第4話

 翌日。目が覚めて、天井が目に入り、そこで僕は、視覚が戻っていることを実感した。

 枕元に置いてある時計に目をやると、珍しいことにまだ八時にもなっていなかった。よく考えてみれば、昨日は昼過ぎから寝ようとしていたわけで、睡眠時間としては妥当なのだろうけど、今日に限って言えば早起きの原因はもっと他にあるような気がしてならなかった。

 結局何を言うことも出来ずに『夢』は終わってしまったのだけれど、しかし、最後に彼女が見せた表情がどうにも気にかかって。

 しかし、頭を振っていったんそれを振り払うと、僕は久しぶりに身支度を始める。


 悩むことはいつでもできるが、しかし今日はやらなければいけないことが山のようにある。考えるのはそれが済んでからでいい。そう言い聞かせて、僕は部屋を後にした。




 かなり時間はかかったものの、何とか一通りのやることを済ませて。

 昨日『また夢で会ってそこで相談』とは言ったものの、彼女が今日もまた来てくれるか、ということについては――とりわけ昨日の悲壮な表情を見てしまった後だと少し心配だったのだけれど、幸いにして、今日も『夢』は訪れた。


 程なく現れた彼女に、謝罪の言葉を掛けたい気持ちに駆られる。

 けれど、それではまた彼女を不安にさせてしまいそうで——だから、僕は、彼女の表情を見るよりも先に、端的に言う。


「——準備を済ませてきた。明日からまた視覚を貸すよ」


 その言葉に、彼女は戸惑ったようだった。

 暫し絶句して、辛うじて言葉を紡ぐ。


「準備、って……」


 それから、何かに気付いたようにして、驚いた素振りを見せる。

 そして、茫然とした様子で。


「……嘘」


 と、そんな言葉を口にした。

 その様子に、やはり、彼女を不安にさせてしまっていたんだな、と、改めて実感する。


 僕が彼女に信用されていない。それは考えてみれば当たり前のことだった。

 理屈はわからないけれど、彼女は最近の僕の素行が分かっているようで。

 だとしたら——親に留年したという事実を告げず、送られてきている仕送りだけで生計を立て、コンビニ弁当やインスタント食品ばかりを食べては片付けもせず、あとは寝てばかり、という僕の生活を見て、それに良いイメージを抱くはずがないのだ。


 それを、否定しようなんて気はさらさらなかった。

 彼女一人の認識を変えたところで、僕自身が何もしなければ、僕が人間として駄目だ、という事実は変わらないし、それに彼女は僕の所業が分かるらしいから、多少の誤魔化し程度のものはすぐ見破られてしまって見栄にもならないだろう。


 だから単純に、『見たいものがある』と言った彼女に対して、そして僕が言ってしまった口約束に対して応えるために——僕は、今日、必死になって家の片づけをした。


 元々が、足の踏み場もない、よりややマシ、という状況だったので、それを綺麗にする、というのはひたすらに大変な作業だった。

 そもそも、最後に家を片付けたのはいつのことかわからない。そんな有様だったので、ゴミ袋の在処すら忘れてしまっていた。


 出来れば今日一日で済ませてしまいたい、と思っていたので、とにかく手当たり次第にあらゆる棚を探し回って、目当てのものを見つけるとそこに目に見えるものを必要なものを残して全部放り込んだ。僕の苦手なあの、黒いヤツが出てくるのではないか、という恐怖に襲われそうになっていたが、今年の冬が寒かったせいか遭遇はせずに済んだ。


 それからそれをゴミ捨て場に——と思ったが、回収日の前日ではなかったために仕方なく玄関の邪魔にならない位置に袋を置いて。

 そのあとも、目立つ場所の埃を取ったり、散乱していたものを片付けたり、最近はあまり行っていなかった近所のスーパーまで出向いて、レンジで温めるだけで食べることのできる食品類を幾つか買い込んできたりした。


 そんな風に、自分の思いつく限りのことをしたので、当たり前ではあるけれどとても疲れた。しかもここまでやったところで、結局一日であの部屋をきれいさっぱりという感じにするには時間が足りず、幾らかの動線を確保するにとどまったし、大体がろくに調べもしない素人のやることだ。どこまで的を射たことができているのかわからない。

