第3話

 次の日。目が覚めた僕は、情けないことに、暫くの間、パニックを引き起こしてしまっていた。

 と、言うのも、その時僕は、ある一つの事実に気付き、そしてそれに思考が囚われてしまったからである。


 


 それは、まったくもって初めての体験で。

 どれだけ時間が経とうとも、どれほど見ようとしても、決して僕の目に何かが写ることはなく。

 そしてその、昨日までは普通だった「見える」という事実がなくなる、ということは、僕を動揺させるには十分だったのだった。




 その時の僕の錯乱ぶりは――まぁ、あまり触れたいものではないので割愛することにして。

 一通りの恐慌を済ませ、小康状態に落ち着いたころ、ようやく僕は、昨夜体験した『夢』のことを思い出すことができたのだった。


 そのことに思い至った僕は、今度は先ほどとは別種の驚きを感じた。

 確かに、知らない人が突然に夢の中に現れて、『視覚を貸してくれ』と言ってくる、なんて、夢にしてもなかなかぶっ飛んだものだとは思っていたのだけれど――まさか、それが本当になる、だなんてこと、普通の人なら思わないだろう。


 落ち着いた状態で、もう一度、今の状態を確認してみる。

 瞼の上から目の部分に指をあててみると、眼球自体はそこにあるようで、しかし、意識して何度目を開こうとも、僕の目には何も入ってこない。

 よく、目が見えない人のことを、光を失った、とか言うけれど、実際のところ見えない、というのは、単に真っ暗、というのとはちょっと違うようだった。

 言うなれば――そう、そもそも、『視覚』というものが存在しないのだ。

 もし、僕がそう言ったことを言葉にするときがあれば、少し言い回しには気を遣おう、と心の内で思った。


 次に何かを『見る』のはいつのことだろうか。……まぁ、夢の中の『彼女』の言葉では、毎晩夢の中に現れる、ということだったので、もし都合が悪かったらその時に言って返してもらえばいいことだ。

 彼女の『見たいもの』というものが何かは知らないが、まぁ見るだけならさほど時間もかからないだろうし、それまでは家で静かに過ごしておけばいい話だ。貯めてある食料だって暫くは持つだろう。


 ……なんてことを考えたら、空腹感が襲ってくる。

 今の時間は――知ろうにも時計が見えないからわからないのだけど、いつも通りの時間に起きているとするともうそろそろ昼頃、ということになる。

 料理はできない、というかそもそも道具も材料もろくに揃ってはいないが、自堕落な生活の弊害というべきか恩恵と言うべきか、お湯だけは電気ポッドの中にいつも切らさぬよう備えてある。技術の発展のおかげで、それさえあれば一食程度、事前に買い物だけ済ませてあればどうとでもできるのだ。


 幸い、例え目が見えずとも、もうかれこれ一年ほど過ごしてきたこの家の間取りは頭に入っている。某有名メーカーのカップ麺が、確かキッチンの戸棚に結構な数突っ込んであったはずだ。僕はベッドの位置からそこまでの道順を思い浮かべ、途中にあるものの配置を思い出す。

 あとは、手探りで進んでいけばいいだけだ。時間はかかるだろうけど、たどり着けない、なんてことはないだろう。

 そう思って僕は、慎重に位置を確かめつつ、ベッドから離した両足を床につける。

 それから立ち上がり、机のある位置にそっと手を伸ばすと、ほどなくして指先が何かに触れた。

 それを手がかりにして伝っていこう、と考え、立ち上がりながらそこに力を込めた――そこまでは良かったのだが。


 しかしその一瞬後、床にひっくり返ることになる、とは、誰が予想しただろうか。


 肩や背中のあたりをしたたかに打ち付け、その痛みにリソースを持っていかれてしまって鈍った頭で、先ほどの状況を回想する。


 立ち上がる、という動作自体はほとんど完了していたと思う。

 しかし、その瞬間に、頼りにしていたものがたのだった。

 あれは何だったのだろうか。机の天板は固定されているから動かないはずだし机上だって全くの野放図にはなっていなかったはずで――と、そこで気付く。そういえば昨日、食べ終わった弁当のゴミをそこらに放っていなかっただろうか。

 なんてことだ、と頭に手を当てる。タイミングが悪いにもほどがあった。これで昨日蓋を閉めるのすらサボって、中に残っているものを浴びたりしていたら、もうそれは最悪な気分だったんだろうな、と思う。


