第13話

「――こんばんは、トオルさん」


 その夜も、彼女はいつものように、白い空間のなか、静かに僕を待っていて。

 そして、僕が現れた気配を察したのか、不意に僕に笑いかける。


「……やぁ」


 そして僕もいつも通りに――と思ったのだけれども、自分でもわかるくらいに答える声には気力がなくて。そして、それを聞いた彼女が訝しげな顔をして。


「……どうかしたんですか?」


 と、そんな風に声をかけてくる。

 それがいつものような冗談めかした様子ではなく、むしろ本気で心配するような感じで、少し困ってしまう。


「まぁ、うん、……少し疲れただけだから、そんなに心配しなくても大丈夫、かな」

「はぁ。……なんだかわかりませんが、何でもないというなら」


 曖昧にそう答える彼女は決して納得したという風ではなかったが、しかし取り敢えずそれは気にしないことにしたらしく、それ以上の追求はなかった。

 それから彼女はふと思い出したようにして。


「……そう言えば、今日の解答、まだ聞いてませんでした。……どうでしょう」

「あー……」


 そう言われて、僕は言葉に詰まる。


「……ごめん、実は今日、ちょっと色々あって……まだ考えてない」


 その言葉は、決してまともなものが思いつかなかったゆえの言い訳、というわけではなく、純粋な事実で――というのもそのまま言葉通り、そういったことを考えている余裕がないくらいには、とにかく今日は大変だったのだ。

 故にそう答えて――正直なところ、ここ数日の会話はほとんど名前の話から始まっていたわけだし、そういうリズムを崩してしまったことで彼女にまだ冗談めかした文句の一つでも言われるかと思ったのだけれど。


「……そうですか。まぁ、もともと、最初に答えなければいけない、なんて決めているわけでもありませんしね」


 しかし予想と裏腹に、そんなことを言われて拍子抜けをする。


「……どうかしたのか」


 ついそう聞いてしまってから、さっきと逆の状況だな、なんてふと思う。


「……何ですか急に」


 そう問い返す彼女だけれど、どうにもその返答が不自然に遅い。その不自然さが、「気のせいならいいんだけど」と言うのを一瞬躊躇わせる。

 そして、間を読むのに長けた彼女は、それだけで誤魔化しきれないと悟ったらしく、小さく肩をすくめて嘆息する。

 それから、皮肉気に。


「いつも他人のことなんかどうでもいいみたいに振る舞っているのに、どうして今回は変に鋭いんですか」


 いつもの揶揄うようなそれというより、寧ろ刺々しくそんなことを言われて、流石にそれは否定――しようとしたのだけれど、コンビニと家を往復するような生活をしていた頃のことを思い出して、誰かに対して興味を向けていたというような記憶が浮かんで来なかった。


「……そう言うってことは、やっぱり何かあったってことかな」


 だからそこには言及しないことにして、代わりにもう一方に触れる。

 すると彼女は、余計に苦々しい顔になって。


「……ごめんなさい、少し悩んでいて、それで八つ当たりをしました」


 そう言って頭まで下げようとする彼女に僕はにわかに慌ててしまう。確かに、初めて会った時を思わせる程度には、今の彼女はやや攻撃的だとは思ったが、それだって元々何か特別なことがあったわけではないし、初めから自分のことをそんな気を使われるに値する人間だとは思っていない。

 妙に居心地が悪くなって、だから僕は空気を変えるべく先を促す。


「えっと……それで、その悩みって」


 少々の焦りによって若干切り込み気味に放ってしまった僕の言葉を、彼女はフラットな表情で受け止めて、思案げにする。

 それから、少し間を開けて。


「……美しい、って、どういうことだと思いますか」


 不意に、そんなことを口にした。


 しばらく、彼女の言いたいことが理解できなかった。

 そんな哲学的な命題がこの場で突如話題に上ったことの意味が解らなかったし、それに前にも一度似たようなことを言っていて、なぜそれを今になって――と。

 そこまで考えて僕は不意に、ある可能性に思い至る。


「……まさか」

「はい。……多分もう、それほど時間が残っていないみたいなんです」


 そしてその、まさに今考えていた「まさか」が彼女の口から告げられて、僕は戸惑ってしまう。

 それは、確かに、彼女と出会ってからそれなりの時間は経っているはずだけれど、それだって彼女から告げられた三週間という期間にはまだ届かない。むしろまだ二週間にも及ばないというのに。


