第2話
何をしていても、何もしなくても、時間とは平等に流れ去っていくもので。
だから当然のこととして、後は夕食もコンビニに買いに行った程度しかすることがなかった僕にも、夜は訪れて。
そんな生活も、もはやいつものこととなりかけていたのだけれど、それでもこの夜は一つだけ、いつもと違うことがあった。
それが夢だとわかったのは、そのあまりの現実味のなさからだった。
気づいたとき、僕は真っ白な空間の中に立っていた。
そこには、一切のものがなかった。天井も、床も、壁もなくて、自分が真っ白な何かを見ているのか、それともどこまでも続く白い風景を眺めているのか区別がつかなかったし、ともすれば自分が今どこに立っているのかすら不明だった。
自分が夢を見ているのだと悟って、僕は思わず笑ってしまう。
人が夢を見るのはなぜか、ということについては大体が解明されていたはずで、それによると、人は自分の記憶を整理するために夢を見るのだという。
それならば、ずっと何もしてこなかった僕が見る夢が、何もない世界、だというのは、もっともなことだと思った。
だから、突然、何もなかったはずの場所から一人の女性が現れたとき、僕はそれを意外に思った。
と、いうのも、てっきり僕は、この夢が、空虚な僕に対する皮肉だと思い込んでいたからだ。
「こんばんは」
さて、どうしたものか、と考えていると、彼女の方が先に口を開いた。
「……こんばんは」
夢だとわかっていて、夢の中の人物と会話する意味はあるのだろうか、なんてことを少し考えたのだけれど、親にこれだけはと叩き込まれた礼儀が発揮された結果、ほぼ無意識に僕は挨拶を返していた。
そこで一旦会話は途切れて、沈黙が訪れる。
その間に、僕は彼女をつぶさに観察する。
彼女の外見は、僕とはそう歳が離れていないように見える。服装は白を基調にしたシンプルなもので、それは少しばかり僕に大人びた印象を与えた。
身長は、僕よりも少し低いくらいだろうか。髪はそれほど長くなく、肩くらいのところで切りそろえられている。
と、そこまで観察し終えて、僕はふと違和感に気付く。
「……目、開けないのか」
目の前の彼女は、いつまで経っても目を開こうとしなかった。
僕があれだけまじまじと相手のことを見ていたというのに、視線が合って気まずくなる、とか、そんなことが一切起こらなかったのはそのせいだった。
それが気になって、ついそんな発言をしてしまったのだけれど――彼女は、「あぁ、コレですか」と言って、左手で自分の閉じた瞼に触れる。
「構いません。……どうせ、見えやしませんから」
その言葉に、しまった、と思う。
「……ごめん、軽率な発言だった」
「いいですよ、言われ慣れてますから。……まぁ、デリカシーのない人だな、とは思いましたけど」
棘のある言葉に、気にしてるじゃないか、と思ったけれど、それは口に出さない。そもそも元はと言えば僕が悪い。
「と、いうか、初対面の相手に敬語もなし、ですか。礼儀がなっていないのではないですか?」
そこにさらに追撃が入った。しかも正論だった。ぐうの音も出ない。
「……悪かったね。フレンドリーは僕の信条なんだ」
「普段全く外に出ないのに、ですか?」
さらに言えば、僕の日々の生活までも筒抜けのようだった。……まぁ、夢の中なのだから当然なのかもしれないけれど。
素直に僕は両手を上げて降参の意を示す。もっとも、これも彼女には見えていないのだろうけど。
「オッケー、降参、僕の負け。……で、他に何もないなら、もういいかな。夢の中だっていうのにこれ以上非難され続けたらかなわない」
「……まぁ、そうですね。すみません、不毛な発言でした」
この人は、わざと僕を怒らせようとしてやしないか。
まぁいい、どうせ夢なのだ。少しくらいは寛大な心を持つべきだろう。
僕は「それじゃ」と告げると、目を閉じる。こんなろくでもない夢を見るくらいならさっさと目覚めてしまえ、と。
「待ってください、用がないとは言っていません」
しかし、すぐに僕は彼女によって呼び止められる。
無視しようか、と思ったけれど、そうしたらまた色々と言われて跡が面倒だろうなぁ……と思った僕は、仕方なく目を開ける。
