第7話

 ふっと意識が覚醒する。

 耳元ではアラームが延々と響いていて、そしてそれは僕が昨日設定した通り、少しゆっくり、といった感じの時間に起床したということを表していた。


 目覚まし時計を探してアラームを切る。ベッドから体を起こして、しばし眠りの余韻に浸る。

 そうしていると、薄い掛け布団からはみ出した足に、仄かな暖かみを感じて――それが、多分昨日と同じようにカーテンの隙間から漏れた陽光なのだろう、と推測して、僕は寝起きの沈んだ気分が少しだけ上向くのを感じた。


 今日は視覚を『貸す』日で。そしてそうしているが故に、僕はその光を目で捉えることができない。

 けれど、例えあの揺らめく光を目にすることはできずとも、それが運んでくる暖かさが変わることはなくて——だからこそ、僕は、ただアラームが鳴っているから、というだけではなく、朝を感じることができていて。

 考えてみれば当たり前なのだけれど——『見えない』ことで、例え僕の主観的な世界が変わろうとも、僕を取り巻くものまでが変わってしまうことはないのだ、と、改めて実感する。


 そして――何故そう思うのか、ということについてはよくわからなかったけれど、それは僕にとっては、少し嬉しい出来事のようだった。


 とはいえ、結局のところそれは、今まであまり意識したことのない類のもので。

 だから、陽の加減で時間を当てる、なんて芸当は僕にはまだまだできそうになくて——つまり、結局僕はセットした定時アラームを頼りにしないわけにはいかなくて。

 取り敢えずこの似合わない『規則正しい生活』を守るべく、僕は朝食を摂りに冷蔵庫の方へと向かった。




 コーンフレークを完食して、器を流しに置いてから、僕は自室の机に向かう。ここ数日で部屋の中を把握するよう努めたり、『見えない』状態で色々と動き回ったりしていたおかげか、こうした一連の動作であれば、まだぎこちないながらもさほど問題なくこなせるようになっていた。

 それから、机の上に手を這わせて、昨日あらかじめ準備していた『あるもの』を探す。さほど大きい机でもないので、すぐにそれは見つかった。

 ビニールに包まれて、そのままでは縦も横も、表裏さえわからないそれを両手で転がしながら、包装の切れ目を探して開く。

 そうして指を中に滑り込ませれば、ざらざらとした紙の触感が指先に伝わってきた。


 そう、僕が探してきた、『時間をつぶすためのもの』——それは、だった。


 折り紙を見つけたこと自体は、完全にただの偶然だった。いくつも棚を眺めているうちに、たまたま目に留まった一つ、というだけで。

 けれど、よくよく考えてみれば、『折り紙を折る』ということについては、見えないからできない、ということが存在しないのではないか、と、折る過程をイメージしてふと思って——それが結局、これを購入するに当たっての決定打となった。


 家に帰ってから少し調べたところによると、『視覚障害者による折り紙』というのは、結構色々な場面で試みられていることらしく。

 とはいえ、実際のところ、僕はさほど手先が器用なわけでも感覚が優れているわけでもなく、更に言えばこの年になって折り紙で一日を潰すなんてことができるか、というのも少し不安だったりして、それで昨日、彼女に対しては少しはぐらかすような言い方をしてしまったけれど。


 しかしまぁ、やってみなければ始まるまい。

 最初の一枚を引っ張り出すと、僕は何を折るべきかと考えを巡らせ始めた。


 やはり、最初に思い浮かんだのは、鶴だった。

 それはそうだ。折り鶴と言えば折り紙の代表格で、時には日本の文化の象徴として示されることもあるし、時には千羽鶴、なんて形で祈りを込める対象になるときもある。つまりそれは、取り敢えず、で試してみるのには順当なモノである、ということで。

 指先の感覚で紙の向きを確かめつつ、取り敢えず対角を合わせて折ってみる。これが難しかったりするかもしれない……と思っていたけれど、特にそういったこともなくて、具合を確かめるために這わした指は、折り合わせた部分がほとんどずれなく重なっていることを伝えてくる。