 しかしそんな小粋なジョークは――ゆっくりと立ち上がっていくのとともに、マズい、という思いにとって代わられる。

 いったい僕は、、ということまで事細かく把握しているのだろうか。

 その答えは。


「……えっと」


 遅れて、背筋を嫌なものが伝っていく。

 いっそ今日は動かずにいるべきか、と思い、しかしそれをする、ということはすなわち、最低でも今日の分二食を抜くということになるわけで。

 さらには、『一日じゃなくてもいい』と、彼女に堂々と宣言した手前、それを簡単には引っ込めることは、できればしたくない。と、すると、ここで諦めるということは数日分の絶食を意味するわけで。


 流石にそれは耐えきれない、という判断から、僕としては壮絶な覚悟を伴って踏み出した一歩目はさっそく何かを踏んづけて、僕は再び床に転がることとなった。




「……ごめんなさい」


 そして、その日の夜、『夢』の中でのこと。

 そこには、『彼女』の前で、それは見事な土下座をする僕の姿があった。


 どうやら、『夢』の中では、視覚は元に戻るようで、今の僕はちゃんと『彼女』の姿を視認することができていた。

 僕は、その事実に心の内で感謝する。

 視覚が恋しかった、というのもあるが――彼女が見えていなかったら、多分僕は、見当違いの方向に土下座することになっていたと思うから。


 一方で、それを受ける彼女の方は、冷ややかな雰囲気を放って。


「……まぁ、こうなるとは思ってましたけれど」


 と、呆れたように、そんな言葉を吐いた。




 あれから、僕はその後も何度か部屋の中で転び続けた。

 その音をやかましく思ったのか、隣人がいわゆる、ときめかない方の壁ドンをしてきたりしたのだが、正直に言うところそれを気にする余裕は全くなく。

 這う這うの体で、何とかポッドとカップ麺の置いてある台所までたどり着いた僕だったけれど、そこからも一苦労で。

 まず、棚から目的のものを取り出す過程で、余計なものまで一気に頭上に落ちてくる。そこから何とか比較的楽にできそうなものを探して蓋を取るまでのことは簡単にできたのだが、お湯を注ぐ段階で、注ぎ口と容器との位置関係をうまくつかめず火傷を負う、目安の線が見えないためにお湯の量がわからない、そして勘で注ぎ終えてから初めて、三分を計る手段がないことに気付く。


 問題はそれだけにとどまらなかった。


 六十秒を三回数える、という、多分小学生以来のことをこなし、さぁ完成だ、というところになって、そこで今度は箸の用意をしていないことに気付き、僕は頭を抱えた。流石に箸程度は洗って使っていたし、コンビニの弁当を買うときは割り箸がついてくるものだったし、ということで、自宅にある割り箸の位置はもう完全にうろ覚えになってしまっていた。

 それでも何とか記憶を頼りに箸を見つけ出して持ってきたころには、麺はすでに伸び切ってしまっていて――かと思えば湯の量が結構足りていなかったせいで味が妙に濃かったり、硬い部分があったり、さりとて湯を足したところでそれが解決するわけでもないし、また火傷をするのも出来れば避けたかった。

 結局、半ば強引にそれを食べ終えた僕はすぐにベッドに向かい、布団を抱きしめて、当然ながら全く訪れない眠気をなんとか待ち続け――そして、今に至るというわけである。




「……正直、自分がここまで目に頼ってるとは思わなかった」


 それはその通りで。目が数日見えない程度では大したこともないだろう、なんて言う考えがだいぶ甘かった、ということを、僕は今日一日で十分に理解させられてしまったのだった。


 僕の情けない言い訳を聞いて、彼女は大きくため息をついた。


「……わかりました。お返しします」

「……うん、ごめん」


 一日じゃなくてもいい、数日おきに返してくれればいい、とか、どの口が言ったのだろうか、と、自分でも非常に申し訳なくなるのだが、流石にこのままの状態で何日も暮らすのは無理がありそうだった。

