6 決別

「だったら何だと言うの?」


 分かりきった無意味な問い掛け。

別に、彼女に望んでいる答えがあるわけじゃない。

ただ、沈黙が嫌だった。

何か言葉を紡がなければ、取り返しのつかないことになるような気がしたのだ。


「よく考えて発言なさい。何が貴女の遺言になるのか分からないのだから」


 彼女がそう言うと、聖堂内の重苦しい空気がさらにぴんと張り詰める。


――ああ、彼女は本気で私を殺しに来るのだろう。


 途端、私の脳裏に例えようの無い喪失感が広がった。

何か大切なものを仄暗い井戸の底に落としてしまったような故の無い感覚。

ただ、思考の大半をそんな感情に支配された中でも一つだけ確信出来たのは、この場で彼女と本気でやり合うのはとんでもない悪手だということだ。

危険を冒すべきは少なくとも今この時ではない。


 考えろ。

目一杯に知恵を絞れ。

この場を切り抜けるには一体どうすればいい?


 身体中の血液が瞬く間に沸き立ち、体温が一気に上昇するかのような感覚。

暗闇の中で一筋の光明を求めるかのように、懸命に思考を巡らせる。

だが、その解が導き出されるよりも先に、私の身体は動いていた。


「――ふッ!」


 先手必勝とばかりに外套のその内側、腰元にぶら下げていた短刀を掴み投擲する。

彼女はさして慌てる様子も無く、左手に握った長物から素早く嚢を剥ぎ取ると横一文字に薙ぎ払った。

私が投じた短刀は彼女の一閃に弾き飛ばされ、緩々と回転しながら聖堂の壁に突き刺さった。


 鮮やかな銀灰色の槍頭に黄金色の柄、そして柄の部分に結い付けられた大きな旗にはさぞ丹精を込めて刺繍されたのであろう正教会の紋章。

恐らくは、教会からの贈られた旗槍に違いない。

中央の犬め、と心の中で毒づく。


 だが、悠長に逸品の品評をしている暇は無い。

手持ちの短刀は四本。

うち右腰にぶら下げていた一本は、つい先頃に呆気なく喪失した。

残り三本を使い果たす前に眼前の敵をどうにか御さなければならないのだ。


 間髪を入れずに、手近な燭台の一つを彼女に向けて渾身の力で蹴り飛ばす。

それと同時に二本目の短刀、左腰のそれを彼女へ向けて投擲した。

正確には彼女の頭上に。

遅れて金属のずしりとした衝撃が足の甲を貫く感触と共に、右脚に鈍い痛みが走った。

だが、構いはしない。

こんなところで殺されることに比べたら、この痛みの方が幾分かましだ。


 彼女は一瞬虚を突かれたような反応を見せたが、ただならぬ危険を察知したのか瞬時に後方へ大きく飛び退いた。

直後、燭台は彼女の元いた場所を直撃し、それに呼応するように聖堂のシャンデリアが彼女のすぐ前方にけたたましい音を立てて落下した。

燭台とシャンデリアは無残にひしゃげ、それまで室内を健気に照らしていた蝋燭が辺りに四散する。

周囲に散らばった蝋燭の炎は、床の薄汚れた絨毯にたちまち引火した。


「姑息なっ……」


 彼女は呟くようにそう口にして、軽蔑の眼差しを浮かべながら表情を歪ませた。

……外したか。

いや、これでいい。

元より、小細工を弄した程度でどうこう出来る相手だとは思っていない。

今は可能な限り時間を稼ぐ。

それが何にも増して優先すべきことだ。


「あら、惜しいわね。間抜けなあんたのことだから無様な姿を晒してくれるかと思ったのに」


 挑発の言葉に彼女は応じない。

その代わりに、得物を掴む拳を一層強く握り締めるのが見えた。


――来る。


 私がそう認識した刹那、彼女が右足で地を強く蹴った。

かつてシャンデリアだったものの残骸を易々と飛び越え前方に駆ける。

瞬きをする間もない程の速さでこちらに肉薄すると、流れるような動きで刺突を繰り出した。


――喉かっ!


