第1章表「麗しの若君」ー第3話

 兵部少輔は当初、小夜を抱え屋敷に迎え入れるつもりでいた。高木家は江戸郊外の白金村・瑞聖寺裏に抱え屋敷(別邸)を持っていた。この当時の白金は、周りに田畑が広がるような寂しい場所である。


 他藩の下屋敷なども多く、主の目の行き届かないことをいい事に、無頼ぶらい中間ちゅうげんなどもたむろしているのだが・・・それだけに、本邸に置くには差し障りのある者たちを詰めさせておくには何かと便利なのである。


 兵部少輔は、影働きの出来る者、身分は低くとも腕の立つ者に、この抱え屋敷を拠点として使わせている。訓練のための道場もあれば、荒事になった時に無頼共を囲っておけるような地下牢まで用意してあった。


 だが、敷地にはまだまだ余裕がある。庭園の領域を少し削り、奥の領域を広くして、新たに小夜が過ごす建屋を作り、そこに迎え入れる予定であった。


 しかし、正室・倫子の狂乱が、その兵部少輔の計画を狂わせた。

「高木家の屋敷内に、あの女狐を入れてなるものか!」

と倫子が息巻いていたのである。無理に強行しようものなら、自ら乗り込んでいって懐剣で襲いかねない有様であった。


 正室と側室との対立、実際は正室による一方的な敵視であるが、こんな話が幕閣に伝われば、今をときめく御書院番頭・高木家の内訌ないこうとして悪評や噂が流れるだけに留まらず、家中の不始末として禄を減らされたり、お役目を奪われたり、ロクでもない目に遭う事だけは確かである。


 ゆえに、高木家の持つ敷地、建物の中に迎えることは出来なくなった。

 倫子としては、高木家の資産を使う事も許さぬ、と強硬な姿勢を見せていたが、高木家の勘定を握っているのは表と奥のそれぞれ用人である。兵部少輔が自由にできる金、倫子が認知していない金は常に2,300両は確保してある。


 兵部少輔としては、高木家の持ち物では無いにしても「まとも」な場所へ迎えたい。そこで、きな臭い動きをする倫子が伝手を持つ場所を避け、あえて大川の向こう、本所に寮を建てることにした。


 本来ならば、請われて迎え入れられる側室であるから、本邸に部屋が与えられるのが当然である。それが、市井しせいめかけ同然の扱いとなると言われたのだから、竹内家としては憤懣やるかたない。


 だが、ここでも高木兵部少輔という男は、通り一遍の見栄っ張りな旗本ではない事を身をもって示した。竹内家まで出向き、付き添った高木家用人が苦虫噛み潰すような顔をしている中、堂々と頭を下げたのである。真にもって相すまぬ、と。


 そして、こう付け加えた。

 だが、本所の寮については立派なものにするし、不自由はさせぬ、と。


 兵部少輔は、人の心の機微が分かる男であった。故に、無用な恨みを買うような真似は徹底的に避けた。ただし、倫子についてだけは別である。


 人の心の機微が分かる、ということは、倫子の考えていそうな事もまた、大体は想像が付くのである。それは倫子と共に過ごす時間、倫子のことを少し注意して観察すれば容易に伺い知ることが出来た。倫子が他者に対して感じている優越、無意識に他者を見下すところ、その他諸々・・・手に取るように分かった。


 自ら成し得た事から受ける栄誉とて、あまりに図に乗りすぎれば足元をすくわれるのである。自らが何も誇るべき点を持たないにも関わらずそのような態度を取ることは、兵部少輔にとって看過できない愚劣さの極みであった。


 したがって、兵部少輔は、倫子からの猛烈な反対があることを予期しながらも、一切の遠慮なく倫子に告げたのだ。「側室をめとる」と。案の定、倫子が激怒し、狂乱状態になったことは先ほど述べた通りである。


 倫子の猛烈な反対により、小夜は高木家の敷地には入れなくなった。小夜との縁談自体が破談になった訳ではないものの、高木家の敷地に入れないのであれば妾のような扱いに「落とせた」も同然である。倫子はせせら笑った。

