第9話

 次の日、僕はアラームの音で眠りから覚めた。

 目を開き、その先の天井を視界いっぱいに捉えた僕は、どことなく空虚な気分になる。


 眠気という靄がかかったままの頭では、それがなぜか……ということを理解できなかったのだけれど、それが醒めていくにつれて、少しずつ状況を思い出してきた。


 そう。

 今日は、初めての『お休み』の日なのだった。




 アラームを止めてから、布団を跳ね除け、どことなく気怠い感じのする体を起こす。

 そうしてぼんやりとしていると、視界にはごく自然に、部屋の中央の机を捉える。そしてそこには、昨日、一心不乱に折り続けた鶴と、未開封の折り紙のパックが雑多に置かれていて。


 それを見た瞬間に、またふと空虚が押し寄せてきそうになって、それを抑えようとしながら僅かに苦笑する。

 もともと、今日はまた折り紙を折って過ごす予定で。しかしそれはあくまで今日が『見えない』日だったら、という仮定の下でのことであって。

 だからといって別に不可能なわけではないのだし、今日も折り紙をして日を潰せばいいのだけれど――しかし、なぜかそれも気が進まなくて。


 これなら、『折り紙ができないのは嫌だ』と彼女に言うべきだっただろうか。

 そんな、冗談みたいなことを思いつつ——しかし、準備していたことがふいになった、というだけにはとどまらないこの感覚が何なのか、僕はそれを理解できないまま、ただそれ以上動き出せずにいた。




 宙を見つめたままだった僕は不意に、玄関に置いたままのゴミ袋のことを思い出す。

 そういえば——と、壁のコルクボードに粗雑に留めてあったカレンダーを見れば、やはり今日はゴミ出しの日で。

『見えない』日はいつもより早く起きるので、時間にはまだ余裕があった。


 ここのところドタバタしていて、なかなか捨てに行くことができなかったそれらともいい加減ケリをつけなくてはならない……なんて考える僕は、やはりどうにも平時の僕ではないような感じがしていた。


 だから、だろうか。


 ゴミ捨て場から帰ってきた僕は、普段はろくに読みもせずに捨ててしまうようなポストの中身に、ふと目を留めて——支度もそこそこに、自転車に乗ってアパートを出た。




 留年した上に、ほとんど通ってもいないとはいえ、僕が大学に入ってからそろそろ一年が経つ。

 そしてそれはつまり、僕が地元を離れ、この街を初めて訪れたのもまた、およそ一年ほど前だということで。


 僕が家を出て、遠く離れた場所で一人暮らしをしている理由自体は、別に大したことではない。

 小言みたいなものは時折言われたけれど、さりとて家族とはもう顔も合わせたくない、なんて言うほど家族との仲が険悪だったわけではない。また、地元は確かに田舎の方で、今住んでいることろはどちらかと言えば都会の方なのだけど、さりとて都会に憧れたわけでも、田舎を飛び出したかったわけでもない。


 ただ単に——かつてはそれなりに勉強ができて、けれど地元の難関校に入れるほどには才能もなく努力もしなかった僕が、ただ偏差値と気まぐれで大学を選んだ結果でしかなくて。

 だから、この街にも決して、愛着も感慨もそれほど持っていた訳ではないのだけれど。

 けれどそれは、裏を返せば、僕は一度もこの街をまともに見物したことがないということなのだ——と。どこの街にでもあるような、よくポストに放り込まれているそんな街の情報誌の表紙を見たとき、不意にそんなことが僕の脳裏に浮かんだ。


 だからといって、そこですぐに『街へ飛び出そう!』とはならないのが僕の性分——のはずだったのだけれど、しかし今日は、そうした葛藤よりも行動が先立ってしまった。


 それこそ——そう、何かに急かされているかのように。




 下宿の並ぶ地帯を走り抜ける。次第に住居の数も減っていき、十分もペダルを漕いでいけば、すっかり周囲の景色も、住宅街そのもの、といった雑多な感じから、市街地の洗練されたものへと変わってきていた。

 久々に長距離の移動をした、ということと、春先の暖かな日差しに当たっていたということもあって、僅かに体が火照ってきていた。一旦自転車を降りて、近くにあった自動販売機で飲み物を購入し、体を冷やす。


 それから、空になった空き缶をゴミ箱に放り込んでスマホの検索アプリを起動して、市の名前、スペース、『観光地』の文字の順に入力して、検索ボタンを押した。

 途端にずらりと候補が画面に並んでぎょっとする。どうやら、ここは予想よりもだいぶしっかりと観光地だったらしく、そう言えばちょうど長期休暇くらいの期間なだけあってか、やたらと辺りに人がいた。

