くから見抜く人々も二十世紀にはいたが、その同じ人々が別の一方ではたとえば科学や技術の進歩による産業の発達を信望しており、産業が発達することに悪い側面などないと考えることもそれほど珍しいことではなかった。

その科学に対しては、公害による健康被害や環境汚染、そして核兵器への恐怖と原発事故などが反動因子となり、こちらもその万能性を信じることに疑問を投げかける結果になった。


 こういった二十世紀という時代の経験を受けて、二十一世紀初頭は、戦争に対しては平和主義、思想に対しては相対主義、そして産業に対してはエコロジー主義で臨むのが主な風潮となっていた。



 そういった世界的な歴史の潮流の中で、二〇一〇年代の日本という国は、世界の文明的な成熟の中でも、さらに先端的な成熟に達していた。

十九世紀後半に国家変革を遂げたとき、日本は産業的な面でも文化的な面でも、二十一世紀現在の観点における文明基準に照らして、ヨーロッパやアメリカに比べて大きく劣っていた。

日本は国家を挙げ、国民意識などの根本的な基礎から近代国家への変身を目指した。

それから数十年、二十世紀中庸には、それによってもたらされた産業改革と、いくつかの戦争の勝利を経て、世界の大国の一つに数えられるほどになったものの、第二次世界大戦においてアメリカとの太平洋戦争で大敗した。

ところがこの大敗の後、「戦後」と呼ばれた二十世紀後半において、当時の世界政治・経済両面における要所となった日本は、その運命の好運と、国民性に持ち合わせた勤勉さと緻密さ、また人口増加による労働力の増加と国内市場の肥大、それにアメリカの文化的、経済的な支援など、様々な複合的要因によって、アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国にまで成長した。


 二十一世紀初頭の日本は、その経済成長が成熟を迎えて停滞し、人口も減少に転じ始めた文明の爛熟期、国家の栄枯盛衰の寄せては返す波の中で、まさに今、その波が頂点を過ぎ、引き始めたところに位置していた。

トシとイチが二十代を過ごしていた二〇一〇年代の日本というのは、そのようなところであった。

つまり、二人の生活の実践的側面において最も重要なことを言うのなら、これまでに地球上に生まれたあらゆる人間が体験したあらゆる文明のあらゆる時代の中でも、はるかに飛びぬけて生きやすく暮らしやすく、物質的にも文化的にも恵まれた環境に、二人は生まれ育ったということなのである。


 さて、洋の東西を問わず、これまでの歴史の中で人間に関する洞察というものはイヤというほど重ねられてきている。

それらの洞察を踏まえると、豊かさを享受する人間のたどる行く末は二つしかない。

それはつまり、余暇と可処分所得の二つの使い方によって決まると言っても的外れではないだろう。

その二つの行く末とは、次のようなものである。


「①人間の精神の崇高さを磨き、精進するか」、

あるいは、

「②人間の精神の下卑たところを存分に活かし、欲望のしもべになるか」。

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