第10話

「……やっぱり、何かヒントをください」


 その翌日、今度こそ僕は折り紙に挑み、その過程で彼女の名前を当てようと思考を巡らせ――そして、無理だ、という結論に至った。


「……その、諦めるのが、早すぎませんか」


 対して彼女は、呆れたように僕にそう言った。

 それも無理からぬこと……というか、たった一日しか経っていないのに、いきなりギブアップというのでは、流石にこう、意地とかそういうものはないのか、と言われても仕方がない、とは思う。

 とはいえ。


「そう、なんだけど。……あてずっぽうじゃ、ちょっと無理があると、思うんだ」


 そう。

 名前、と一言で言っても、どれだけの数があるというのか。調べたわけではないし、最近は結構変わった名前も増えてきているらしいから正確な数を掴むことは不可能だとは思うけれど、多分数えるのも嫌になるくらいにはあると思う。仮にそれを日本人の女性につけられるものだけに絞ったとしても、単純計算でその莫大な数が半分になるだけだ。

 その状態で適当に言ったところで、当たる確率がどれほどあるというのか。

 折り鶴の出来もそこそこに、まるで名付けに悩む親のように一日中思いつく限りの名前を呟いて過ごした僕は、その末の結論として、ちょっとこれは流石に無理じゃないだろうか、とそう言いたいわけなのだ。


 んー、と、彼女は悩むような素振りを見せて。


「……まぁ、ほら、別に当たらなかったとしても、損をするわけではありませんし」


 だから当たればラッキーくらいの考えでいいじゃないですか、と彼女は言うけれど――しかしそれはそれで、何となく腑に落ちない、というか。

 すると、そんな雰囲気を悟ってか、彼女はわざとらしく軽蔑したような表情を作って。


「……もしかして、早く名前呼びに変えてお近づきに、とか、そんなことを考えてるんですか。流石軽薄なナンパ師のトオルさんですね」

「……いや、違うから」


 冗談とわかっていつつも流石に否定しないわけにもいかなかった。……まぁ、確かにこれまでの行動だけを考えてみれば、自分でもそれっぽい、と思う面はなくもなかったのだけれど、流石にそれだけで動いている、というのは、違うと信じたい。

 流石にそれは彼女の方も取り敢えずそこまで疑っているわけではないらしく。


「……まぁ、ならいいじゃないですか」

「それは、まぁ、そうなんだけど……ほら、僕も名前は教えたわけだし」

「ふふ、別に私は、あなたが教えてくれたら私も教える、とは言っていませんから」


 そう言って少し得意そうな表情をする彼女。言われてみればその通りだった。ということは結局それに気付かなかった僕が悪いわけで、余計に何も言い返せなくなる。


「……と、いうわけで、私の名前を知りたかったら、気長に頑張ることですね」


 彼女はそう言って勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

 それは楽しそうでいて――しかしどこか安堵しているようでもあって。

 それは、ゲームを続行出来て、というよりは、むしろ――


「……えっと、もしかして、名前、あんまり知られたくない、とか……」


 と。

 何気なく放った言葉は、よくよく考えてみれば色々な意味に取れる言葉だったのだけれど――その言葉で、彼女の顔が面白いくらいわかりやすく引き攣る。

 その様子で何となく察した僕は――


「えっと、もしかしていわゆる――」

「それ以上言うと今日の解答権を使ったことにします」


 やや慌てた様子でそう言う彼女の頬が僅かに上気しているように見えるのは、果たしていかなる感情によるものか。ともかくそう言われて、僕は出かかっていた、あの有名な『どうぶつ図鑑に載っていない不思議ないきもの』の名前を呑みこむ。

 代わりに。


「……えっと、やっぱり、そういう系?」

「違いますから!」


 そう否定する彼女の声はいつになく語気が強くて、だからこそかえって怪しいような気もしなくはないのだが――暫くして上下する肩を落ち着けると、彼女はおおむねいつもの調子に戻って。