 実際のところどうなのだろう——と、彼女の方に向き直ると、彼女は何やら小さく頭を振る。


「——ごめんなさい、その、少し戸惑ってしまいました」


 少し考えて、それが先ほどの「……嘘」という言葉に対する弁明だと思い至る。


「……正直、あなたが、その」

「……ここまで真面目にやってくるとは思わなかった?」


 彼女は言葉を探すように少しの間押し黙って、結局申し訳なさそうに小さく頷く。

 それから、おずおずと。


「……その、普段の生活が、あんな感じでしたので」


 それはもっともなことだと思う。正直なところ、僕だってあんな生活習慣をしている人間が、一日であれだけ部屋を片付けられるとは思わない。

 そもそも僕の場合は多分、「一日欲しい」とかなんとか言ったところで結局昼に起きだして何もせずに時間をつぶして寝る、なんてこともありえそうで、というか目覚ましのセットすらしていなかったのだから場合によってはあり得たかもしれないわけで。

 そんな風に弁解しようかと思ったけれど、しかしいつまでも終わらなそうな予感がして、だから僕は代わりに話を進めることにした。


「……それで、どうかな。ひとまず、『貸す』準備はできてる……と思いたいんだけど」


 そう声をかけると、彼女はそこで我に返ったようにして。


「……そう、ですね……これなら、問題ない、かもしれません」

「よし」


 思わずそんな声を漏らしてしまうと、彼女が何とも言えない表情をする。


「……その、私が言うことでもないと思うのですが。……どうして、そこまでしようと思うんですか」


 不意に、そんな問いが投げかけられる。

 そう言う彼女は、片方の腕に手を当てて俯いて、不安そうな顔をする。


「そこまで、って」


 そう言われても、僕がしたことと言えば、偶然の早起きと、部屋の掃除くらいなもので。確かにそれは僕にとっては日頃しないことで大変でこそあったけれど、それだけにとどまる話のはずで。


「……だけど、そんな大したことなんて僕は」

「だって」


 しかし僕は、一番大事なことを忘れていたのだ。


「だって、視覚なんですよ。どうして——どうして、大変な思いをするってわかって、そこまでしようとするんですか」



 そう。

 、などと、僕は決して、そう口にすべきではなかったのだ。



「……ごめん」


 反射的にそう言えば、彼女はそこではっとしたように口を押える。

 けれど、すぐにその手は下がっていき——そして結局、彼女はまた目を伏せて、頼りなく声を絞り出す。


「……別に、見えなくたって、生きていくことはできるんです。……けど、それだって、怖くて一人じゃいけない場所、なんて、たくさんあるんです。……目が見えたらよかったのに、って思ったことも、一度や二度じゃないんです」


 彼女は、溢れ出てくる言葉の止めどころを見失っているようだった。


「ちゃんと教育を受けた私ですらそうなんです。あなただって……突然何も見えなくなる、って。しかもそれが、一日中なんですよ。怖いのに決まってるのに。今日だって、やっぱりもう貸さない、って言われるかもしれない、って、すごく怖かったのに。なのに、どうして」


 そして、続く声は、いつもと同じように淡々としていて。


「……怖いんです。あんなに、大変な経験をしたのに、何も感じていないわけがないのに、それでも視覚を貸す、と言えてしまうあなたのことが。そのためだけに、一日を使うあなたのことが。……わからなくて」


 けれど、僕には、それはまるで、悲痛な叫び声のように聞こえて。


「……ごめん」


 他に言うことを見つけられず、ただ謝ることしかできない僕に、しかし彼女は言葉を返すことはなく。

 沈黙の降りた空間の中、僕は不意に——ただの予感として、この関係が終わってしまうのではないか、と思う。


 そしてその瞬間に、僕は、、と、そう感じる自分がいることに気付いた。

 それがなぜかはわからなくて。けれど、何故だかその感覚を逃してしまってはいけないような気がして。

 だから僕は、必死になって言葉を探す。


「……最初、視覚を貸してほしい、って言われて。見るものについて何も意識していない、って言われて、その通りだと思った」


 一つ言葉を見つけると、考えるまでもなく次の言葉が引き出されていくようで。——ともすればそれはまた何か良くないことを言ってしまう事すらあり得るのかもしれなかったけれど、しかし言葉を止める気にはならなかった。


