第5話待ちに待った練習

翌朝は空には雲一つなく、澄みきっていて、なぜだかいつもより遥かに高く感じられる日でした。団長は窓から差すうららかな陽の光にさわやかに目が覚めると、顔を洗いながら素晴らしいトランペットの演奏を思い浮かべていました。いつもよりやや少なめに朝食をとってから、団長はさっそくトランペットを手に取りました。

しかし改めて見ると本当に美しいトランペットだな。鏡の様に団長が写ります。団長はそっと口をつけて、ゆっくり一音一音を確認するかのように吹いていきます。なんだかごく普通のトランペットの音色がします。まあ今から愛情を吹き込むのだから、当然と言えば当然か。それからたっぷり二時間はかけてコンクールでの課題曲も含め、音に心を乗せながら、団長は吹いていったのでした。

団長が練習場に着いたのはいつもより遅れた時間でした。団長が遅れて来ることなど珍しかったので、皆何かあったのですかと尋ねたそうでしたが、それよりも団長が手にしている立派なトランペットのケースに興味があるようでした。団長は皆の前に出ると両手を大きく打ちつけてならして

「皆さん、日々切磋琢磨しながら、今度のコンクールに向けて練習をしているのは、楽団の一員としてまさにあるべき姿です。より一層の技量の高みにのぼるため、今日は素晴らしい楽器をお持ちしました。いつも朝一番にやって来て、練習を始め、夜は一番最後まで楽器の手入れをして帰る。そんなトランペット奏者の彼に私から素敵なトランペットをお貸ししましょう。」

まだ実際に老いたラッパ吹きが演奏をしていないにもかかわらず、団長の頭には感慨深いメロディーが響いています。胸を張りながらラッパ吹きのもとへ近づき

「さあ、君のいつもの絶えまない努力に私からのささやかなプレゼントだ。心置きなく演奏しておくれ。」

老いたラッパ吹きは、団長から差し出されたトランペットを僅かにだけ見てから

「僕にはいつも自分で大切にしているトランペットがありますので。」

とだけぶっきらぼうに言うのでした。

「いやいや、君が自分のトランペットをとても大切にしているのは知っているよ。ただたまには気分を変えてみるのも良いものさ。それにこのトランペットは何よりも優雅な音を聞かせてくれるよ。」

「結構です。自分自身が日々大切にしてきたパートナーに勝るものなどありませんから。」

「まあ、そう言うな。とりあえず、今日一日使ってみてくれ。分かったな。」

ラッパ吹きがそれでもトランペットを受け取ろうとしないと

「いい加減にしろ。これは私のお前への厚意なんだぞ。」

団長はせっかくお前の為に用意してやったのに、全てはお前が下手くそなせいなんだぞと、怒鳴りつけてやりたい気分でしたが、いくらかイラついた声で言うに留めました。

さて一通り朝礼を終えると、楽器ごとに分かれての練習です。団長が心待ちにしていた瞬間です。いつもは全ての楽器の練習を均等にくまなく見て回るのですが、今日だけは、金管楽器の練習に付きっきりになるつもりです。団長は意気揚々と見に行ったのでした。

部屋に入ると、でたらめにおもちゃ箱をひっくり返した様な大きな音が耳に襲いかかります。いつも以上に叩きつけるがのごとき、耳に響く外れた音がします。言うまでもありません。あの老いたラッパ吹きの仕業です。しかも音量がいつもより大きい有様とは一体何事でしょうか。

団長はラッパ吹きの頭上にある柱の木目を眺めたまま、しばらく口をあんぐりと開けていました。そんな馬鹿な。確かに溢れんばかりの愛情を注ぎ込んだはずなのに。まさか騙されたのだろうか。いいや、そんな嘘を言う必要なんてないはずだ。結局、その日のラッパ吹きの壮大かつ狂った一人芝居かのような演奏は、楽団員の耳からも、団長の耳からも当分離れそうもありませんでした。





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