「……その、ほら、何かのキャラクターの名前とか、そういう、分かりやすく変な名前ではないんです。むしろ、どちらかと言えば、普通によくあるようなものだと思います」

「そのわりには、全力で否定してたけど」

「……流石に、あなたがずっと私のことをそういう名前だと思って見るのかと思うと、なんだかそれはそれで凄く恥ずかしい気分になるので」


 言われて、ちょっと想像してみる。

 確かに、自分の名前が、青い猫型ロボットとか黄色いネズミだと相手に思われているとなると、相手がそれをどう思っているのか、とか、気が気でないような気がする。

 そんな風に、妙に納得した感じでいると、彼女はそれから少しおいて。


「……まぁでも、積極的に名乗りたい、というわけではないのも、実は少しだけ本当だったりするんです」

「……っていうのは」

「えっと……なんというか、馴染まない、と言いますか」


 彼女は、何やら真剣に言葉を探している素振りを見せる。


「……その、何となく、それが自分を表す言葉だ、という実感がつかめないんです」


 そうして出てきた言葉は、いつもより少し平坦な声で紡がれた。


 名は体を表す、なんて言葉がある。

 読んで字のごとく、人や物の名前はその性質をよく表す、という意味のこの言葉は、世界中でかなり信用されていて、寧ろつけられた名前によってその人の人生がある程度決まってしまう、なんていう研究結果すら存在してしまうほどである。


 それが事実かはさておいて――しかし一方で、名前は時として、期待を表すこともある。


 例えば、将来なってほしい未来図をそこに込める。活躍しているスポーツ選手の名前なんかを付ける場合、きっと親は少なからずその競技が好きで、自分たちの子供にもいずれはその分野で活躍してほしい、と願っていることだろう。

 また、時には、『継がれることを前提とした名前』なんてものも存在する。伝統のある家なんかでは昔は、家長が代々同じ名前を名乗ることがあったり、或いは中国史などを見れば、親の名前から一文字取る、などということもごく当たり前にある。今だって、落語や歌舞伎なんかの世界では、その名残のようなものが残っていると言えなくもないのかもしれない。


 それが思い通りになったとすれば、そこに問題は何もない。

 けれど――サッカー選手の名前を付けられた子供たちが、それだけでサッカー選手になれるのなら、苦労するようなことは何もないのだ。

 故に――時に、名前というのはその人にとっての十字架になることもあるのだろう、と。

 僕は彼女の言葉で、そんなことを考えた。


「……まぁ、ほら、私の両親が、少しだけ名づけが下手だった、ということですよ」


 彼女は、茶化すみたいに、明るい声でそう言った。

 それから、何も言うことができなくなっている僕の様子に苦笑して。


「……ごめんなさい、なんだか変な話になってしまいましたね」

「いや――最初に聞いたのは、僕だから」


 こういうとき咄嗟に気のきいた言葉が出てこないと、僕は何か変化したようでも結局、彼女と出会う前の閉じた日々を過ごしていた時からあまり変わっていないのだな、と自覚できてしまう。

 僕の頭の中は、彼女の踏み込むべきではないところに踏み込んでしまったんじゃないか、という、そんな予感に埋められかかっていた。

 けれど、彼女はそんな僕の胸の内をも察しているように。


「いいんですよ、話したのは私ですから」


 なんて、そう言って。


「それより――」


 それから、今度はいつも通りに、僕のことをからかうみたいな笑顔を浮かべて。


「ちょっと意図してない感じでしたけど、ほら、今のってヒントみたいじゃないですか。――と、いうことで、今日の回答をどうぞ」


 そう言われて、僕は狼狽える。

 言われてみれば確かに、彼女は捉え方によってはヒントになるようなことを言っていたような気がしたけれど、思いがけず重い話みたいになってしまったせいで、そういう受け止め方は全くしていなかった。

 慌てて彼女の口にしたことを改めて思い出す。どんなことを言っていたっけ。確か、普通によくある名前、とか言っていたような。


「……花子?」


 咄嗟にそう言ってしまったけれど、その瞬間からすでに、それが正解ではないだろうということはわかりきっていた。


「ざーんねん、ハズレです」


 実際その通りだったようで、彼女は愉しそうに僕に不正解を告げた。

 まぁ、流石にそれについては予測できていたことなので、さほどショックは受けなかった。どちらかと言えば、一日一回の解答権を唆されてあっさり使い切ってしまったことの方が後悔が大きい。……というか、よくある名前、と言われたからって咄嗟に花子って、ベタなうえに何年前の話だ。

