第12話

 翌日もゲームの結果は振るわず。昨日の話をもとに、取り敢えず『火』か『炎』に関する名前が何かないか調べてみたけれど見あたらず、ヤケクソの「アカネ」という回答はあっさりと不正解の判定を頂いた。

 そうして、お互い取り敢えず何か伝えるべきこともなく――だから僕は、自然に言葉が口から出てくるのに任せて、少しの間の間を埋めることにする。


「……そう言えば、昨日言ってた話なんだけど」


 そう言えば、彼女は少し考えた後に。


「……あ、ラジオの話ですか」


 一拍置いて、僕の言いたいことに辿り着いたらしかった。

 逆に一体なんだと思っていたのだろう、とは思うのだけれど――まぁ、もともとが与太話程度のものだったし、すぐに思い出せないのもそうおかしいことでもないかもしれなかった。


「そう。……あの後、言われた番組をいくつか聞いてみたんだけど――」


 そこまで言いかけてふと言葉を止めた。

 目の前では彼女が、ものすごく意外そうな顔をしていて。


「……何がそんなに気になるのかな」

「いえ――えっと、ちゃんと覚えていたんですね」

「……なんだかだいぶ失礼なことを言われてる気がする」


 そんなことないですよ、と、彼女は心のこもっていない様子でそう言う。それに対して言いたいことは少なからずあったのだけれど、それはため息に変えて。


「……まぁ、そういうわけで、今日はほとんど一日中、ラジオをつけっぱなしにしてたんだけれど……ラジオって、意外と面白いものなんだな」

「……でしょう?」


 彼女は珍しく、ちょっと嬉しそうにそう言った。


 それから、僕たちは少しの間、他愛もない言葉を交わした。

 それは、あの番組が面白かった、とか、あのパーソナリティの言い回しが面白かった、とか、そういった感想であったり、明日は晴れそうだ、でもそのあとは少し怪しいみたいですよ、みたいな、天候の話であったりした。

 多分、だけど、それは、僕らの間で交わされた中では最も自然な会話で。僕も彼女も、何も考え込むことなく、ただ口をついて出る言葉を交わす時間が流れて。


 そんな中で――僕は不意に、彼女は友人たちと、こんな風に言葉を交わしているのだろうか、なんてことを考えた。

 勿論それは、僕が彼女の友人である、なんて帰結には飛躍しないし、そんなことを主張する気だってない。

 けれど――なんとなく、そんな何気ない時間を、この一瞬だけでも共有できている、そのことが、僕にとっては大切なものであるように思われて。


 そうして、話もひと段落したころ――不意に彼女のまとっている空気が、僅かに緊張したような気がした。


 少しの間、僕は躊躇っていた。

 彼女のこんな様子は、これまでにも何度か見たことがあって。そしてそれの時はいつも、何かを言いかけては止めるような様子を見せていた。

 今回もそうだとして。だとしたら僕の方から踏み込むべきなのだろうか、なんて考える一方で、これまでも彼女が言わなかったことなのだから、触れない方が良いのかもしれない、とも思って。

 けれど、そこで僕が言うより先に――彼女は、覚悟を固めるように服の裾を握って。


「——あの、」


 言いかけ、やはり躊躇うように言葉を止めて。

 それでも。


「……その、好奇心から聞くようなことではない、と、わかってはいて、それでも、聞きたいんです。……あなたは、どうして」


 どうして。それは、以前言いかけて、成されなかった問いで。

 そしてその続きを、彼女は今、発する。


「……どうして、あなたは——あんな風に、なっていたんですか」


 あんな風に、というのが一体何の事なのか。僕は少し考えたあとに、僕が引きこもって自堕落な暮らしをしていることを指しているのだと気づく。

 そしてそれを、僕は少しばかり意外に思った。というのも。


「……てっきり、生まれつきのクズか何かだと思われてるかと思ってた」


 そう。なった、ということは、「なる前」が存在するわけで。

 始めの頃の、あの嫌悪したような表情を思い出すと、そういう捉え方をされているというのはどうにも意外で。

 そしてその僕の言葉に彼女はひどく気まずそうな表情をして――つまり、それが答えだった。


「いえ、その。……正直に言えば少し、そういうところもありましたけど……で、でも、結構早くに、おかしい、とは感じていましたよ」


 そう慌てたように付け足す彼女だけど、多分それはフォローになっていないと思う。


 そうして。

 お互いに言葉が途切れて――冗談めいた雰囲気が完全に消えて。参ったな、と見上げた中空には、相も変わらず何もない真っ白な空間が広がるだけで。


 正直に言えば、僕はそんな立ち入ったことを彼女に話すつもりはなかった。

 そもそも、この関係だって、一月にも満たないような短い時間、ただ視覚を貸し借りする、それだけのものでしかなかったはずで。そして僕自身、あの時彼女に指摘されたように――結局、何もしていなかったことに変わりはなかったのだから、ただただ彼女が求めるように視覚を貸し続けるだけの存在でいようと思っていた。


