第37話 エピローグ
さて、後日談だ。
後日と言っても、その日の夜のこと。
一人でアパートの前まで戻った僕を、意外な人物が待ち受けていた。
「……蒸気自動車?」
その蒸気自動車にもたれ掛かる人物を捉えた瞬間に、全身が凍えた。足が震え、喉が渇き、目の前が白く染まりかける。ごくりと生唾を飲み込んで姿勢を正し、歩み寄って額に手刀を打ち付けた。
「やぁ、久しぶりだねトータ……煙草吸う?」
ガス街灯の光を浴びながら、蒸気自動車に背中を預け、その人は僕に紙煙草を差し出した。震える手で僕は受け取り、口に咥えて火をあやかる。
この人は、煙草を配りたがる。そしてそれを断ると私刑にされるのが、北壁の掟だ。この人がそれとなく指示しているとも、この人を崇拝する兵士が勝手にやっているとも、どちらとも取れない。どちらとも、同じ意味だからだろう。
「……元気?」
紫煙を吐き出し、彼は僕に問いかける。
街灯の光を浴びる薄い髪と頭皮、濃い口髭、目はいつも眠たそうに垂れている。お腹は出っ張って軍服を押し上げ、中年男性特有の輪郭を作り出していた。冴えない服装で街を歩いていたら、一般人と見分けが付かないだろう。
けれども僕は、この人が誰かを知っている。
煙を肺へ送り込み、手の汗を握り締め、煙と共にその名を吐き出した。
「……お久しぶりです、 ヴォロルィボフ・アレクセイ・ポチョムキン中将」
あるいは『北壁の王』と呼ばれる、ルーシェ軍の重鎮。
「……煙草、美味しい?」
その膨大な地位や権力など、まるで興味もないように、街の汚い酒場で隣の男に話しかけるかのように、彼は言葉を操る。だからこそ、彼の底知れない力を推し量れと脅されているようで、足が震えた。
「懐かしい、味がします」
「そう……パンナトッティのお祭りに参加してきたんだよね。お疲れさん」
「ありがとうございます」
煙草を手に持ち替え、深々と頭を下げた。道の石畳が歪んで見えるようだ。
何故この人がこの場にいるのか……早く、アパートに入ってベッドに潜り、眠ってしまいたい。
僕は涙を堪えながら顔を上げ、また深く煙草の煙を吸い込んだ。
全身の血管が引き締まり、脳がくらりと揺れる。退役してからは禁煙していたけれど、やっぱりコレをマズイと感じないのは、僕にマゾの毛があるからか。
「ひどいよねぇ……パンナトッティはさ」
おもむろに、彼が口を開く。
「今回のお祭りで、有力な貴族が根こそぎ金欠になっちゃったみたいだよ。せっかく僕らが計画してたのにねぇ……台無しになっちゃった」
「……中将、ここでは」
「なぁに? ほら、例のサプライズパーティだよ? ね? トータは知ってるよね?」
顔を上げ、妖怪じみた瞳で僕を睨み、彼はまた煙草をくわえた。
「それにしてもトータさ、久しぶりだよね。君が除隊したのってどのくらい前だっけ?」
「……一か月前です」
身を切り刻むような質問に、嘘偽らず応える。
「ちなみに、パンナトッティが今年のお祭りを始めたのって、何か月前か知ってる?」
一瞬、意識が遠のきそうになった。
張り付きそうな喉を強引にこじ開け、かすれた声で答える。
「……一か月前です」
彼は煙を僕に吐きつけ、変わらぬ口調で相槌を打った。
「……ふぅん、そう」
彼は煙草を石畳へ落とすと、靴で踏んで火を消した。それから無言で車の後部席を開き、大儀そうに身体を埋める。開いた窓から顔を出し、僕の目を睨んだ。
「偶然、通りかかったもんでね。君の様子を見に来たんだよ。北壁の兵士は僕の息子も同然だ。君もその一人だと思っているよ。君を信じているし、君の幸せを願っている」
「……ありがとうございます」
「今回の一件でさ、随分魔女のお嬢さんたちとお近づきになったらしいじゃない? パンナトッティ本人とも会ったみたいだしさ……せっかくのチャンスなんだから、今後も仲良くしなきゃダメだよ? また今度、ゆっくり話を聞かせてほしいな」
「……ご要望とあらば」
「……ねぇトータ?」
彼は、子供をからかう父親のように、ニッコリと笑みを浮かべた。
僕には悪魔のように見えるその顔で、悪魔のような言葉を吐く。
「魔女は拳銃で殺せる?」
全身の血が凍る。暴れる心臓が飛び出そうになる。僕は何も答えられないままに、そのまま立ちすくんでいた。
「……それじゃ、引き続きよろしくね」
彼は僕の答えを聞かないまま、運転手の肩を叩いて発進させた。夜の闇にクランクとシャフトの駆動音を響かせ、車の陰は、夜の闇の溶けて消えてしまう。
力を使い果たしたように、僕はその場に座り込んだ。最後の一口分まで短くなった煙草を吸い込み、夜空を仰いで肺へ押し込む。くらりと世界が揺れた気がした。
「……マズイな」
夜気を浴びたルーシェ国の石畳は、氷のように冷たかった。
もっと春が深まれば、マシになるだろうか。
魔女の国のトータ 坂本わかば @sakamoto-w
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