 ひとまず、土下座したままでは話しにくい。謝意を伝えることは多分できたと思うので、僕は立ち上がる。


「……だから、物凄く申し訳ないのだけど、一日だけくれないか。ちゃんと準備してからなら大丈夫だと思うから」


 そう言うと、何故だか彼女は少し驚いたような様子を見せた。


「意外です。てっきり、もう貸さない、と言われるものだと思っていました」

「……流石に、これ以上、自分の言ったことを覆したくはないからね」

「……変わった人ですね」


 そう言いつつも、彼女は少し笑ったようだった。


「……それで、そっちはどうだったのさ、『見たいもの』は見れた?」

「いえ……実のところ、『見える』ということに慣れるのに、結構な時間がかかってしまって、それほど物を見れていないのです。……それに」


 少し考えるようにしてから、彼女は言葉を継ぐ。


「……実は、見たいもの、というのも、今すぐに見られるわけではなくて。だから、もし今日断られたらどうしようか、とも考えていたんです」

「……ちなみに、それを見ることができる目途は立っているのか?」


 そこでつい気になって、僕はそんな事を聞く。

 何しろ、一応は視覚を貸しているのだ。『見たいものがある』と言うからには、それを見る、という目標を達成した時点で終わりなのだろう、と思っていた。これが無期限に続くとなると、流石に少し不安になる。

 しかし、その心配は杞憂だったようで。


「……はい、その点に関しては、よほどのことがない限り大丈夫だと思います」


 そこに関しては、彼女はよどみなく言い切った。


「そう、か。……ちなみに、それを見るのに、どれくらい時間がかかる?」

「……その、やはり、都合が悪いでしょうか」

「いや。……でも、一応僕も『貸す』側だから、それくらいは知っておきたい」


 そう言うと、彼女は何かを思い悩むように、暫くの間押し黙った。

 それでも急かすことなく待ち続けると、やがて、おずおずと彼女が口を開く。


「……三週間ほど、でしょうか。それだけあれば、十分だと思います」


 

 その数字は、僕には意外なものだった。

 見たいもの、というものが何かはわからないが、しかしただ見る、というだけなら一日、記憶に残す、という意味だとしても、数日あれば足りそうなものだった。

 だから、僕はついつい、疑いの念を抱いてしまって——そして、彼女は、それを察したようで。


 不意に、彼女の体に緊張が走り——そして、彼女は唐突に、頭を下げる。


「——お願いします」


 そして、絞り出すように、そう口にした。

 その急変に戸惑う僕の前で、彼女は顔を上げないまま続ける。


自体、任意のものなので、私とあなたとの同意がなければ視覚を借りることはできません。決して、あなたに無理強いをするものではないのです」


 それでも、と彼女は口にする。


「……原因も原理も、私にはわかりませんが、それでも私の予想が正しければ、この奇跡みたいな現象は、その三週間のために起きているのだと思います。……ですから、きっと、それさえ終わればもう、あなたの視覚を奪うということも、無くなると思うんです」


 彼女は、どこか必死な様子だった。

 そして――それはまるで、何かに怯えているようにも見えて。

 

「今、この件に関して私が頼れるのは、あなたしかいないんです。……お願いします。たとえ、一週間に一度でもいいから、私が視覚を使うことを許してほしいのです」


 言い終えて、それ以上続く言葉はないようで、しかし彼女は頭を下げたままだった。

 その様子に、僕はすっかり慌ててしまう。


「……不安にさせてごめん。貸さない、なんて言う気はないよ」

「……本当、ですか」


 恐る恐る、という様子で、彼女は顔を上げる。

 それがなんだか申し訳なくて、僕は口早に言葉を継いだ。


「もともと、僕がいい、って言ったんだから、そこを覆すつもりはないし、それにもし必要なら、一週間に一度、なんて言わずに何日でも使っていい。……ただ、どれくらい連続で貸せるか、ということに関しては、明日することと、そのあとどうなるか、によって考えさせてもらうけれど」

「……ありがとうございます」


 もう一度彼女は、深々と頭を下げる。

 それをなんだか見ていられなくなって——僕はひそかに、一つ決意をする。


「……取り敢えず、明日一日は、申し訳ないけど返してほしい。その上で、また夢の中で会って相談、ということにしたいのだけれど、いいかな」

「はい」

「……じゃぁ、そういうことで」


 つい目を逸らした僕に、「ありがとうございます」と、彼女はまた小さく告げた。

 やがて、昨日と同じように視界に霧がかかるようになって、僕の意識は徐々に覚醒へと向かっていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る