「……まだ、時間はあるんじゃ……三週間、って話だったと思うんだけど」

「そのつもり、だったんですけど……どうやら、少し早まってしまったみたいで」


 淡々とした彼女の口調が、それがもうおそらく揺るぐことのない事実なのだと、かえって実感させて。

 そして、僕は咄嗟のことでどうにも言葉が継げずにいて。


「……ごめんなさい、やっぱり早く言うべきでしたよね」


 けれどそう言って、心なしか悲しげな顔を見せる彼女の様子に、ふと我に返る。


「あ、いや、確かにちょっと驚いたけど、別に僕に不都合がある話でもないし――」


 それに、きっと――それがなぜかは知らないけれど、期間が短くなって一番困っているのは、きっと彼女自身だろう。

 そのことがわかっていて、けれどそれを案じるだけではない感情もどこか、僕の中にあるような気がしていたが、それは心の片隅に押し込めて。


「そう、ですよね」


 けれど彼女は、僕から責め立てられることがないとわかっても、気が軽くなったような様子は見せなかった。——当たり前だ。

 だって、彼女が先ほど聞いた質問、それが僕の思っている通りの意味なら――彼女は、残り少ない日数の中で、自らの見たいものが美しい、と感じるだけの感性を習得しなければならないということで――そしてその事実は、僕のこととは無関係に未だ彼女を急きたてているのだから。


「……具体的に、あとどれくらい、時間が残ってるんだ」

「……このままの予定だと、残り三日、でしょうか」


 その、予想をはるかに上回る短さに僕は愕然とする。

 残り一週間以上あるはずだったところがあと三日、というわけでも短いのに、更に僕らは一日おきに視覚の貸し借りをしているわけなのだから、実際に彼女が『見る』ことができるのは、あと二日しかないのだ。


「じゃ、じゃぁせめて、残りの三日はずっと――」

「いいえ」


 ずっと視覚を借りておけばいい。そう提案しようとした僕の声は、彼女温度のない声で遮られた。

 そして、切実そうに、彼女は細切れの言葉を紡ぐ。


「……きっと、日数の問題でも、……時間の問題でも、ないんです。……初めて視覚を借りたときから、考えられる限りのことは試したんです。……行ける範囲で、観光地を巡ったり、景色を眺めてみたり……美術品とか、宝石だって、綺麗って言われるようなものには、できる限り触れて。……それでも、わからないんです。綺麗って、美しいって、……一体、どういうものなんですか」


 そう語る彼女の様子は、その憔悴したような声は、悲愴、という以外の何物でもなくて。

 そんな彼女に、昨日言われたことをふと思い出して。

 けれど、見えるものを大事になんてしていなかった僕が偉そうなことを言う資格はあるのだろうか、なんてことを考える。


「……僕の話でも、構わないかな」


 その言葉に、彼女はどこか縋るような表情を浮かべて。


「……はい、お願いします」


 そう言って、それきり口をつぐんで、じっと僕の言葉を待つ。

 それを見ながら、僕は彼女の言葉を思い出す。

 そうして――言葉は、遠回りしながら現れる。


「えっと……昔、美術の資料集か何かで有名な画家の絵を見たんだけど、僕は別にそれを綺麗だって思わなかったんだ」


 その言葉に彼女が、不意を突かれたとでも言うように声を漏らす。


「……勿論、その絵が有名になる理由だってちゃんとあるんだろうし、わかる人が見ればきっとそれはこれ以上ないほど美しいのかもしれない。……でも僕には、そのパッチワークみたいな絵の良さなんてわからなくて、それよりもそこら辺の店にかかってる、名前も知らない人が描いた風景画の方がまだいい、なんて思ってた」


 彼女が僕の言葉に耳を傾けているのがわかる。不意に自分の感情的な部分が、見えるものを大事にする気がなかった奴が何を、なんて言葉を僕に言おうとする。けれど、あるいはそんな僕の言うことだから、意味があるのかもしれない、なんて思う。


「昔、遠足か何かで、無理やり登らされた山の上から見下ろす景色は、確かに壮大ではあったけど、だからって綺麗だとか美しいとか、そういうことは感じなかった。水槽の中でライトを浴びて漂うクラゲを見て、こんなものか、って思った」


 それから、僕は少し気合を入れて頭を巡らせる。


「……でも。例えば、どこかから帰る途中で見上げた空とか、そこに浮かぶ雲とかをみてふと、いいな、って思う瞬間とかがあったり、……えっと」

「……思いつかないなら、無理に言わなくていいですよ」


 ここまでだいぶわかったような口をきいていた相手に対する期待の裏返しなのだろうか、言葉に詰まった僕にそう言う彼女の声は絶対零度の様相で。

 それをちょっと怖いと感じつつも、僕は言葉を続ける。


「それでも、登山家が山の上から見る景色は最高だ、って言ったりするし、クラゲの水槽を見るためだけに小さい水族館に人がいっぱいやってきたりする。……ひどい例だと、凶悪殺人犯が人を殺した理由を聞かれて、血の色が綺麗だから、なんて答えた例があった……ような、気がする」

