7 夢現
――何も見えない。
黒色。
漆黒の色。
絶望の色。
真っ暗な海の中でゆらゆらと漂っているかのような、そして徐々に海底へ沈んでいくかのような、そんな浮遊感。
目を閉じる。
すぐに上下の感覚が分からなくなる。
自分の身体が上っていくのか落ちていくのか、それもすぐに曖昧になる。
瞼が開いているのか、閉じているのか、それすらも曖昧になる。
再びゆっくりと目を開く。
視界から黒い世界が消え、再び黒い世界が訪れる。
黒が黒で塗りつぶされる。
始まりも、最果ても分からない世界。
全てが暗闇に染められた世界では、視力はその用を成さない。
そんな奇妙な世界の只中にあって、私の頭の中はすっかりと冷めきっていた。
ただ純粋な不快感、異物感。
この感覚にもいい加減、辟易させられる。
鉄のように重い首を巡らせて、果ての無い暗闇の中から『彼女』の姿を探す。
周囲にその姿を認めることは叶わなかったが、それでも確かに気配が感じられた。
「そこにいるんでしょう?」
私の呼び掛けに、尊大な同居人はようやく口を開いた。
『助けが必要だろう?』
暗闇に透き通った声が響く。
その美麗な声色に、きっと万人が魅せられたに違いない。
だが、私にとっては忌むべき悪魔の囀りであり、それ以上でもそれ以下でもない。
「舐めないで。誰がお前なんかに助けを請うものか」
『強がるなよ。加護を失えばその半身にたちどころに汚染され、そしてお前は死ぬ』
黙れ。
知った風な口を利くな。
そんなことは私自身が、今更言われるまでもないぐらいに理解している。
「いい加減、私から出て行ったらどうなの?」
『出て行ってやるさ。お前が約束を果たせたらな』
そう言って『彼女』はけたけたと愉快そうに嗤った。
私の心を、一瞬にして憎悪の瘴気が覆う。
駄目だ。
飲まれるな。
怒りの炎は時に己の一切を焼き払い、後には消し炭しか残さない。
「……お前の助けは借りない」
今一度、はっきりと告げる。
『ではここで惨めに死ぬか? 呪いに蝕まれて異形の肉塊に成り下がるか、親愛なる友人に一思いに貫かれるか。今なら好きな方を選ばせてやっても構わんが?』
黙れ、黙れ、黙れ。
私は。
私は、死なない。
どれだけ惨めでも足掻いてみせる。
泥水を啜ってでも生きてみせる。
そして、生き抜いて取り戻すのだ。
他の誰のものでもない、私自身の半身を。
「私は、死なない」
そうはっきりと言葉を紡ぐ。
それだけで、私の内に広がったどす黒い瘴気の波が、潮が引くようにさっと消え去っていくのを感じた。
ゆっくりと、閉じた世界に光が戻ってゆく。
前方から、後方から、右から、左から。
光の筋が立ち昇り暗闇の頂点に向かって収束し、そして同時に頂点から方々に拡散していく。
ふと気が付くと、弱々しい光の球体が私の眼前にあった。
手を伸ばせば掴みとれる距離に、それはあった。
『彼女』はゆっくりと呟いた。
私もゆっくりと呟いた。
――さあ、目を覚ませ。そして、死を避けろっ……!
†
目を見開く。
それとほぼ同時に、咄嗟に右手を前方に伸ばした。
まるで、あらかじめそう決めていたかのように。
右胸を貫かんとしていた槍の穂先は、掌を貫通し私の生命を穿ち切らぬままにその動きを止めた。
「――っ!!!」
思わず声にならない悲鳴が漏れる。
あまりの痛みに再び意識が途切れそうになり、思いっ切り唇を噛んでそれを押し止めた。
とんでもなく痛い。
だが、考えてみれば全身どこもかしこもこんな調子だ。
今更、どこかが多少傷んだところで大した違いは無い。
それに、痛いということは私がまだ生きている証。
痛覚があるうちはまだ戦えるということであり、まだ生きられるということだ。
瞬時に、可能な限り状況を整理する。
利き手は――見ての通りの有様で、とても使い物になりそうもない。
一方の下半身はというと、目一杯に力を込めても右足が僅かに痙攣するだけで、それ以上はピクリとも動かなかった。
なるほど状況は絶望的だが、それでも配られたカードで何とかするしかない。
幸いにも、まだ私の思考は十分過ぎるほど働いている。
先程までの忌々しい幻影と、尋常でない痛みが、奇しくも私に驚くほどの平静をもたらしていた。
ふと思いがけず、私の思考は一つの疑問に辿り着く。
彼女は心のどこかでまだ躊躇しているのではないのか?