「……えっと、それじゃぁ一体、なんの用なのさ」
「……あなたみたいな人に頼まなければいけない、というのも不本意なのですが」
そう前置きして。
そうして彼女の口から告げられたのは――しかし、予想、どころか、考えすらしなかった言葉だった。
「単刀直入に言います。……あなたの視覚を、少しの間、貸していただけませんか」
「……ごめん、意味が分からないんだけれど」
つい、思ったことがそのまま声になって出てしまう。
それも無理からぬことだと思う。いきなり、しかも夢の中で、視覚を貸してほしい、と言われても、わけがわからないのだから。
そもそも、何をどうやって。
「まさかとは思うけど、角膜を移植、とかそういうことだったりするのかな。……だとしたら、さすがにちょっと」
「貸して、と言っているのだから、可逆的なものです。……大体、私のこれは生まれつきで、そういうタイプとも違うので角膜移植をしたところで見えるようにはなりませんよ。そんなことも知らないんですか?」
……気を立てているのだろうか、と思ったけれど、どうもこの人の場合、それに加えてただ口が悪い、というのもありそうだ。
「……それは悪かったね、不勉強で。……でも、それなら一体何をするっていうのさ」
「知りません」
おい、と思わず突っ込んでしまったのは、致し方ないことだと思う。
しかし彼女は、そんな僕の突っ込みなどどこ吹く風、といった様子で。
「私にわかるのは、そうできる、ということだけです」
「どういうことさ」
「……私にも、実はよくわからないんです」
彼女は、少し考えるように、その細い人差し指を顎に当てる。
「なんといいますか、こう、頭の中で囁かれている感じ、とでも言うんでしょうか。理屈も何も知らないのに、ただ、そうできるらしい、ということだけがわかる、というか、まぁ、そんな感じです」
「……信じがたいな、そんな話」
「信じていただけるかどうか、は問題じゃありません。私にとって大事なことは、視覚を貸していただけるのかどうか、ということだけですから」
ふむ。
確かに、それもそうだった。別に信じようと信じなかろうと、もしできるのであればそうなるのだろうし、できないのだったら戯言とか気のせいとかで流してしまえることだった。
少し考えて――僕は、指を二本立てた。勿論ピースサインではない。
「……二つほど、質問してもいいかな」
「どうぞ」
そこで、この所作も彼女には見えていないんだった、と思い出して手を下ろす。
質問、と言っても、大したことではなくて、むしろ好奇心による部分が大きくはあるのだけれど、しかし、視覚を貸す、というのは計り知れないほど大きなものだから、もしそれが本当だとしたら、これくらいは聞いてもいいだろう、と思った。
「まず第一に。君はどうして、視覚を借りたい、と思っているのか」
「そんなの、目の見えない人なら誰だって、世界をこの目で見てみたいと思うものですよ。——これじゃ、ダメですか」
「できれば、そうじゃない方で」
すると彼女は、しばし沈黙してから、静かに言葉を吐いた。
「……どうしても、見たいものがあるんです」
その声は、今までの気の強そうだった感じが嘘のように頼りなさげで。
けれど、中にどこか、熱がこもっているような感じがした。
「それを見たい、というのは、物心ついたころからずっと思っていたことです。……けれど、今はそれだけじゃなくて。……今だからこそ、切実に、そう思っているのです」
それから彼女は、一拍をおいて、自らの言葉を振り返ったようだった。
そして。
「……初対面の方にお話しできるのは、これくらいでしょうか」
「いや、十分だよ。……なんとなく、事情がありそうなのは理解した」
「それなら、よかったです。……それで、二つ目というのは」
その問いに、僕は、用意していたもう一つの問い、というものを投げかける。
「……どうして、僕なんだ?」
それは、僕にとっては至極当然の問いだった。
世の中には、視覚障害の人を支援したいと思っている人が沢山いるはずで、それは多分、例えば彼女の身近な人だとかも例外ではないだろう。仮に彼女が、彼女の言う通りの超常の何かで人の視覚を借りることができるのだとして、ならば、そうした人たちに頼むのが一番丸いのではないだろうか。