 それで良いと思っていたというのに――実際には、それだけでは済まなくて。だからこそ、今僕はこうして、彼女の問いを受けているわけで。


 ひとつ、ため息を吐く。

 正直、あまり気乗りはしない。僕にとって困難なことであったとしても、しかしそれをうまくやっている人なんてそこら中にいて――だから僕にだって、自分が情けない、なんて思いが、本当は常に付きまとっていて。

 だから、言い訳がましい御託を並べて、それが余計に募るのはあまり好ましくなかったけれど、かといって話さずに済ますことも難しいと思う。


 だから――僕は、覚悟を決めて、話し始める。

 かつて見えていた、レールの話を。


「……昔、僕には、レールが見えていたんだ」


 沈黙を破った僕のその言葉を、彼女は静かに受け止める。


「レール、ですか」

「……多分、だけど、それに従っていけば、何となく『普通』になれる、っていう、指標のようなものだと思う。そういうものが、社会の中に何となくあって……だから、それをただただ辿っていけば、何も問題なく生きて、そのまま一生を終えられる、そんな風に思っていた」


 それは、多分、半分くらいは間違ったことじゃなかったのだと思う。色んな人が口を揃えて、いい学校に行け、とか、良いところに就職しろ、とか、そう言うように、こうしておけばいい、という規範みたいなものは確かに存在していて。


「けれど、レールの上を走ることしか考えていなかった僕には、『やりたいこと』なんてものが存在しなくて――だから、大学に入ってから突然、『やりたいことをやれ』なんて言われたって、ただ卒業するためだけに大学に入った僕にはどうすればいいのかわからなくて」

「それで、そのまま、あんな風になってしまった、と」


 その問いに、僕は沈黙でもって答えとする。これ以上話せるようなことはないし、それでも取り繕おうとすればかえって自分の情けなさを目立たせるだけのような気がした。

 それに対して、彼女はしばらく押し黙って――それから大きくため息をついて。


「……何というか、その。それほど聞くのをためらうようなことでもなかった気がします」


 その物言いに、僕は言い返すこともなく。


「……まぁ、その、僕が凄く情けないのは、自覚してることなんだけどさ」

「本当ですよ、最近になって多少はマシになってきたように見えたというのに」


 うぐ、と言葉に詰まる。彼女の蔑んだような雰囲気を感じるのはだいぶ久々のことで、とはいえ懐かしいというよりもむしろだいぶこたえるところがあって。

 けれど彼女はふと。


「……まぁ、それでも」


 と、思い直したようにそう言って――そして少し間を開けて。


「その、レール、っていうものに関しては、私も確かに、全く感じなかった訳ではないんです。この社会にはどこか、『普通』であるための基準、みたいなものがあって、色んな人が、それに縛られているんだろうな、って。……ほら、私、『普通』からは少し外れているわけですし」


 淡々と紡ぐ言葉の最後に付け足されたその一言に。

 けれど、そこに自虐的な響きを感じた僕は、口を挟まずにはいられなくて。


「君は、『普通』だろう。——そんなようなことを、君の口から聞いたような気がするんだけど」


 それは、いつか彼女が言っていたことで。

 だからそれをただ返しただけなのだけれど、彼女は驚いたような顔をして。


「……そう、ですね。少し、言い方が悪かった、というか――えっと、例えば、私はこの先、どう努力を重ねても、例えば飛行機のパイロットなんかにはなれません。そう言う意味で、です」


 そう言われると――確かに、納得のいくことで。

 確かに、努力とか、人柄とか、そう言うものとは関係なく、どうしても何かがなくてはならないもの、というものは存在するのだ。


「……まぁ、そういうわけで――あなたの言葉で言えば、レール、ですか。そういうものからは少し離れた位置にいる、って言うことを実感させらるとき、というのが、どうしてもあって。……だから、以前は、そういう基準に従っていける人たちのことを、恨めしいとか、そういう風に考えていたこともあったんです」