彼女が本当に私を殺すつもりなら、躊躇わず左胸を狙っていたはずだ。
彼女にまだ迷いがあるのなら、まだ付け入る隙がある。
「……」
「つくづく甘いわね。何故、心臓を狙わなかったの?」
止めどなく流れ出る血が物珍しいとでもいうのか、ただ呆けるように私の掌のあたりを眺めていた彼女は、私の言葉で我に返ったかのように慌てて穂先を引き抜こうとした。
「――待って」
私が制止すると、再び彼女はその動きを止る。
「この身体じゃ、当分の間は動けそうもないわ」
「……ええ。……何か言い残すことはある?」
彼女は、それまでの態度が嘘のように、驚くほど素直な反応を見せた。
その声はとても穏やかで、どこか懐かしい思い出のようだった。
「このまま焼け死ぬのは嫌。だけど無機質な得物に殺されるのも御免だわ」
今度は答えない。
だが、彼女の返答を待たずに私は言葉を続けた。
「分かるでしょう? どうせ死ぬなら貴女の手で殺して欲しいの」
地面に視線を泳がせて見せ、それから真っ直ぐに彼女の目を見据えた。
お互いの視線がぶつかり、そしてしっかりと交錯する。
彼女の瞳に映る自分の姿がまるで質の悪い道化師のように見えて、酷く滑稽に思えた。
彼女は一瞬だけ何かを思案するような素振りを見せたが、その顔にはすぐに物憂げな表情が浮かんだのを私は見逃さなかった。
そうして、左手から槍を手放すと、片膝を付いて私の眼前に跪き両手をゆっくりと私の首に掛けた。
彼女の両手に徐々に力がこもっていくのを感じる。
彼女の息遣いがとても近くに感じられる。
彼女の身体はすぐ目の前にある。
――彼女は、手を伸ばせば簡単に届く距離にいる。
そう確信して自身の後ろ腰に素早く左手を回し、鞘から短刀を引き抜く。
四本目。
最後の短刀を左手にしっかりと握り締め、横に薙ぎ払った。
相手が常人であれば、それで決着が付いていただろう。
だが、彼女は左手で槍の柄を掴んで私の手から穂先を引き抜くと、すんでのところで身を躱した。
私の渾身の一手は、肉の代わりに槍に結い付けられた布切れを切り裂いた。
背後に飛び退き間一髪で難を逃れた彼女は、再びこちらを見据えると信じられないというような表情を浮かべた。
「いい顔じゃない。その方があんたにはお似合いだわ」
「ラムっ……! 貴女っ……!」
「いつまでもそうやって過去に縛られているがいいわ。哀れなお嬢さん」
彼女の顔が激情に歪む。
ようやく彼女の人間らしい顔が見られて、私は何だか少しだけ安心した。
「……最後にもう一度だけ聞くわ。言い残すことは?」
「……ん……よ」
「――え?」
「時間切れよ」
「貴女、何を――」
彼女が言い掛けたところで、聖堂の扉を蹴り破る音が聞こえた。
「ラム! 無事なの!?」
立ち昇る炎の向こうから、本来の待ち人の声が聞こえた。
遅いのよ、この間抜けめ。
厚顔な遅刻魔にも聞こえるぐらいの大声で叫んでやりたかったが、声を出そうと少し力を入れただけで腹部が痛んだので、残念ながらそれは叶いそうもなかった。
リダが何やらぎゃあぎゃあと喚いている声に混じって、何人かの声が聞こえてくる。
それで建物の周囲に街の人々が集まり始めているらしいことが分かった。
「まだ続けるつもり? 今ならあんたを道連れにすることぐらい出来そうだけれど」
黙って聖堂の入口に顔を向けていたフュミーにそう言うと、彼女は目線だけをこちらに向けた。
私達は、相変わらず煌々と燃え盛る火の手に包まれていた。
「……」
彼女は黙っている。
その表情は、憎々しさに溢れたものにも見えたし、悲哀に満ちたものにも見えた。
それは一体、彼女のどんな感情を表したものなのだろうか。
彼女は外套を目深に被ると、私がその難問の正答を見付けるまで待つこともなく、踵を返し炎の向こう側に消えていった。
アナクロニクル -The Tale of MONOCHRONICLE- @hisashi_tamotsu
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