 けれど。


「ふふ……あ、でも、案外いい線は行っているかもしれませんよ」


 彼女が後から付け足したその言葉は、少し意外なものだった。


「……え、いい線って、あれで?」

「さて、どうでしょう」


 そう言って微笑む彼女の表情からは、どうにも楽しそうだ、という以上のことは読み取れなくて。だから、もしかしたらミスリードかもしれない、とも思う。

 というか、花子でいい線、って言われても、じゃぁこれかな、という候補なんて思いつかない。まさか太郎というわけはあるまいし。

 そんな風に僕が頭を悩ませていると、彼女はふと思い出したように。


「――ところで、今日はやっぱり、折り紙を折って過ごしていたんですか?」

「え、あぁ、うん。……出来については、見ないとわからないけれど、多分前よりはだいぶ上手くできたと思うよ」

「そうですか、良かったです。……ほら、昨日、先延ばしにさせてしまいましたし」


 言われて。そう言えば名前の件で忘れかけていたけれど、そんな話もあったな、と思い出す。


「あぁ、そうか。……そういえば、引っ越しの方は」

「はい、問題なく終わりました。もともとそれほど荷物が多い方でもありませんでしたし、間取りとか、街の様子なんかもちゃんと説明していただけましたので。今日は『見える』状態で色々と見回ってみたので、少し疲れましたけれど、大体のことは頭に入った……と思います」


 そう言われてふと、彼女の口から出てきた言葉が、僕が無意識に思っていたことと少し違うことに気付く。

 だからふと気にかかって、僕はその疑問を口に出す。


「——その、『見えない』人の引っ越しって、やっぱり大変なのかな」

「そう、ですね……」


 彼女は、少し考える素振りを見せる。


「……まず、私たちは基本的に、記憶だとか感触だとかに頼って暮らしているわけですから、部屋が変わる、というだけでも結構大変、というのは、何となく想像できるかと思います」


 言われて、『見えない』日の初日のことを思い出す。

 あの日はかなり散々な目にあったけれど、それでも一応、僕はキッチンまで行って戻る、という動作をこなすことができた。二日目には一応ほとんど問題なく生活できるようにもなった。——けれどそれは、あくまでそこが、住み慣れた自分の部屋だったからにすぎない。朝起きて、『見えない』状態でいきなり知らない部屋にいたとしたら、僕は何がどこにあるかわからず、ろくに動き回ることもできないだろう。


「それだけでなく、実際に生活していくためには、結構色々なところに出歩かなければなりませんから、そう言ったことをひとつひとつ覚えていかなければならないんです。……そして何より、それを説明してくれる人を探す、というのが、一番難しいことだったりするんです」

「……なるほど」


 部屋の間取りであったり、近所のスーパーやコンビニの位置、バスや電車を使うならバス停や駅の場所。そうした情報をひとつひとつ説明していく、ということは、それなりの時間がかかることだと思う。いまどき、そうしたことに丁寧に時間を使ってくれる人というのは、残念ながら今の社会にはあまりいないだろう。


「あとは、物件探しもかなり手間がかかります。誘導ブロックが整備されていない区画は歩きにくいですし、コンロよりIH調理機の方が安心ですし……そういったことを挙げていくと結構大変なんですよ」


 確かに、比較的大きい道なんかには点字ブロックも備えられているけれど、田舎の方の細道なんかはそういうものがほぼない。となれば流石に出歩くのも難しいだろう――と、彼女の言葉をそこまで追ってみて、ふとあることに引っかかる。


「……あれ、コンロとかIH調理機、って」

「あれ、言ってませんでしたか。……はい、料理もしますよ。簡単なものだけですけど」

「へぇ……」


 正直に言ってしまえば、見えない状態で料理、というのはなかなか想像しにくいことだったが……案外何とかなるものなのだろうか。

 ともかく、となれば、当然の興味として。


「……ついでに聞くけれど、普段はどういうものを?」

「え……っと……」


 すると、彼女は露骨に動揺した様子を見せた。

 それから少し、思考を巡らせているらしき沈黙があって。


「……その、秘密、ということで」


 そうして、歯切れの悪い返答が帰ってくる。

 どうやら、そちらは不得手のようだった。

 

 

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