第8話
翌日、僕は大量の折り紙を購入し、大量の折り鶴を生産して一日を終えた。
の、だが、それを彼女に話すと、物凄くわかりやすく呆れた表情をされた。
「えっと、その。……課題を課題のままにしない姿勢は大事だと思いますけど」
「素直に呆れたって言ってくれていいよ」
昨日、僕は目の見えない状態で、苦心しながら何とか一羽の折り鶴を折り上げることができた……と、思っていたのだけれど。
しかし、視覚が戻ってきてから改めて見てみると、その出来は、多少ひいきめに言っても酷いもので。軽く触ってみただけではわからなかった裏地のはみ出しだとか、ちょっとした折り間違いだとか、そうした細かいものが重なって、僕のイメージからだいぶかけ離れてしまっていた。
昨日彼女が『がっかりしないように』と言っていた、その言葉がこの鶴の惨状を表すのだと気づいたのはその時で。
考えてみれば、ある程度折り方を思い出せたとはいえ、久しぶりの折り鶴、まして見えない状況で、指先の感覚を鍛えるようなことをしたこともない僕が折る、となれば、こうなることもよく考えれば予想がつくというもので。
とはいえ、そんな状況下でもなんとか形になっているものが作れた、ということを見れば、とりあえず初回にしては上出来ではないか、とも思う。
の、だけれど。
「……やっぱり、僕は相当に負けず嫌いみたいだ」
そう。
我ながら、あれほど堕落した生活を送っておいてよく言えると思うのだけれど、どうやら自分の中にどうにも譲れない矜持とか、そう言ったものがあるようで。
そうした性根の部分で、僕はどうしても、あれを成功品と認めることができなかったのだった。
だからこそ、とにかく今日は折り方を覚えよう、と一日中パソコンの前に張り付いて、折り鶴を生産する機械と化していたわけで。
「多分、次にやるときは、かなりうまく作れると思う」
手順を頭と手に叩き込んだ、という、その自信からそんなことを言えば。
「……まさか、そこまで打ち込むことになるとは、さすがに思いませんでした」
彼女は、そんなことを言いつつ——しかし、驚きとは違う、何とも言えない表情を浮かべる。
それから、彼女は言いだしづらそうに、おずおずと口を開く。
「……えっと、申し訳ないのですけど、その挑戦、一日だけ先送りにさせて頂いてもいいでしょうか」
その言葉の意味を捉えられずにいると、彼女は少し悩む様子を見せた後、いつもより僅かに小さい声で続ける。
「その。……実は明日、引っ越しをすることになったんです」
それは、少なくとも僕にとっては唐突な言葉で。そしてそれゆえに、僕はそこにある因果関係を掴むことができなかった。
「……ごめん、上手く理解できなかった」
「えっと……以前、こちらの都合で『借りる』日をずらすかもしれない、という話をしたと思うんですけど、覚えているでしょうか」
そう言われて、確かにそんなことを言っていたような気がする、と思い出し——そこでようやく、話がつながり始める。
「……そうか、引っ越しとなると」
「はい。色々な方と会うことになりますし、忙しくなりますから何かを落ち着いて見る、というのも難しいと思います。見えない状態でちゃんと生活できるか、ということも確かめる必要がありますし」
それに——と、彼女は続ける。
「……実は、一昨日、少し頑張りすぎてしまって、まだ少し疲れが残っているんです。……なので、できればもう少しだけ休みたい、というのも、実は少し」
「頑張った、って」
ふと気になって問い返すと、彼女は複雑な感情の滲む表情で。
「……色々と、良いことも良くないこともありましたけど……それでも、一応は生まれ育った場所を離れることになるので。……せっかく『見える』のだから、少しだけでも、それを記憶に残しておきたい、って思ったんです」
そう告げた彼女の声は、淡々としていたけれど、どこかで何かを抑え込もうとしているようでもあって。
「……でも、やっぱり、長く外を歩き回るにはまだ少し早かったみたいで、結局、家の本当に近くだけしか回れないうちに限界が来てしまって。……もともと、そうなるんじゃないか、と思っていたので、それでも多分、上出来なのかもしれない、なんて思いますけど」
「……それで、その。……目的の方は、どう」
つい、そんなことを聞いてしまう。
彼女は、考え込むようにして少し押し黙って、それから不意に顔を上げて、呼吸を整えるようにして。
それから、何でもないことのようにして。
「ダメでした」
そう、口にした。
「……勿論、少し前よりは確実に、視覚からの情報を受け止められるようになっては、来ているんです。それに、もともと持っていた情報とか、イメージとかもありましたから、自分が今見ているものが何か、ということも、ちゃんと理解できていたと思います。……でも」
そこで彼女は、少し言葉に詰まったようで。
けれど、何かを堪えるように、右腕の裾を左手で掴んで、言葉を続けた。
「……でも、どうしても、それを実感することができなかったんです」
「……最初に、自分の家を外から見たとき。自分がもうすぐここから離れるんだ、と、そうわかっていても、どうしてもそれまで抱いていた以上のものが、起きてこなかったんです。……時間が経てばもしかしたら、とも思いましたけど……他の何を見ても、どれだけ経っても変わらなくて。……結局、私は多分、そうしたものを記号としてしか認識していなかったんです」
そう語る彼女の声は、微かに震えているような気がして。
「……もしかしたら、私は、」
そこまで言いかけて、しかしそこで彼女はふと言葉を止める。
「……ごめんなさい、何でもないです」
その言葉は――しかし、抑えつけたその隙間から少しずつ漏れ出してくる感情に揺れていて。
そしてそれは、多分、悲しさでも、絶望でも、諦念でもなくて——どうしようもないほどの不安であるように、僕には感じられた。
