友人未遂 ―東文探偵倶楽部の緊急事態―

七色最中

 囲碁。

 鬼も眠りにつくような穏やかな春はいつの間にか終わっていて、気付けば早くも初夏を迎えようとする五月。僕と小川は食堂で囲碁を打っていた。


 将棋と並んで国内では広く名が知られているボードゲーム。しかし、囲碁という存在は知っていても、ルールまで分かる者は少ない。チェスや将棋のように、駒自身に役割やルールが無く、また「大将」になるものが無いので、初心者は勝敗のつけ方が分からない。

 ごく簡単に例えてみれば陣取りゲームということなのだけど、僕のような右も左も分からぬビギナーは、片手にマニュアルがないと勝負にすらならないのである。


「ここに置くと、どうなる?」


「意味のない手だ。おれがここに打てば、それは死石だ」


 なるほど、と言ってみたものの、僕はまだよく理解ができない。

 ここしかないと思った手だったが、そこはいつの間にか敵に囲まれた地になっていたりする。囲碁は盤面の規模や、そのゲームの特性上、読みの数が天文学的数値になるという。考えても考えても果てしない、だけどそれが心地よくなる。ゲームとは名ばかりで、そこにあるのは思考の宇宙に違いない。

 中間考査をしのぎ無闇やたらに暇な学生にとって、囲碁は充実した思考の練磨をさせてくれる。

 

 ゴールデンウィークを過ぎたあたりから、一人、また一人と大学へ登校する学生は減っていき、伴ってこの食堂も新入生がもの珍しくしていた四月より、ずいぶんと客足が遠のいてきた。


 それは子どもたちに飽きられた動物園のように、学内は閑散を増していくのだけれど、しまいには仕事であるはずの動物たち――つまりオランウータン顔の教授や、ヘビみたいなしつこさを持つ講師たちも、自ら休講してサボってしまうのだからどうしようもない。かといってそれに異を唱えたりする者もさほどいない、少なくとも僕は怠惰な部類の学生だった。


「先輩方っ!」


「うわああ」


 いきなり耳元で声を張り上げられて意識が現実に戻る。

 いつもの食堂、いつもの席。驚きすぎて、宇宙から隕石のように落下して着席した気分だった。

 慌てて振り返れば、井坂千波がそこにいた。 

「失敬しました」などと舌を出し頭をかいている。こいつ……これには普段角を立てない僕も憤りが噴出する。「井坂、君をこれから突き落とすから、一緒に屋上へ行こう」


「なんて物騒なことをおっしゃるのですか。ただ声をかけただけじゃないですか」


「耳元で、大声を、張り上げた、が正しい」


 井坂千波。大学二年生。サークルで知り合った後輩。

 春もうららかに、白シャツとパステルオレンジのスカートを、サスペンダーで上品にまとめている。

 数日前、彼女は自ら「暗号」をでっちあげ、僕と小川を半ば強制的にその解読へ巻き込んだ。紆余曲折あり、最終的には井坂の「探偵ごっこ」に付き合うことになったのだが、今日もまたトラブル――ならぬエマージェンシーを持ち込みにきたはずだ。


「まあまあ、謝りますので聞いてくださいよ。今日は私もいつもほど元気はないのですから」


 確かになにやら意気消沈した面持ちに見える。しかし開いた口から出た言葉は「先輩、緊急事態です……」だった。


 ぱちり、白石を碁盤に置くのと同時に「またか」と小川が一言。すでに話半分状態で井坂へ対応することを決めたのか、視線はすでに盤上へ戻っていた。

 すかさず僕もゲームを続行する。井坂に付き合っていると思考ゲームで養われる崇高な集中力が、みるみると吸い取られていくんだ。井坂のことは気にしない、気にしない。


「は、な、し、を、聞いてくださーい!」井坂は僕たちの意識を逸らすことに必死で、ぐるぐると僕らの席の周りを走り回る。二十に差しかかる女の子が起こす言動とは思えないが、僕と小川は慣れたもので、しばらく井坂を勝手にさせていた。

 先輩、昨日のK1見ましたか? わたし感動しちゃいましたよ。シュ、シュッ、などとほざきながら碁盤のうえでシャドーボクシングをし始め「わたしの反復横跳びを見てください、ほらほら」と言い出したときである。目の端で、井坂の足元に白石があることを視認した。いつの間にか落としていたのかもしれない、悪寒が全身に走った。

 だけどそのときには遅かった。「あ」と井坂の間の抜けた声が聞こえた瞬間に、想像しうる最悪の事態が脳裏によぎったのだった。

 

 そこからはコマ送りのような記憶である。

 突如、目の前に井坂が出現した。

 両の手を突き出し、野球選手もかくやというヘッドスライディングを、盤上にぶち込み、白黒の石を、食堂のタイルに、これでもかと、ぶちまけた。石とタイルがぶつかり合い、激しい雨を打つような轟音が、響き渡る。

 食堂にいた数少ない人間が、時間が止まったように、こちらを凝視する。

 なぜか井坂が一番驚いた顔をして硬直している。「へへへ」と張り付けた笑みを僕に向けた。


 僕はとりあえず、ただ無心に手元の白石を一個つまみ、それを井坂の鼻に詰め込んだ。


「ふがっ」彼女も甘んじてその罰を受けた。

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