「私の夫を誑かすゆえそうなるのじゃ。新之助殿もすぐに目が覚めるであろ・・・」


 倫子は、自らの力で旗本の娘を「妾同然」の目に遭わせてやったと思っていた。


 事実はもちろん異なる。

 大切な寵姫ちょうきに手を出されないよう、兵部少輔自身がえて安全地帯に小夜を置いたのである。千代田の城を中心として、本邸とは反対の本所に寮を置く事にしたのもその為である。


 竹内家とは両国橋を通じて目と鼻の先の場所であるのは、それなりの配慮のつもりである。そして、兵部少輔は自身の配下に本所の寮を守らせるために人選まで済ませていたのだが・・・


 この時、同席していた源次郎が言った。(兵部少輔が謝りにきた場のことである)

「少し、あんたと話がしたい。そこでおっかない顔してる用人は抜きにしてな」


 用人は源次郎のあまりの物言いに目を剥いた。だが、兵部少輔は快く応じた。兵部少輔には、この源次郎という男が、武という面においても、はかりごとという面においても、己よりも遥かなる高みに身を置いていることを正確に把握していた。

 故に、どのような話を持ち掛けられるのかに興味があった。


 別室に場を移し、小夜付きの侍女に茶と菓子を用意させた後、源次郎は口を開いた。

「上と下の気配は気にしなくていい。この部屋を守るために手配した者たちだからな。で、あんたは本所の寮ってやつをどうするつもりだ?あぁ、俺もこんな話し方だ、あんたも堅苦しいのはなしだ」

「くっくっく。分かった、俺にそうやって話し掛けられる相手は皆上役ばかり。つまりは面倒な相手ばかりだ。たまにはこうやって話すのも新鮮で良いな」


 お互いの立場の差を考えれば、無礼どころの騒ぎではないが、兵部少輔はこの場を心地よいと感じた。そして、この源次郎という男の底知れなさに畏怖の念を抱きつつ、寮についての存念を語る。

「・・・寮は、本所の相生町に場所を見繕ってある。土地は500坪ほどだが、周りは土塀どべいで囲う。建物はすまんがそこまで奢侈しゃしにはできん。母屋と離れ、小さいものだが蔵、小者のための長屋は建てる。警護の者は高木の家から10名ほど選び、3名ずつ詰めさせる」


 兵部少輔は、これなら文句は無かろう、と自信をもって述べた。ところが・・・

「建物の造りはこれにしてもらおうか。蔵と長屋はそちらに任せる。警護の者はこちらで出す。俺が直々に鍛えてる奴らだ。腕は立つ。あんたの手下は警護には慣れてない。忍びや脱藩浪人、修験者に元御庭番こうぎのいぬまで・・・随分と面白い顔ぶれだ。腕は立つかもしれんが、探索や荒事が強みだろ。あぁ、それと建物の金が足りなけりゃこれを使ってくれ。使い切ってくれて構わんぞ」

 そう言うなり、源次郎は建物の見取り図と、小判がぎっしりつまった金箱を差し出した。


 さしもの兵部少輔も若干顔が引きつっている。

「随分と手回しの良い事だ。まるでこうなる事が分かっていたみたいだな。・・・しかし、高木の裏の者たちまで調べが付いているとは。これでも、当世では中々の腕利きを揃えているはずなんだぞ。それにこれは・・・」

「あ?500両くらいは入ってるはずだ。出所は詮索無用ってことにしてもらおうかね。・・・高木の裏はな、あんたの絡みだと分かった段階で徹底して洗わせてもらったさ。ちょっと感心したぜ。余程気合の入ってる大名でも、あんたんとこには劣る。大抵は伊賀組だ何だと言ったところで、藩の中の勢力争いの手妻たづまに過ぎん。御庭番おにわばんはそれなりに仕事はしてるが、まぁ、見る奴が見れば腑抜け切ってるのが分かる。高木の裏の者の存在、今のところ気付いてるのは俺たちと、田沼の爺さんくらいだろうな。あそこは中々いい腕の忍びを抱えてる」