それなのに、なぜ、彼女とは初対面で、そうした問題についてもほとんど関心がない僕に、白羽の矢が立ったのか。
すると彼女は、こちらは驚くほどあっさりと。
「わかりません」
と、答えた。
「……それもまた、頭の中の声、とかいうものの仕業なわけか」
「そうですね。何しろ、私は何をしたわけでもないのに、ここで対話をする相手として、あなたが選ばれているわけなのですから」
でも、と彼女は言葉を継ぐ。
「……でも、選んだのは私ではありませんけど、あなたが選ばれた理由は、何となくわかる気がします」
「……と、いうと」
そう聞き返すと、彼女は、目を閉じたままの顔をこちらに向けて。
そして――冷たい声で、こう聞いた。
「——あなたは今日、一体どれだけのものを、意識して見ましたか」
その言葉に。
そして、その裏に滲み出ている嫌悪の念に、僕はふと得心がいく。
あぁ、そうか。
彼女は僕を、憎んでいるのかもしれない。
「あなたは今日……もっと言えば、ほとんど毎日、部屋とコンビニの間を往復するくらいで、しかもそれすらロクに意識すらしていないじゃないですか。……もし私が、選ぶ側だったら、迷わずあなたのような人を選びます」
考えてみれば、当たり前のことだった。
僕が何気なく見ている景色だって、それは、彼女のような人たちが、見ようと思っても見ることのできない景色なのだ。
そういうことを、知らないわけではないつもりだった。
けれど――僕は、実際に彼女にそう言われるまで、結局は意識すらしていなかったのだ。
「……確かに、それも道理だ」
その呟きに、彼女は何も返さなかった。
一瞬、謝ろうかと思った。けれど、ここで謝罪をしたところで、それはどうにも薄っぺらくなってしまいそうで、何より、ここまで言われてなお、僕は自分の生活を変えようなんて言うことは思えなくて。
「……僕の生活について知ってるのも」
「ええ。……あくまでも、情報として、ですけど」
なるほど。全く理屈はわからないけど、これは、僕では理解すら及ばない『何か』によって起こされていることらしい。
そこまで考えて、僕は不意に苦笑してしまう。いつの間にか、これが夢だ――という仮定は、どこかに吹き飛んでしまっていた。
もっとも、これが夢でも夢でなかろうとも関係なかろう、と僕は思う。その程度には、僕は捨て鉢な気分になってしまっていた。
それは、多分、自分以外の誰かに、自分の空虚性を指摘されたからだと思う。
「……わかった、いいよ。その話、受けよう」
「いいんですか」
「あぁ。……何なら、一日じゃなくてもいい。数日おきに返してくれれば、死にはしない」
そう言うと、彼女は怪訝そうな顔をした。
「……無茶だと思いますが」
「いいんだよ。……僕の生活は君も知ってるだろう。ロクに外出もしやしないんだし、多少何かあったところで死にやしないさ」
「はぁ、そうですか」
どことなく納得がいっていなさそうな様子で、彼女は半端な返事をする。
それから、何かを言いかけて――しかし、それは止めて。
「——わかりました。……でも、念のため、日ごとにこうして、夢の中で連絡を取りに来ます」
「そうか。まぁ、君の好きなようにしてくれ」
「はい。……それでは、明日の朝から、視覚をお借りします。起きた後、何も見えなくて、戸惑って何かトラブルなど起こされませんように」
「わかってるよ」
僕の適当な返事に、彼女はまだ何か言いたそうな様子だったが、結局それも引っ込めて、「それでは」と告げて、振り向いてしまう。
やがて、霧の中に消えていくかのように、彼女の姿が薄くなり、ついには完全に見えなくなる。
それを確認して、僕も目を閉じる。
思えば奇妙な体験で、実際のところ目を覚ました僕がどうなるのかはわからなかったけれど――しかしまぁ、その時になればわかることだと思った。
やがて、僕の意識もフェードアウトするかのように段々と薄れ、そして――
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