「……あの時は、何となくで『貸す』って言った。それは本当だ。けど、あとで少し考えて……これはひょっとしたら、何かの『罰』なんじゃないかと思ったんだ」


 何に対してか、なんて、そんなこと心当たりが山のようにあった。親をだますような形で日々を生きていることも、視覚を無駄に使っているということも。


「……だから、逃げちゃいけない、と思った。真面目に向き合おう、って、そう思ったんだ」


 そんなことを考えながら口にした言葉は、どこか月並みな気がしたけれど、しかしそれは、どこかで本心を言い当てているように感じて。

 だからそれを取り下げようとは思わなかったけれど――しかし彼女は、やはり黙って視線を俯けたままで。


 それは、無理からぬことで。

 たとえこれが本心だとして。けれどやはり、これではまた、綺麗ごとの建前を重ねてしまっただけのようで。

 そう思ったときに——不意に思いついたことがあって。


「——それと」


 そして、それまでの流れで、僕はつい、それを口にしてしまって。


「……それに、なんだかあのまま終わらせるのも勿体ないと思ったんだ。……折角、君みたいな綺麗な人と——」


 そこまで言ったところで、僕は我に返って口を閉ざす。

 一体僕は、何を言おうとしたのだ、と、今度の言葉はすぐにでも撤回したい衝動に捉われる。

 しかし、今から取り繕ったところで既に遅いのは明白で。

 先ほどとは違う意味で、彼女のことを正視できず、僕は彼女から視線を外す。

 そうしてできた、何とも気まずい沈黙の中、不意に、僕の耳が何かを捉えた。


「……ふふ、ふふふ……」


 思わず、顔を上げてしまう。


「ふふふ……あ、あれだけ言っておいて、結局、ソレ、ですか……!」


 その先で――彼女が、堪えきれない、といった様子で、笑っていた。



 そんな彼女の様子に、しばし呆気に取られて——遅れて、恥ずかしさが襲ってくる。


「……ごめん、忘れてほしい。……正直、馬鹿なナンパ師みたいな発言だと自分でも思う」


 そう僕が言えば、いよいよ彼女はツボに入った、とでもいうように腹を抱える。

 穴があったら入りたい、とはこういう気分なのだな、と、親の脛をかじっていることに対しても思わなかった僕は、こんな時にそれを初めて実感した。


 ひとしきり笑って、僕の心にいっそ死のうかと思わせるほどのダメージを与えたころ、彼女は漸く落ち着いたようで。


「……満足かな」

「はい。そう言うことなら納得です。……だから、もうしばらくこの関係を続けてあげます」

「……勘弁してくれ」


 悪戯が成功したときのような表情で笑う彼女に、僕はさっきの発言を思い出してまた死にたくなったのだけれど――しかし同時に、少しだけ安堵してもいた。

 実際に僕がそんなナンパ師もどきのことを考えているかはともかくとして――それは、もうしばらく、この関係を続けることができる、ということだから。


「……それじゃぁ、確認ですけれど、明日は私が、『貸して』貰っていいんですね」

「……あぁ。というか、あれだけ準備したんだから、今度こそ一日と言わず数日くらい——」

「ダメ、です」


 多少なげやりに口にした言葉は、彼女によって遮られる。


「……あれだけ準備したんだから、大丈夫だと思うんだけど」

「そんなことをいって、前回は散々だったんですから。……それに、さっきは問題ないかもしれないとは言いましたが、私だって『見える』人が急に見えなくなったらどうなるのか、ということが全部把握できているわけではないと思うんです」


 だから――と、彼女は、少しだけ楽しげな表情を浮かべて。


「……明日、また、ここで会いましょう」

「わかった。とりあえず試してみる、ってことで」

「そういうことです」

「そうか。……じゃぁ、今日はひとまずここで」

「はい」


 そう言葉を交わして、最後に彼女は頷いてから、振り向いて去っていこうとする。

 そのとき、不意に思いついたように。


「……あなたは、どうして」


 と、そう口にしかけて。

 けれど、その先の言葉を彼女は言うことなく。


「……なんでもないです。忘れてください」


 と、そう告げた。

 一体、どんな言葉がそこに継がれるつもりだったのか。それが少し気になったけれど。

 しかしそれを聞く間もなく、これまでと同じように僕の意識は徐々に霞がかかるように薄れていき——やがて、完全に『夢』を離れていった。



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