第6話
脚の辺りに、仄かな暖かさを感じた。
それを知覚しているうちに、僕の意識は徐々に微睡みの中から浮上していき——そして、瞼を開いた僕の目が最初に捉えたのは、カーテンの隙間から淡く差し込む光の揺らぎだった。
窓を覆うそれを割り開いて眺めれば、日はまだそれほど高い位置には登っていなくて、しかしそれは、自堕落な生活を続けてきた僕にとってはかなり珍しいことだった。
「……ここ二日とも早起きしてるせいかな」
そんな風に一人で呟いてみる。
考えてみれば僕とて、以前は朝早く起きて学校に通って、ということを普通にやっていたわけで、そう考えれば、生活がただ元に戻っただけ、と言えるのかもしれない。
それにもとより、僕は周囲と比べればちゃんと睡眠時間を確保している方ではあったけれど、それでも半日近くの睡眠が必要、というわけでもなくて。
どちらかと言えば今までは——そう、することもないから眠る、という感じで。
だから、不意に『やること』が見つかる今の状況は案外、僕にとってそう悪くない状況かもしれなくて。
もしかすると、それが、僕が彼女との関係を続けたいと願った理由の一つなのかもしれないな、なんて思いながら体を起こす。
次に視覚を『貸す』日は明日。部屋の片付けも済んでいるし、今日するべきことは差し当たってはない。ひとまず今朝は少しくらいゆっくりできそうだ。
それにしても——と、ふと思う。
彼女と初めて出会ってからのことはなんだか妙に長く感じるのだけれど——しかし、改めて考えれば、せいぜいが数日のことだ。
だというのに——早く起きる、というのも、独り言を言う、というのも、人らしい生活を忘れかけていた僕にとっては久しくやっていなかったことで。
あれほど退廃的で、どうやっても普通に戻りそうもなかった僕の生活が、彼女と関わったことをきっかけとして、急速に変わり始めている。
そのことが、なんだか少し不思議だった。
小腹が空いていたけれど、もともと今日は早く起きようという気があったわけでもなく、であれば、あんな生活をしていた僕が朝食だとかその代わりになるようなものを蓄えているわけもなく。
それでも一応、と冷蔵庫を開けると、少し前に買っておいたコーヒーのボトルが目に入ったので、僅かに頭にかかる霞を払うためにそれを流し込む。
それから、手持ちでは比較的マシな方の服に着替えて、自転車の鍵を探して。いざ自転車のところまで行ってみれば、長らく使っていなかったせいでタイヤの空気が抜けてしまっていて、空気入れを取りにまた部屋にもどることになってしまったけれど、それはそれ。
折角早く起きたのだし、何かをしよう、というモチベーションが、今の僕にはあって。
行く先は決めていなかったけれど、やることは決まっていた。
『時間の潰し方』を見つけるのだ。
一年間をほぼ無為に過ごしてきた、その自覚はある。
けれど、ただ一年生きるというのだって、それなりに必要なことや物があるはずで、となれば地元を離れていたとしても、近所のめぼしい店くらいは把握しているはずだ——と、そう思っていたのが少し前。
しかし、改めて考えれば、『最低限必要なもの』なんて、意外と近所で済んでしまうもので、となれば、そんな僕が『娯楽品』を探そうとしたって思い当たる場所がない、というのは容易に想像がつくことで。
それを理解したうえで――それでも、何とか普段あまり行かない場所に足を向けようと頑張ってみた結果として自分が今、近所のホームセンターの前に立っている、というのは、いささか受け入れたくない現実な気がするのだった。
もう少しくらいはこう、大学生っぽく遊んでおいたほうが良かっただろうか、という、今更かつどうしようもない後悔に襲われそうになる。
とはいえ、想像してみても、自分が同期と一緒にバカ騒ぎしている様子というのも想像できなかった。
結局、大事なのは何を見つけるか、なのだし、時間もあるのだからダメなら他を回ればいい、と半ば強引に自分を納得させて、僕は自動ドアを潜り抜ける。
冬から春へと移り変わる季節、ともなると、店によってはまだ暖房をきかせていたりするところがあるのだけれど、ここもその例に漏れなかった。