 これなら……と、そう意気込んで、更にその紙を半分に折ろうと——したところで、ふと根本的な問題に気付いてしまう。


 そもそも……鶴って、どうやって折れば良かったのだっけか。




「折り紙、ですか」


 彼女は、僕の答え合わせに、得心が行ったというように頷いた。


「……確かにそれなら、ホームセンターにでもありそうですね」

「多分、そんなに悪い選択じゃなかったと思うんだけど、どうかな」

「そう、ですね。……そういえば私も、小さい頃は学校なんかでよくそんなことをやっていたような気がしますし」


 彼女は、いつもより幾分か穏やかな表情で、懐かしむようにそんなことを語る。

 それから、ふと気づいた、とでも言うように。


「……あれ、でも、一日中ですか?」


 その問いに、特にそう思う理由はないはずなのに、どことなくきまりが悪くなってしまう。思わず頭を掻きつつ、僕は答える。


「……実は、これが改めてやってみると意外と難しくて」


 そもそも、折り紙を最後に折ったのがいつのことだったのかと思い返してみれば、答えられない程度には昔のことで、となれば僕がまともに折り方なんて覚えているはずがなかった。

 必死に工程を思い出そうとしても、頭の中で何となくうろ覚えの、折り合わせる・開いてつぶす・折り目を付けるなんて名前ばかりが出てくるばかりで、肝心のどこをどうすればいいのか、ということがいっこうに出てこない。


 それでも懸命に「こうだったような」を脳内から拾い集めて、なんとか試作の鶴一号機(仮)は、小さな正方形へと形を変え——しかしそこから、多分、で折り目をつけようとし始めたあたりで頭の中がこんがらがって、そのうちにどこにどう折り目が入っているのかもわからなくなってしまって、あえなく没。


 そこで折るのをやめる、という選択肢もあったのかもしれないけれど——どうやら僕は、案外妙なところで負けず嫌いらしく。

 過去に折ったのが一度や二度というわけでもあるまいし、やっていれば思い出せるだろう、と、更に失敗を重ねること三度。

 それでもうまくいかず、だったら今折れるもう少し簡単なものをやっていればそのうち何となく回路がつながって思い出せるんじゃないか、と、努力の方向性を変えて試みること更に多数。