「……なんですか、それ」


 責めるように――それは、いつもの冗談というより、言葉通り、妙なことを言い出した僕を咎めるように――彼女は、そう言って。


「えっと、つまり」


 その言葉に、僕はやや焦りながら続けた。


「……美しい、の基準は、結局人それぞれなんだよ」


 そうしてみれば、色々回り道して出てきた言葉は、結局その程度のもので。


「……だから、なんですか、それ。それくらい、私だって」

「つまり、その、――焦らなくてもいいと思うんだ」

「焦らなくて、って、そんなことを言っても、あと三日しか――」

「じゃなくて。……誰かが言う、『美しい』って言葉に、振り回されなくてもいいんじゃないかな、って」


 その言葉に、彼女が虚を突かれた、というように黙り込む。

 どうにもうまくいかないな、と僕は思う。彼女が「簡単なことですよ」という、その一言で僕に伝えたそのことを、逆に僕が伝えるためには、こんなにも言葉が要るのだと。


「……振り回されて、って、そんな、私は」

「自分では何もわからないことの基準を、外に求めてしまうのは、きっと普通のことなんだと思う。……でも、それは、あくまでも基準で、必ずしもそうじゃなきゃならない、ってことはないと思う」


 言いながら、自分でちょっと笑えてくる。口から出てくる言葉の数々は、いつの間にかほとんど彼女に言われたことを返しているだけになっている。


「だから、きっと、周りの言うことなんて、せいぜい参考くらいにしかならなくて、むしろ、自分が好きだな、って思うこととか……それもわからなかったら、ただ何となく目に留まったとか、そういうことの方がきっと大切で――『美しい』って思わないといけない、なんて思って焦る必要は、きっとないんだよ。誰かの言う物だって、もっと言えば――君の『見たいもの』だって」


 そう締めくくって、僕は彼女の様子を窺う。

 多分、伝えるべきことは伝えたと思うのだけれど、それでも正直不安はあった。自分で言っておいてなんだけれど、どうにも周りの感覚が掴めなくて迷っていたということに関しては僕だって同じで――というより、屈折具合に関しては僕の方がよっぽど酷い。そういう意味では「どの口が言うんですか」なんて言われたっておかしくはないだろう。


「……ひどいことを、言うんですね」


 けれど――いや、確かに、彼女からはまた咎めるような言葉が飛んできたけれど、それは僕の想定したものとはだいぶ異なっていた。そして、僕はその意図がどうにもつかめなくて。


「……えっと、どういう意味で」

「教えません」


 そして、僕の疑問は取り付く島もなく流されてしまう。それでも――心なしか、ほんの少しだけ彼女からは先ほどまでの張り詰めた感じが抜け落ちているような気がした。


「……ところで、トオルさん、今日の解答、そろそろ思いつきましたか?」

「え、あ、えっと……」


 かと思えば突然話題が明後日の方向に向いてしまって、僕はその落差についていけない。……いや、確かに保留したのは僕だけれど、言いたいことを整理するのに必死で他のことを考えている余裕はなかった。もう少し引っ張りたいところではあったけれど、彼女から無言のプレッシャーのようなものが放たれていて、どうやらそんな時間は貰えそうになかった。


「さ、サチ、とか」


 咄嗟に浮かんだものをロクに考えずに口に出す。勿論そんなものが当たるはずもなく、彼女から返ってきたのはため息だけで――けれど、その口元が、僅かに緩んで見えたのは気のせいだろうか。


「ハズレ、です。変に悟ったみたいなことを言っても、やっぱりトオルさんはトオルさんですね」

「……どういう意味だ、それ」

「言葉通りの意味ですよ」


 そう言って彼女は――今度こそ本当に、微笑みを浮かべた。

 その様子に、僕も安堵する。


「……少しは、役に立ったかな」

「さぁ、どうでしょう。……正直、何を言われたって、時間がないのも、私が『美しい』っていう感覚を把握できていないのも変わりませんし。……とはいえ、それでまた焦ってばかりいたら、かえって何かを見落としてしまうかもしれませんしね」


 彼女は、どこか吹っ切れたようにそんなことを言う。


「……取り敢えず、明日一日、ちょっとだけ気楽に頑張ってみます」

「そっか。……まぁ、もし僕にできることがあれば言ってくれればできる限りのことはするよ」

「……では、上手くいくよう祈っていてもらえれば」


 冗談めかすように、彼女はそんなことを言った。

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