先ほどまで自転車を漕いでいた、ということもあって少し暑く感じて、僕は上着を脱いで腕にかけて——そして、顔を上げた先で、改めて店内の大きさに少し驚いてしまう。
よく考えれば、一人暮らしを始めるにあたってここにも何度か足を運んでいるはずなのだけれど——やはり、ずっとほぼコンビニの店内だとか自室だとか、そういった狭いものしか見ていなかったから、余計にそう感じるのだろうか、と思いつつ。
しかしまぁ、今回の目的を考えれば、それほど多くのコーナーをめぐる必要もないはずだ、と思い直して、僕は居並ぶ棚の方に足を踏み出した。
「……ホームセンター、ですか」
その日の『夢』の中で、彼女にそんないきさつを話せば、彼女はやや困惑した表情をする。
「……まぁ、あんまり向いた場所に行ったわけじゃない、とは自分でも思ってる」
「ですよね。……流石に、角材を一日中弄ぶ、とかなると少し、その、引きますし」
言われて、ついついその様子を想像してしまう。
そろそろ二十歳にもなろうという男が、家の中で一人、ホームセンターで買ってきた角材を持ち替えたり投げたりして戯れている様子——控えめに言って、引くどころではない。
「……うん、流石にそれはない」
そう否定すると、彼女はなんだか安心したといった表情をする。冗談だと思ったのだけれど……いや、冗談だとしても本当にそうなったら怖い、という感じだろうか。
そうして——なぜか、僕らの間に静寂が降りる。
何か妙なことを言っただろうか、と考えるけれど、特に心当たりもなく。彼女の方を見れば、彼女は首をかしげて。
「……えっと、それで、そのあとどうしたんですか?」
「どうした、って」
そう聞き返すと、彼女はいよいよわけがわからない、という顔をして。
「……え、だって、何も見つからなかったんですよね……と、いうことは、次のところに行ったり、とか……え……?」
僕がいっこうに答えないせいで何か思考のループに捉われている様子の彼女に、遅れて僕は助け舟を出す。
「いや、何も見つからなかった、とは言ってないよ」
そう言えば、彼女は一瞬呆けたようになって、それから驚愕したというような表情をして。
「……や、やっぱり、角材……?」
「いや、違うから……」
もはや冗談で言っているのか本気で言っているのかもわからなかった。
とはいえ、実際のところ僕も、それを見つけるまでは来る場所を間違えただろうかと思ってしまうほど、時間をつぶせるようなものを見つけるのは難しかったので、そう言いたくなる気持ちは理解できなくもないのだけれど。
「……えっと、でも……日曜大工の趣味とかは、ありませんよね」
「そうだね」
図面を書いたり、組み立てたりと言った作業は、正直なところ苦手だった。まして目が見えない状況となれば、金槌なんかで手を打って怪我をする未来しか見えない。しかもいざやるとなればそれなりに資金もいるし、正直なところそれが僕に向いてるとは思えない……というのは、昼頃僕が考えた末に出した結論だった。
「……まぁ、そういった技術がいる物じゃなくて、もっと普通のものだよ」
「ちなみに、何か、は教えていただけないんですか?」
「……正直なところ、僕もこれが上手くいくかどうかは自信がないし、出来れば試してから言いたい」
そう言えば、彼女は何か不思議がるようにしつつも、しかし昨日の約束通り『読む』のはやめてくれたみたいだった。
そうしてみれば、とりあえず僕の方から話すようなことはなくて。ここで終わり、ということにしてもよかったのだけれど、これまではそれなりに長い時間『夢』の中で話していたわけで、何となく物足りなさを感じた。
なので、何となく気になっていたことを口に出す。
「それで——聞いていいのかどうかちょっと悩んだけど……君の方は、明日、何かする予定とかあるのかな」
「私、ですか」
思えば、ここ数日の間、僕がやっていたことについてはよく話していたけれど、彼女の側が視覚を借りて何をしていたか、ということは、あまり聞いたことがなかったような気がする。
勿論、『見たいもの』を見る、という目的がある、ということは知っていたし、そこで具体的に言わないということは、『言いたくない』ということを表しているのだと思う。