 それは、つまり、彼女も、僕と同じようなことを、僕とは反対の意味で意識していたということで。


「その時は、それで何度も悩んで、苦しんで。……でも、ある時ふと――『レール』に捉われ続けなくてもいいんじゃないか、って思ったんです」


 その言葉は、僕には意外なもので。

 だって――夢を目指して進んでいる人なんてほんの一握りで、大抵の人は、ただレールの上を進みながら、与えられたものを享受しているだけだろうと。

 そして、夢など持たない僕には、それ以外の選択肢なんてない、と、僕はそんな風に考えていて。


 けれど――彼女が言いたいのは、そう言うことではなくて。


「確かに、私にはどうやってもできないことがあります。けれど――だからってそれは、できることがない、ってことではないんだ、って。だから――」


 そこで、少し間が明く。


「……だから、できないことを嘆くよりも、できることを探せばいいんだ、って。そんな風に、思えたんです。……そう、ですね」


 そうして、少し考えてから、更に言葉を続けた。


「……多分、『レール』の外にも、『道』はあるんだと思います。電車で行けなくても、車で行ける場所があって、車で行けなくても、自転車でなら行ける場所があって、……中には、徒歩でしか行けない場所なんかもあったりして。……だから多分、レールが見えなくなった、と言っても、きっと、大きな問題じゃないと思うんです」


 それは、確かに。

 電車であれば、レールの上を進んでいく以外にない。けれど、人がレールの上を進んでいかなきゃいけない、なんてことはなくて――つまりそれはきっと、選択肢は無数にある、ということで。

 レールに沿えないなら、それ以外の道を探せばいい。それは、彼女も――そして、レールを見失ってしまった僕だって一緒のことで――それでも、だからと言って。


「――だけど、……いや、それならなおさら、僕には、一体どうすればいいのか、分からないんだ。だって、どんなに選択肢があったって、僕にはそもそも、『やりたいこと』なんて見つからなくて――それは、いくら道が増えたって」

「――そう、でしょうか」


 彼女は――僕の言葉を、考えを、否定するというよりも、むしろごく自然に、不思議がるようにそう言って。


「それは、だって」


 だから思わず、否定しようとする僕の言葉を遮って、彼女は――


「——


 と、そんな一言を口にして。

 そして、唐突なその言葉を、彼女がそう言ったことの意味を、僕は理解できずに。


「折り紙、って」

「あの日、あなたは、何か暇つぶしがしたい、って思って、それから自分で色々と考えて、探して――それで、折り紙を見つけて、熱中して。これって、『やりたいこと』を見つけた、ってことになるんじゃないでしょうか」


 その言葉に、僕は、絶句する。

 確かに――暇を潰したい、というのは、それ自体が『やりたいこと』で。そう考えれば、ここ最近やっていた色々なことだって、誰かに言われたことでも、あらかじめ定められていたものでもなく、僕自身が選んだもので。


「……でも、それだって、ただの趣味で。実際はそんなに簡単じゃ――」

「いいえ、簡単なことですよ」


 それでも食い下がる僕の言葉を、あっさりと流して――彼女は、どこか得意げな表情を浮かべて。


「例えば、スポーツ選手に憧れたから、とか、それが好きだから、とか、そんな簡単なことだって、それが『夢』で――そして、それが全て叶うわけではなくても、それでもそれを叶える人は、ちゃんといるんですから。それに――上手くいかなくたって、道はそこら中にあるんですから。上手くいかなかったら、やり直せばいい、それだけなんですよ」


 その言葉に。

 不意に、僕の中にあった、高い壁のようなものが、取り払われたように感じて。


「……そっか」

「ええ、そうです。……簡単でしょう?」


 そう言って笑う彼女に。

 勿論、どうしたって僕に、将来の目標とか夢、なんてものがなくて、それを見つけようとする意欲なんてものだって、無いか限りなくそれに近いだろう、という事実は変わらなくて。

 それでも――折り紙をしよう、と、そう思ったときのように、取り敢えず探してみて、試して、その結果として、それが趣味になってしまったように――取り敢えずやってみて、それで思いがけず、なんてことがあってもいいのではないか、と、そう言われてしまえばもはや言い返す言葉なんて、見つかるわけもなくて。


「そう、だな、そうかもしれない」

「そうですよ」


 そう言って、彼女はわざとらしく呆れた様子を作って。


 そして――僕はふと、心の内で、あることを決めるのだった。

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