5 再会
背後から聞こえた来訪者の音に、私は聖女像を見据えたままゆっくりと立ち上がった。
自分だけの秘め事を覗かれたような気分で、何だかバツが悪い。
リダとの約束には、まだ随分と早い時分のはずだ。
いつもは時間を守る方が珍しい癖に、こういう時だけは空気を読まないのだから始末に負えない。
どんな軽口で出迎えてやろうか。
そう思案し聖堂の入口のほうへ顔を向けようかとした刹那、背中越しに感じる気配に決定的な違和感を覚えた。
背後から確かに聞こえた、息を飲む音。
祭壇から聖堂の入口までの距離は、おおよそ三十歩か四十歩といったところだろう。
だから、勿論そんなものが聞こえるわけはない。
それでも、私には何故かはっきりと聞こえた。
違う。
リダじゃない。
たった今、この尊い時間を無作法に侵犯せしめたのは、私の待ち人ではない。
そういう直感。
そして、その直感は恐らく確信に近かった。
幼い頃、私はいつも夜遅くまで母の帰りを待っていた。
母が帰るまで決して眠るまいと睡魔と格闘するのだが、戦いは決まって私の負け。
だが、どれだけ深い深い夢の只中にいようとも、階下から感じる微かな母の気配にいつも目が覚めた。
僅かな衣擦れの音、階段を上る時の微かな足音、そしてゆっくりと私の部屋の扉を開ける音。
母はベッドの隣まで静かに歩み寄る。
そして、私の姿を見下ろす。
そんな時、私は決まって狸寝入りをするのだ。
どうしてそんなことをしていたのかはよく分からない。
なんとなく、自分の努力を無下にされた気がして悔しかったのだろうか?
今思い返してみれば、なんとも哀れで馬鹿らしいが、つまり今しがたの感覚はそれと同種のものだ。
脳裏に染み付いた雰囲気、気配。
それは、望むと望まざるとにかかわらず、空間を共有するだけで確信の出来る類のものだ。
たとえ距離が離れていようとも、背中越しであろうとも、私にはその人物が誰なのかはっきりと分かる。
そして同時にもう一つ確信を持って言えることは、私は彼女との再会を望んではいない。
今日何度目かの溜息をついて、私は振り返った。
「――久し振りね」
私が口を開くよりも先に、彼女は静かに言った。
ここからでは、その表情までを窺い知ることは出来ない。
だが、その凛とした声色からは、少なくとも動揺や狼狽といったものは感じられなかった。
「誰かと思えばフュミーお嬢様じゃないの。ロンデニウムは貴女のような高貴な人間の来る場所じゃなくてよ?」
「私はこの街を蔑んだりはしない。今も、そしてこれからも。だから無用に自らを卑下する必要はないわ」
彼女はこちらに歩みを進めながら、大真面目な顔で言った。
相変わらず皮肉の通じないやつだ。
「寛容な客人を手厚く歓迎してあげたいところだけれど、生憎、こっちは待ち合わせ中でね」
「気遣いは無用よ。時間は取らせないわ」
「……分からない奴ね。さっさとここから消えてって言ってるの」
明確な拒絶の言葉を意に介す様子も無く、彼女は尚もその足を止めようとはしない。
私と彼女との距離がみるみる縮まっていく。
「それ以上は近付かないで!」
語気を強めると、彼女はようやく私の言葉に従ってその場に立ち止まった。
急に怒鳴りつけられて驚いたとでもいうのであればまだ可愛げもあるが、まさかそういうわけでもあるまい。
いたずらに標的を苛立たせて目的が果たせなくなることを嫌った、単にそれだけのことだろう。
私から彼女までは約十歩。
それが、彼女の接近を許容出来る限界の距離だった。
「ラム、貴女に聞きたいことがあるわ」
「貴女の下らない質問に付き合っている時間はない」
「ひと月ほど前、ロムルスのガリエラ卿が殺されたわ。彼の屋敷が何者かに燃やされ、焼け跡からは彼とその家族全員の遺体が見付かった」
「へえ、なんとも物騒なことね。でも、そんなことは日常茶飯事でしょう? こと権力闘争に関しては、貴女達は蛮人と大差無いもの」
私の声を無視して、彼女は言葉を続ける。
「半月前にはルティーティアのロベール卿、そして先日はフィッツ卿。共に手口は同じ、焼け跡には無残な死体だけが残された」
彼女は裁判官にでもなったつもりだろうか?
なら、これは尋問か何かか?
「私がやったとでも言いたいのかしら? とんだ言い掛かりだわ」
「一見、彼等は互いに無関係に思える。でも、私は彼等にある共通点を見付けた」
「当ててあげる。趣味は火遊び、違う?」
我ながらなかなか気の利いた洒落のつもりだったが、彼女は眉一つ動かさない。
私のほうを向いたまま、ただ淡々と言葉を紡ぐ。
「彼等の膨大な数に上る通商記録を調べたわ。そして、数年前から続いていたある武器取引の記録に辿り着いた」
もう、その後に続く言葉は聞くまでもなかった。
「それらの取引は全てアムステルに繋がっていたわ。そして、その先は――」
それまで淀みなく言葉を吐き出していた彼女が口籠る。
そうして、躊躇うように顔を伏せ視線を泳がせたが、すぐに意を決したように視線を上げた。
「――彼等は秘密裏にロンデニウムへ武器を提供していた」
彼女のその言葉を聞きながら、私は内心で確固たる決意を固めた。
肥溜めの糞尿にも劣るリダという無能な女を、泣き喚いて私に許しを請うまでしっかりと調教してやらねばならない。
もっとも、それもこの場を無事に生き延びることが出来れば、の話だが。
「……話はそれだけかしら? 妄想も結構だけれど、そこまで大言を吐くからにはそれなりの覚悟が出来ているんでしょうね?」
虚勢に見えたかもしれない。
ただ、もはやそれを取り繕う余裕も無かった。
彼女は再度、何かを噛み締めるように顔を伏せる。
そして、僅かな逡巡の後にはっきりと顔を上げた。
彼女と視線が交錯する。
その瞳に宿る光は、今日最も気高いもののように私には思えた。
「貴女は叛逆者よ、ラム。いえ、ロンデニウムの『先導者』」
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