 集中するあまりアラームの音を何度か聞き逃しそうになりつつ、一つ目の袋の中身が空になったのが大体昼に差し掛かる頃だった。

 そこから、昼食を準備し、食べる、その少しの時間ももどかしく、念のためにと買っておいた二袋目に取り掛かって。

 そのうち朧気ながらも手順を思い出してきて再び鶴に挑戦し、何度か無茶な折り方をして紙を破いたり、上下左右なんかを間違えて更に混乱すること数回。

 残りの紙も少なくなってきて、慎重に折りだすようになったころ、不意にそれまで引っかかっていた部分ができるようになり。

 そして、夕食少し前、という段階になってようやく、『鶴』と言い張れるだけの鶴が完成したときの達成感は、流石に凄まじいものがあった。


「……で、結局、夕食を食べた後は特にやることもなくて、ただただその折り鶴を触って出来を確かめつつ、達成感に浸っていたわけなんだけど」


 改めて、今日一日の自分の行動を言葉にしてみて、僕は苦笑する。


「何というか……この歳になって熱中してやることでもない、っていうか……少なくとも大学生の趣味、って感じではないな、って思うんだけど、さ」


 けれど。ふと、気付いてしまったことがあって。

 それは、ほんの少しの寂しさを伴った、よくわからない思いとして。


「何かにこんなに夢中になったのは——一体いつぶりなんだろう、って」


 微かに、彼女が息を呑むような音がした。

 いつの間にか、彼女から視線を外してしまっていることを自覚して、そんな自分にまた苦笑が浮かんできてしまう。


 やっぱり、そう簡単には、彼女に対するのようなものは消えてくれないらしい。

 彼女に、僕の無為を打ち明けるたびに、どこか心が痛むような気がするのを、僕は抑えきることができていないのだから。




 不意に、彼女が口を開く。


「……楽しかった、ですか」


 その問いかけに、僕は改めて、必死に折り鶴を完成させようともがいていた時の、そして何度も失敗を重ねた後、初めてそれが形になった時のことを思い浮かべる。

 敢えて意識はしなかったし、とにかく夢中になりすぎて、そんなことを考えている余裕は一切なかった。

 それでも、少なくともそれは、決して悪いものではなかったはずで。


「……かも、しれない」


 そんな風に答えれば、彼女は不意に穏やかな笑みを浮かべた。


「……良かったです」


 そんな風に言う彼女の言葉には、いつもどこかに感じるような皮肉っぽさも棘もなくて、それを少し意外に思う。

 もしかしたら続く言葉が何かあるかもしれない、と思って身構えてしまうけれど、それが実際に訪れることはないままで。そうしてみると後には何となく間が悪い感じが漂うのみで。


「……どうかしましたか?」


 それを妙に思ったのか、彼女が首を傾げて、不思議そうにそんなことを聞いてくる。


「……いや、なんていうか、いつもと違うな、と」

「なんですか、それ」

「いや、その。……なんか素直に受け容れられると、調子が狂うというか」

「……え、まさか、そういう趣味のある人でしたか。それはちょっと、引きます」


 すっと距離を取る彼女。

 多分冗談だとは思うけれど、しかし、こういったやり取りをしている方がまだらしい——と思ってしまったことに気がつき、一瞬本当に自分にそういう趣味があるのではないかと疑ってしまう。……違うことを祈ろう。


「……そういう意味じゃなくて」

「まぁ、ですよね」


 やはりポーズだけだったようで、彼女は普段通りの様子に戻る。

 それから、ふと呟くように。


「……まぁ、他人の趣味を笑う、とか、好きじゃないので。


 と。

 その言葉には、色々と引っかかるようなこともあったけれど。


「趣味……これは、趣味って言えるのかな」


 今まで趣味、と呼べるものは、無くもなかったけれど、大体が飽きて手放してしまったもので。

 だから、ふとそんなことを呟いてしまって——それを受けて彼女は、何でもない様子で答えた。


「さぁ。……これからも続けたい、と、あなたが思っているかどうか次第、じゃないですか」


 そんなことを言われて。

 ふと考える。

 改めて考えてみても、今日の時間の使い方が有意義だったかどうか、というのはわからない。

 少なくともただ食べて眠るだけ、というよりは幾らかマシだったとは思うけれど、それでも今日一日の意義を説明しろ、と言われて答えられる自信はない。


 けれど、少なくとも、僕がそれを悪く思っていない、ということだけは確かな事実で。

 そして、例え人に意義を説明できずとも、ただ自分が楽しんだ、という事実さえあればいい、それが趣味、というものではなかっただろうか。


「……まぁ、考えておくよ」


 そんなことを考えつつも——しかしまだ、実際に自分がどうするのか、ということはまだはっきりと像を結ばず。だから、僕は、ただ曖昧にそう答えた。




「……あ、そうでした」


 その日の『夢』も終わろうとしているその時に、不意に彼女が口を開いた。

 しかし、彼女はそこから続ける言葉に悩んでいるようで。


「えっと、……」


 そこから数秒を開けて、ようやく。


「……その、がっかりしないようにしてくださいね」


 と、そう口にした。

 その言葉の意味を、その時の僕は理解することはできず――さりとて、問い返すこともなく、僕の意識は目覚めの方へと吸い寄せられていって。


 翌朝、目覚めた僕は、机の上に置いていたの様子を見て、そこでやっと彼女の言いたかったことを理解したのだった。


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