しかし、何しろ三週間という長期なのだ。それだけの時間を、ただずっと同じものを見続けて過ごしている、というわけでもないだろうし、となれば話せることの一つくらいはあるのではないか、と思った。
実際のところ、その推測は間違っていなかったようで。
「そう、ですね……これまでの二日間はずっと部屋の中で過ごして、少しずつ『見る』ということについては慣れることができたと思うので、明日は少しだけ、外に出てみようと思います」
「……思いのほか、ゆっくりなんだな」
「はい。……その、前も少し話したと思いますけど、『見える』という感覚に慣れるのが、少し難しくて」
そう言った彼女は、どう説明すればいいか、と少し考えを巡らせていたようで。
「その、部屋のものとかに関しては、もちろんイメージは掴めていますし、見えない状態でもちゃんとどこに何があるのか、とかは把握できるんです。……けれど、映像としてそれを見ると、その、情報量が多くなってしまって」
そう言えば、彼女は以前、目が見えないのは生まれつきだ、というようなことを言っていた記憶がある。
それが本当だとすれば、彼女は今まで全く『視覚』というものを経験したことがなかったはずで。となれば、それを受け入れるまでに時間がかかるのも納得できる話ではあった。
「……実は、最初の一日は、少しだけ頭が痛くなってしまって、ほとんどは目を閉じたままでいたんです。目を開けていても平気になったのは、前回の途中からくらいで……だから多分、明日も、近所を少し回るくらいで終わってしまう気がします」
「……なるほど」
「その、私も、もしかしたらこうなるかもしれない、とは思っていたんですけど……正直、ここまでだとは思っていませんでした」
そう言って、彼女は俯いて不安そうな表情になる。
「……正直に言ってしまえば、自分が『見たいもの』をちゃんと見ることができるのか、少し不安なんです。……勿論、ただ見るだけだったら、今の状態でも頑張ればできると思います」
けれど、と彼女は続けて。
「……私は、それが美しくあってほしい、と願っているんです。けれど、私にとって、『視覚的な美しさ』というのは、今まであまり想像したことがないものなんです」
「……なるほど」
人間の感覚がどのように形成されるか、ということについては諸説ある、みたいな話を、まだギリギリ大学に通っていたころに聞いたような記憶があった。
人間は危険なものを不快だ、として認識する。それは、人間が危険を避けるために生まれつき持っている感覚だ——とする説がある一方で、それは誰かから教わって身に着けたものだ、という説もある、とか。
実際のところそれがどうなのかはわからないけれど――しかし、多分彼女が言っているのは多分そういうことで。
彼女が見たいもの、というのはきっと、僕らの感覚では美しいとされているもので、けれどきっと彼女がそれを『美しい』と思うためには、『何を美しいと思うか』という基準が必要で――そして、きっと彼女はまだ、それを獲得するには至っていないのだ、と。
「……やっぱり、もう少し『貸す』日数を多くした方が良いんじゃないか」
そう提案してみるけれど、彼女は首を振ってそれを否定する。
「そう言っていただけるのは、本当に嬉しいです。……けれど、お互いの都合もありますし……正直に言えば、私もずっと『見える』状態でいるのは、まだ疲れてしまうと思いますから」
そう断られてしまえば、僕の方もこれ以上何かを提案するのは難しかった。
そうして訪れた沈黙の中で、不意に彼女は笑顔を浮かべて。
「……それにまぁ、明日あなたが上手く時間を潰せるとも限りませんし」
と、そんなことを言う。
「……それは、君が気にすることなのかな」
「ええ。……あまりの暇さに、視覚を貸すのを断られる、なんてことがあってもいけませんから」
その言葉は、冗談めかして放たれて。そしてそれは、確かに冗談ではあったのだろうけど、同時にやはり、そうなることを恐れているようでもあって。
「……頑張るよ」
と、だから僕はただ、そう返すことしかできなかったのだった。
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