ひとつ、息を吐いて、思考を整理する。
その中で僕は、ふと自分が、彼女にかける言葉を探していることを自覚する。
それは全て、憶測でしかなかった。
彼女が本当に抱えている感情を、彼女がそう思っている理由を、しかし彼女が口にしない以上、僕が知ることはできなくて。
だから僕がこれから言おうとしていることは、きっと的を射ることより外すことの方がずっと確率は高いはずで。
けれど、それでも。
不意に、もしかしたら、と思ってしまったことがあって。
「……多分、そういうものなんだと思う」
だから僕は、そんな言葉を口に出す。
「勿論、何か起きたとき、その場で悲しむことができる人もいる。……けど、それは多分、全員じゃなくて……何かが起きても、それをその時に受け止められない人だって、多分結構いてさ」
感情というものは、多分、受け止めるために大きなエネルギーを使うものなのだと思う。
葬式でも泣くことのなかった遺族が、時間を経て深い悲しみに襲われるように。親に抱いていた反抗心のようなものが、実は親愛の裏返しだと気づくために長い時間がかかるのと同じように。きっと、そこに感情があったとしても、それを認識して、受け入れる、というのはきっと、難しいことなのだろう。
「だから、たとえ自分が、今しかない、って思っている時に何も感じられなくても、それは仕方がないことなんだと思う。だってきっとそれは、誰にだって起こることだから。——けど、それでもやっぱり忘れたくない、ってなって、時々、写真なんかに頼ったりして……えっと」
長く喋ったせいで、着地点を見失いそうになる。
そのせいで言葉に詰まる僕に——しかし、彼女は静かに耳を傾けているようで。
だから、思ったよりも気負わずに、僕は次の言葉を口にすることができた。
「……忘れないで、いられると思う」
そうして出てきた言葉は、話の流れを考えれば少し唐突かもしれなかった。
それを補足するために、僕は言葉を継ぐ。
「僕と違って、君は『見える』ものを、きっと大事にしてるはずで。だからきっと、それを焼き付けるような強い思いが今はそこになくても、いつかちゃんと受け止められるようになるまで覚えていられると思う。……家のことも、『見たいもの』のことも」
その、ほんの少し穿ちすぎたかもしれない、と思った言葉に——しかし、彼女が息を呑む気配がする。
そう。
もしかしたら彼女は不安なのかもしれない、と。その原因は、ただ生まれ育った家を見た、そのことに対して何も感慨を抱かなかったことへの寂寥の念だけではないのかもしれない、と。
そう思ってしまったのは——
「……覚えて、いたんですね」
きっと、『見たいものがある』という彼女の言葉が、そう言った時の必死そうな表情が、記憶の中に引っかかっていたからなのだと思う。
ふと、彼女がため息を吐く。
「……そう、ですね。確かに私には、どうしても見たいものがあります。……そしてそれは、きっと、今しか見れないもので、だからこそ、絶対に忘れないようにしたくて」
それから、仄かに笑って。
「……でも、それで焦って、余裕がなくなっていたのかもしれませんね。……見ることを大事にしろ、なんてことを言ったのに、自分もそうできなくなるところでした」
そんな風に言う彼女からは、先ほどの張り詰めたような空気がすっかり抜け落ちていて。
「……まぁ、僕が言えた道理でもないんだけどね」
「そうですね」
冗談めかした僕の言葉に、彼女は笑ってくれた。
それから。
「……今日見たものを忘れなければ、いつか私も、あの景色を大切だ、と言えるようになるんでしょうか」
と。
小さく呟くように放たれたその問いに、しかし彼女の思っていることを正確に理解しているわけではない僕は、肯定も否定も返すことができず。
「……そうなってほしい、って思ってるなら、いつかきっと」
だから、ついそんな言葉でお茶を濁してしまうけれど――しかし彼女は、微笑みの表情を浮かべる。
「……そうですね」
先ほど同じ言葉は、しかし先ほどよりもずっと穏やかで。
そうして落ち着いた様子に戻った彼女は、空気を切り替えるように、さて、と呟いて。
「……とにかくそういうわけで、明日は飛ばして……明後日からまた、一日おきに視覚を借りる、ということで、いいでしょうか」
「構わないけど……」
明後日から一日おきに、ということにすると、『貸す』日数が一日減ってしまう。
あまり意識していなかったけれど――彼女と出会ってから、気づけば一週間ほどが経過しているわけで。
三週間、という制限がある以上、彼女はたとえ一日であろうと無駄にしたくないはずで。
だからつい言い淀んでしまったけれど——僕の考えていることを察して、彼女は首を振る。
「いいんです」
「……でも、時間が」
「そうですね。確かに、時間はあまり残っていません。……けれど、それで焦ってしまうよりも、その時見ることのできるものを大事にする方が良い、って、今はそう思えますから」
そう言われてしまえば、僕にそれ以上言えることはなくて。
「……あ、でも、折り紙へのチャレンジは延期になってしまいますね。すみません」
そう冗談めかして言って笑う彼女に、流石にそこまで躍起にはなっていない、と返そうとしたけれど、しかし実際のところ、それが延期になったのを残念だと思う自分がいるのも事実で。
「……まぁ、明後日また頑張るよ」
できる限り平静に告げたはずの言葉につい悔しさが滲んでしまって、それを聞いた彼女が楽しげな表情を浮かべる。
それがなんとなく釈然としなかったけれど。
「……それでは、明日、またここで」
そんな風に彼女が告げて、それで今日の『夢』は終わりを迎えた。
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