 その中に入っていくのは少しばかり骨が折れそうだけど……と思いつつ、取り敢えずタブをマップ機能に切り替えて、一番近くにあるものを探し始めた。


 正直なところを言えば僕は、観光、というものがあまり好きではなかった。

 修学旅行なんかでも、大抵僕は、寺とか神社ばかり見て何が楽しいんだ、と言い出す側の人間だったし、かといって某有名テーマパークなんかに行っても、周りに合わせる以上に楽しむことをしなかった。

 だから、とりあえず近場にあった美術館に入った時も、はっきり言って期待はしていなかった。

 多分、僕が今求めているのは、そうした一般的な楽しさ、よりもむしろ、不意にできてしまった、この空いた時間を埋めるための何かなのだ、と、その頃には何となく気づいてきていたからで。


 そしてそれは実際に、館内の展示を眺め始めてからもそうで。

 そもそも僕には審美眼なんてものは一切なくて、ましてや展示内容が前衛芸術ともなれば、なおさら僕の理解が及ぶはずもなく、順路に沿って進みながら、何を思って作られたのかすら不明な立体物なんかを無心に眺めながら歩いていた。


 けれど——その時から、なんだか妙な違和感があった。


 なによりもおかしいと感じたのは、一通り館内の作品を見終わった後、さして時間をおかずして、次はどこを見に行こうか、と僕が考えたことだった。

 勿論、僕は時間を潰すために市内の観光に来ているわけで、その浪費されるべき時間がまだたっぷりあるとなればそうなるのは自然な流れではあるわけだけれど。

 しかし、普段であれば、こうした興味のないものの類は、ひとつやふたつも回れば、何となく気疲れしてしまうもので——しかし不思議と、そういった感情は浮かんで来ず。


 そのまま僕は、ただ近いからといった理由で、おおよそ自分に縁がないと思っていた庭園を眺めて歩いたり、城址じょうしを遠くから眺めたりして――そして、そこまで至っても、その違和感は消えることがなく。


 昼食を近場のチェーン店で食べている時も、僕は自然と次に行く場所を探していて。

 そうなれば、もう後は気の赴くままに、と言った感じで、僕はそれからも色々な場所を巡った。

 偉人の記念館なんかに立ち寄って、流石に説明パネルの文字列に少しうんざりしたり、スマホに表示された画像と実物を比べて、写真の撮り方が上手いな、なんて失礼なことを考えたり、かと思えば、不意に視界が開けて現れた水景に驚いたり。

 そうした中で、心の片隅にあった違和感は、大きくなることも消えることもなく、何となくそこにあって——しかし、ある時から感じていた焦燥感だけは、いつの間にかどこかに行ってしまっていて。


 そんな時間が続き。日暮れ時、帰る道すがら、少し離れた場所にあった名所に立ち寄った時、ふと道端に小さく花が咲いていることに気付いた。

 その瞬間には、それ以上のことは何も思わなかったのだけど——しかし、少しして不意に、その違和感に対する解は、彼女の声を伴って脳裏に呼び起された。


『あなたは今日、一体どれだけのものを意識して見ましたか』と。


 それは、初めて会ったとき、彼女が口にした言葉で。

 思えばその時から、その言葉は、彼女の表情も相まって、僕の中で楔のようなものとしてずっと残っていて——けれど一方で、今まで別段意識することはなかったように思う。


 けれど、ふと陽の暖かさを意識したり、道端の花をみてふと春を感じたり——そういったことは、少なくとも彼女と出会うより前は、そんなことを意識すらしていなかったと思う。

 だからこそ、今日はどこかいつもと違うような感じがして——そしてだからこそ、今日は決して見飽きることなく、ずっと風景を目に収めることができていたのだ。


 それはまるで——そこで初めて、『正しい』ものの感じ取り方を習得したかのようで。


 改めて、周囲を見回す。古い建物が街のただ一角のみに集められたここも、趣の深さが観光客に人気と言われているスポットで。

 けれど、まだ僕の感性自体は変わっていないようで、それを素敵だ、と思っているわけではなくて。

 それでも、ただありのまま視界に入ってくる世界は、ほんの少しだけ、薄ぼんやりとしたフィルターのようなものが取り払われたような、そんな感じがした。




「……それって、もしかして」


 その夜、『夢』の中に現れた彼女に今日の市内観光について少し話していると、不意に彼女が遠慮がちに口を開いた。

 その内容に、僕は驚いた。というのも、僕が話したのは、固有名詞なんかを省いた、しかもほんのさわりだけの説明だったにも関わらず、彼女が僕の住む町の名前を当ててしまったからである。


