「だから、違うんですってば先輩」


「いったいなにが違うのか」僕は堂々と反論する。「お前は対戦中の碁盤に突っ込んで、碁石をこれでもかとぶちまけ、平和な食堂に混乱を渦巻いた」タイルに転がり散る碁石を摘まみあげながらいった。


 僕たち三人は、数分前に突如として起きた事件(あるいは事故)の撤去に追われていた。無数に散乱する白と黒の石を拾っては、碁笥ごけと呼ばれる丸みを帯びた器にいれていく。

 碁石のいくつかは、はるか彼方に吹き飛んだ石もあり、食事をしている女子大生の足元にあるものを、渾身の平謝りをして拾ってもらった。その後、席から離れたときに漏れ聞こえる笑い声に、恥辱を全身に塗りたくられる思いをした。


「さすがの私でも、あそこまで派手に先輩方の邪魔をするほど、肝はすえていませんよ。事故なのです。悲しい事故」


「悲しいのはこっちだ」


「はっきりさせましょう」井坂は藪から棒に意気込んだ。「見てください、これを。これが床に転がっていたんです、この碁石が! 私はそれを馬力全開で踏みつけてしまった、その後のことは覚えていません……気がついたら碁盤の上におりました」


  な、なにをいっているんだこいつは。

「気がついて碁盤の上にいる女は井坂、お前だけだ」


 世界のあらゆる悪事がこの碁石に起因するかのごとく、井坂はいまいましそうに手元の白石をにらみつけた。何かを思案しているのか、しばらく間があった。「ちょっと待ってください」


「なんだ」


「碁石が床に転がっていて、それにつまずいたのなら、原因の遠い親戚にあたるのは先輩方じゃないですか! そしてそれが意図的な、計画的な、そういうことだったのなら、事故じゃなく事件じゃないですか。私は被害者ですよ!」


 先ほどせっせと集めた碁石を今にも放り出しそうな勢いで迫ってきた。「先輩、謝ってください。鼻に碁石入れましょうか、うりうり」小悪党のようなほくそ笑みを向けながら、井坂は僕の鼻に碁石を詰め込もうとしてくる。  


 証拠も根拠もない主張なのに、どこからその自信がこんこんと湧き出すのか。立場の一切は逆転していないにもかかわらず、この「碁石鼻詰め苦」をいぜんとしてやめる気配がない。自ら井坂に執行した刑だが、自分がやられようとしてみると、かなり――嫌だ。


「うりうりうり」

 もはやストレートパンチのように繰り出してくる井坂の腕を、虫でも払いのけるように防御するのだが、たまに横から出すジャブフェイントも挟んでくるものだから、たいへん苛立たしい。


「今すぐそれをやめないと、お前の鼻孔に五百円硬貨が入る大きさになるまで、碁石を詰め込むことになるぞ!」


「乙女の鼻の穴をなんだと思っているのですか先輩」


「鼻の穴だよ」


  だから先輩はモテないのですよ、などと言い残し、やれやれといった感じで井坂は手をとめた。な、なんだそれは、なにをいっているんだこいつは。

 いちおう反省はしてみる。僕はモテないのか。なぜ僕が説き伏せられたように感じるのか。わずかに不安だ、わずかに。まことに心外だけど、念のためにモテない理由を聞いておこう。別にモテたい訳ではないけれど、念のためにね。


「おい井坂、なんで僕はモテないんだ、ちゃんと理由を」


「隙ありっ!!」


「ふがっ」

 いとも簡単に不意をつかれた僕は、まんまと井坂の罠にはまり、面食らって膝をついてしまった。やられた鼻を押さえて井坂を確認すれば、腰に手を置き胸を張り「しっしっし」と綺麗な歯並びをみせつけるように笑っている。


「隙だらけです先輩」

 あまりに見事なふんぞり返りっぷりに、怒ることさえアホらしくなって笑えてきた。


「僕の負けだ」


「やりました、先輩にひとつ白星です」


「まあ、僕には、ね」


「え……ひっ」  

 井坂の後ろには、小川が見下ろすように仁王立ちしていた。

 顔だけ振り向けた井坂は、小川と対峙した瞬間硬直した。僕たちの小競り合いが終わりかけた頃、遠く離れた席まで回収作業をしていた小川が、獲物を発見し追い詰めるヒグマのごとく、のしのしとこちらに向かってきたことに井坂は一寸も気付かなかった。

 小川は碁石をひとつ摘まんだ。


「さっさと拾うんだ!」


「ふがっ」

 第二の刑が執行された。

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