3
「くぅう」
主人を待つ子犬のような声を喉奥から絞り出し、井坂はしゃがみこんで大げさに鼻を押さえる。
彼女は僕との戯れを優先した結果、小川の目には、自らの失態を放り投げ「きゃっきゃうふふ」と全力で遊んでいたみたいに映ったようだ。そんな怒り心頭の小川に目を付けられた井坂は「碁石鼻詰め苦 アット ダブル」を処されたのだった。左右の穴に碁石を詰め込まれる、そんな女子大生はこいつしかいない。
だけれども、僕は小川が手加減を怠る人間ではないことを知っているので、彼女はオーバーに痛がるふりをしている。
「で、井坂。今日は何の用なんだよ。仕方もないから本題に移るけど」
「先輩、私はそれどころではないのです。ついには左右の穴に碁石を入れられたのですよ」
「またふざけていると小川に叱られるぞ」
「う」微弱な電流を流されたように肩を一度揺らすと、井坂はすっくと立ち上がり、残りの碁石の探索を開始した。
*
碁盤を隅によけた長テーブルに、僕たちはやいのやいのと戻る。改めて小川と僕が向き合う恰好で座る――悲しくも、基本的に僕と小川はボードゲームばかりしているため、気付いたときには互いの定位置みたいなものは決まっていた。井坂はというと、その日の空席具合や気分なのか分からないが、特別こだわりなどを感じさせずに、僕か小川どちらかの隣にいる。
今日は僕の隣に腰をおろし、井坂が語り出す。
「ここ最近、わたしの友人が登校していないんです」
「登校していない?」小川が眉を寄せた。
「はい。私と同じ社会学部のユウキさんと言います」
「名前か?」
「いえ、結ぶに城のユウキという名字で、女の子です」
「連絡は取ってみたんだよね」僕が口をはさむ。
「もちろんです。ただ、連絡先はメールアドレスしか交換しませんでした。結城さんは情報機器が得意ではないらしく、昔ながらの携帯電話を使っています。昔といってもほんの数年前ですね」
「ガラケーというやつだな」
「つまりそうです小川さん」
がら、けー? なにやら始めて聞く単語で、僕は思わず説明を求める。
「がらけーとはなんだ小川?」
「お前が使っている携帯電話のことを“い、ま、ど、き”の若いピープルはそう呼ぶの」小川は手の平を手刀のようにして、空中を刻みながら強調する。「い、ま、ど、き、の」
「ぼ、僕も今時の若いピープルだ」ささやかに反抗してみたが、我ながら歯切れは良くない。
件の結城さんではないが、今のところ僕も情報機器は歴3年になる携帯電話、いわゆるケータイしか所有していない。このケータイも、インターネットに接続してなにか情報を検索することは稀で、もはや小川と居場所を知らせ合う機械にしかなっておらず、そのやり取りすら居場所が定着してきたここ最近は減っているので、もはや僕の鞄を数グラム重くするだけのメカにまで地位を落としていた。
更に補足しておくと、僕の六畳一間にはテレビも置いていないため、あまりこの世の中の情報に追い付いていないことは確かだった。随時、この日本の流行は勉強しているのだけど。
「先輩、良かったですね。わたしが持ち物で人間を判断するような女の子じゃなくて」あーわたしでよかったなぁ、などと繰り返しながら、僕の肩をとんとん叩いて井坂は言う。
「そういえばおれワイフォン7に変えたんだよ」
「小川さん本当ですか!? 時代の潮流に敏感ですね、さすがです!」
ものの数秒で自らの発言を墓に埋める女代表は、僕が出会った人たちの中で今のところ、この井坂しかいない。そして小川と井坂は、たいへんどうでもいい瞬間に絶妙なコンビネーションを発揮することがしばしばで、それは概ね僕がからかわれているときなのだが、今回も例に漏れず「小川さん、ちょっとワイフォン見せてください」「おう、落とすなよ」などと身を乗り出してきたので、僕は貫手を井坂の横腹に繰り出す。
「うひゃあ! 先輩の必殺をくらってしまいました」
「本題に戻りたまえ」
横腹をさすりながら井坂は話を再開する。「えっと、私と結城さんは木曜日の講義を一緒に受けていたんです。でも、かれこれ三週間以上姿が見えないので、いよいよ心配なんです」
んん、確かにそれは心配だ。続く話を聞けば、井坂には連絡もせず突然であったともいう。
そしてそれは小川の指摘であった。「講義の内容が難しくて、途中で抜けた可能性は?」
そう、大学生は学期の途中でも受講を辞めることができる――もちろん卒業するためには、講義を受け、定期考査をクリアし、「単位」というものを集めなければいけない。単位とは社会までの片道切符みたいなものだ。それを楽に集めようとする者もいれば、ひたむきに努力する学生もいる。でも、楽をしてたくさん集めようとする学生ほど、社会へは出たくなさそうなのだ。そういう場所が大学で、僕も含めて、大学生は本当にとくべつな、言い換えれば変な時間を過ごしていると思う。
「それはないと思うのです。講義自体は一般教養で難しすぎるほどでもないですし、なによりも結城さんは真面目な人だったんです。前の方に座って、しっかりノートを執る。予習までしていたから……」
そこで井坂は言葉に詰まった。膝の上で自分の手を固く結んでいた。
さっきまでの馬鹿騒ぎはどこへやら。声も身体も、どんどん縮こませるように小さくなった。
「……だから、私がなにかしてしまったなら謝りたくて」
友人が離れてしまった謎と不安がつきまとう中、明るい振る舞いを努めていたのだろう。
確かにこの女の子は、時々とても面倒で、非常にうるさく、人を小ばかにした言動は明鏡止水な僕の心持ちを曇らせることもあるのだが、悪くはないのだ。生きることがキャンバスへの色塗りだとするのなら、それを汚すのは悪いことだと思う。悪い人は、誰かのキャンバスを泥水ではいたり、悪気のないという鈍感な人間は知らず黒い染みを作っていたりする。井坂はそういうことはしない。自分の取り柄を理解していると思う。まあ、そのうえで落書きくらいはするかもしれないな。
「まあ大丈夫だ」小川は軽やかに言うが、声音には慰めが込められていた。その言葉は目の前の井坂、そして失踪した結城さんにも向けられているのだろう。
「おれとこいつが協力するよ」
小川が目線を寄越す、ふんと鼻を鳴らす。
「そうだな」
隣をうかがえば、井坂のほころんだ顔が向けられていた。
さて、動き出すか。
友人未遂 ―東文探偵倶楽部の緊急事態― 七色最中 @nanairo_monaka
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