「……どうして、わかったのさ」


 そう問えば、彼女は悩むような素振りを見せた後、どこかその感情が残ったような声で。


「……実は、私の引っ越し先が、ちょうどそこで。……数日前に、少し調べたので、なんとなく」


 それを聞いた僕は、なんという偶然もあるものだ、と思ってしまった。

 とはいえ、僕の街も決して観光地以外何もない、というわけではなく——むしろ、それなりには都会であるため、利便性を求めて出てくる、なんてこともあり得ない話でもないだろう、と思った。


 そんなことを考えた後で、ふと——もしかして、『夢』以外で彼女と出会うこともあるかもしれない、なんてことを思う。

 かといって、一応僕らは毎日こうして会っているわけだし、実際に会ったところで何をするわけでもなさそうで。

 だからここで誘い合わせてどこかで、なんてことまでは、全くもって思いもしなかったけれど——しかしそれでも、どこかで遭遇するかもしれない、なんて思ってしまえば、あくまでも『夢』の中だけ、といった感じだったこの繋がりも、どこか現実味を帯びてくるというもので。


 だから、あくまでも期間限定で、三週間もすればまた無関係の他人に戻るのだから——と、何となくの不文律のように続けていた『僕』と『彼女』という関係の間に、ふとちょっとした疑問が芽生えてしまって。


「……そういえば」


 だから、僕はふと、何でもない風を装って。


「……名前、まだ聞いてなかった」


 そんなことを口にする。

 それを受けて、彼女は怪訝そうな表情になって。


「……今更、それを言いますか」

「いや、ほら、最初の頃はてっきり、『貸し借り』なんて数日のことだと思ってたし……それに、もしかしたら、『ここ』以外で会うかもしれない、となれば、名前くらいは聞いといた方が良いかな、なんて」


 さして変なことを言っているつもりはないのに、どこか言い訳のようになってしまった僕の言葉を、彼女は表情を変えずに聞いていたが、やがてため息を一つついて。


「……まぁ、いいですけど。けれど、そういうのって普通、聞いた側が先に名乗るものじゃないんですか?」


 そう言われてしまえば、それももっともなことで。何より僕も、別に名乗りたくない理由があったわけでもないので、さして考えず僕は口を開く。


「——とおる、だよ。鈴木透」


 と、生まれてこのかた、ずっと馴染みのあるその名前を告げる。

 そうして彼女の言葉を待っていると、彼女は何か考えてから。


「トオルさん、ですか。……なんだか、綺麗な感じの名前ですね」

「……その、言外に似合わない、って言うのはやめてくれないかな」

「あ、いえ、別にそんなことは」


 なんて否定する彼女だが、言葉ほど慌てた様子がないので、本心でどう思っているかはわからない。

 そうして次は彼女の番——と、思っていたのだけれど、彼女が口を開く気配はなく、無言のままの時間が過ぎる。


「……で、君の名前は」

「……えっと……」


 それでつい促してしまうと、彼女は指先を顎に当てて、思案気な表情を浮かべる。

 それからふと、何かを思いついた、とでもいうように、一転して楽し気な表情を浮かべて。


「——じゃぁ、当ててみてください」


「……えっと」


 どうにも彼女の真意がつかめず、そう聞き返してしまう。


「いえ、ですから、私の名前を予想するんですよ。ちょっとしたゲームです」

「……なんのヒントもなしで?」

「ナシ、です」


 そんなことを言われても、予想も何も、僕は一切彼女の名前を予想できるような情報は持っていないわけで、というかそもそも、ゲームなんて言われたところで僕にメリットがあるようにはどうも思えない。

 しかし、先に聞いたのは僕の方であるためにそう強くも出れず――何より、彼女が何やら期待するような雰囲気を放っていて。


「……えっと、じゃぁ、春……香」

「ハズレです」


 だから適当にいったそれは、あっさりとバツを出される。


「……というか、適当に言いましたよね」


 そう言う彼女は、どこか不満そうで。


「そう言われても、何も情報がないわけだし。……じゃぁ、えっと——」

「あ、ストップです」


 続けてまた適当なことを言おうとして、しかしそれは彼女によって遮られる。

 いったいどういうつもりか——と彼女を見る。


「こうしましょう。解答権は一日一回……で、外したらその日は終わり。次に答えられるのは次の日になってから、ということで」

「……それ、僕にメリットがあるように思えないんだけれど」

「でも、名前、聞きたいんですよね」


 そう言われてしまえば、どうにも返す言葉がなくて。

 何より、ゲームと言われてしまえば、僕の負けず嫌いな部分がどうにも反応してしまって、変にルールを破ってしまうのは避けたい気分になってしまうのだった。


「……わかった、それに乗るよ」


 それを受けて、彼女は微笑んで。


「決まり、ですね。……それでは、明日、またの挑戦をお待ちしていますね、トオルさん?」


 そう言う彼女の顔は、なんだか今までに見てきた表情のどれよりも楽しそうだった。

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