 喉元への刺突を、後ろ腰の鞘から取り出した短刀で受け流す。

右の頬すれすれのところを長槍の刃が通り過ぎ、遅れて、きぃぃぃん、と耳をつんざくような金属の衝突音が響いた。

相手の殺意を疑っていたわけではないが、それでも躊躇なく上半身、それも喉元を狙って来たという事実に少し動揺する。

僅かでも気を抜けば、間違いなく


 だが、そう悲観することもない。

間合いの長さではこちらが圧倒的に不利だが、幸い相手との距離が近付く程、得物の取り回しという面においてはこちらに利がある。

すかさず姿勢を低く落として懐に滑り込もうと試みたが、彼女はそんな私の考えを嘲笑うかのように素早く後方に飛び退いた。

だが、こちらの追撃は許さない。

後退の勢いそのままに、今度はこちらに向けて再度跳躍した。


 一撃、二撃、三撃……。

立て続けに繰り出される刺突を短刀でいなす。

短刀と長槍の刃が衝突し擦れ合う度に、耳障りな高音が室内に幾度も反響した。


 彼女の繰る刺突、その安全域と危険域の境界が見切れない。

どう考えてもそこが長槍の間合いの限界だと、私の感覚は間違いなくそう告げている。

だが、彼女の刺突は、私の目測を更に一つも二つも裏切ってくる。

だから、その全てに応戦し、迎撃しなければならない。

どの攻撃が誘いなのか、あるいは致命傷に成り得るのかが見極められない。

それ故に、その刃が私の身体を正に切り裂かんとする直前まで引き付けねばならない。

その事実が、予想以上に私の消耗を早めていた。


 大丈夫、大丈夫だ。

己に言い聞かせるように、奮い立たせるように繰り返し反芻する。

攻め気の一切を捨てて、防御だけに集中すればどうにか凌ぎ切れる。

現に、彼女の長槍はただの一度も私の肉体に届き得ていないのだから。

それに、最悪でも致命傷さえ避けられれば問題ない。


 私の前方、もとい彼女の背後では、すっかりと勢いを増した炎が赤々と燃え盛っていた。

蝋燭の上で健気に揺らめいていた小さな炎の姿が、今ではえらく懐かしい。


「ほら、時間が無いわよ? このまま二人で仲良く灰にでもなるつもり?」


 堪らず後方に逃れて距離を取った隙に、ささやかな抵抗とばかりに陳腐な煽り言葉を投げ掛ける。


「……貴女の言う通りだわ。ええ、そろそろ決着を付けましょう」


 そう言い終わるや否や、三度力強く地を蹴ってこちらに駆けた。

馬鹿の一つ覚えだ。

この期に及んで、猪突猛進だけでどうにかなると思っているらしい。

傲慢な彼女を迎え撃つべく身構える。

いかに相手の攻撃が速かろうと、端から守りに徹するつもりでいれば呆気なく後れを取るほど私は軟じゃない。


 彼女は瞬く間にこちらの眼前まで詰め寄り、馬鹿正直に喉元への刺突を繰り出した。

馬鹿正直。

それこそが正に傲慢だったのか。


 しまった――。

そう気付いた時には既に手遅れだった。

槍の穂先を迎え撃とうとしたその瞬間、彼女は得物を天秤の様に反転させ、そのまま無防備な身体に石突を打ち込んだ。

槍の柄が私の腹部に深々とめり込み、次の瞬間に私は身体二つか三つ分ほどの距離を後方に吹き飛ばされていた。


 祭壇に背中から衝突し、例えようの無い衝撃が全身を貫く。

腹から熱い鉛がせり上がってくるかのような耐え難い嫌悪感に堪らず咳き込むと、口からは血液と胃酸の混合物らしき赤黒い塊が飛び出し、目の前の床にべちゃりと付着した。

景色がぐるぐると回転している。

もはや、自分が立っているのか座っているのかすら判然としない。


 まずい。

本当にまずい。

とにかく、とにかく、立ち上がらなくては。

それが出来なければ、本当にここで――。


 あらゆる思考回路が全霊で警告を発していることを自覚しながら、私の世界は真っ暗に閉じていった。

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