「老中格の田沼様だとっ・・・。うぬ・・・抜かった」

「別に気にすることは無かろう。爺さんは、使える旗本がおるのはいいことだ、と喜んでたぞ」


 兵部少輔は少々恨みがましい目で、そして得体の知れない何者かを見る目で源次郎に眼差しを向ける。

「・・・どれだけそなたの手は伸びているのだ」

「ふふ、それは内緒だ。知りたければ自分で調べてみればよい。まぁ、それはそうと、警護の件は譲らんぞ。洗われていることに気付いてもいない奴らには任せられん」

「むっ・・・そう言われては・・・是非もなし、か」

 兵部少輔の顔が悔しさに一瞬歪む。


 しばし無言で瞑目し、こう持ちかけた。

「・・・なぁ、それならうちの手下を鍛えてくれんか?本所に通う時は、そなたに命を預けるのだ。それくらいの願いは聞いてくれても良かろう?」

「構わんぞ。俺の鍛錬に耐えられるかどうかは知らんがな」

「是非にも頼む。泣き言を言う奴は家中から追放してやる。瓦町かわらまちで竹内道場を尋ねれば良いか?」

「聞いても誰も知らんぞ。明日の朝にはあんた宛に繋ぎを取る手立てを記した書状を届ける。その通りにしてくれ」

「分かった。俺の見る限り、そなたはこれまで会うた誰よりも強い。好いた女子のために随分と骨を折ったが、それが切っ掛けでそなたと出会えたのは僥倖ぎょうこうだったな」

「ふん、抜かせ。小夜を泣かすような真似をしてみろ。次の夜にはあんたの首が胴から離れてるからな。」


 刹那、源次郎から濃密な殺気が放たれた。兵部少輔ですら、身じろぎ一つ出来ないほどであった。思わず背筋が震えた。今までかすかにしか感じられなかった上下の気配も、その瞬間はっきりと感じられた。なるほど、遥かなる高みに居るものの殺気は気配断ちすらも打ち消すのか、と妙な感想を抱いた。


「はは、恐ろしいな。そのようなこと、する訳もない。俺は命知らずではない」

 そう返す声が震えていない自信はなかった。とりあえず、この目の前の人物が、今すぐ自分の敵になる訳ではないことを知り、深く、この上なく深く、安堵していた。


 源次郎はちょっと脅しすぎたかな、などと思っていた。

 ちょっとどころではなかった。その日、兵部少輔は真っ直ぐに抱え屋敷へ向かい、裏の者たちへ告げた。


「お主たちには月替わりで地獄を見てもらう。本当の鬼に鍛えられて来い。詳しくは明日、また使いを寄越す」

 屋敷に居た裏の者全てを集めて兵部少輔が告げたのはそれだけであった。反論も質問も一切許可しなかった。兵部少輔に召抱めしかかえられていた裏の者たちは、いたく自尊心を傷付けられた。兵部少輔にそこまで言わせた何者かに激しく敵意を燃やした。


 結論から先に言えば、彼らは源次郎に心服するようになった。

 もはや、彼らの「師」は源次郎以外にあり得なかった。


 初めの敵意が強かった分、その反動で源次郎に対する憧憬しょうけいの眼差しは、ほとんど「尊崇」とも言えるほどに昇華していた。


 現代の言葉に直せばこうなるのであろうか。

「やっべーよ、マジでやっべーよあの人。」


・・・うむ、すまない。やばいのは筆者の頭のようだ。



 さて、そのような諸々の事情から、小夜の輿入こしいれ(一応、輿入れはちゃんとしたのだ。待遇が妾のようだからと言って、何も娘の晴れ姿まで諦める必要はない)が行われたのは晩秋ばんしゅうの頃と相成った。


 嫁入り道具一式に、白無垢しろむくを着たこの上なく可憐で美しい花嫁は、輿こしに乗って実家の竹内屋敷を出て、夕刻、本所相生町ほんじょあいおいちょうの寮に着いた。


 花嫁側は竹内家の家族、小夜と付き合いの深かった親類と、清右衛門の上役である新番組頭、その妻女(少しでも兵部少輔とお近付きになりたいらしい)である。

 清右衛門からすれば、ろくに付き合いもない上役に来られて迷惑であったが、何せ相手方の面々が面々である。邪魔者でも多少なりと釣り合いを取るためには仕方がなかった。


 何せ、相手方は兵部少輔の隠居した父・仁徳斎じんとくさい、仁徳斎の後妻(どこぞの旗本の出戻り娘だそうな)。

 そして、若年寄・水野みずの出羽守でわのかみ忠友ただとも

 極めつけは寺社奉行・鳥居とりい伊賀守いがのかみ忠意ただおき


 なぜお前が来る、と皆が思ったであろうが、当人は何ともあっけらかんとした様子。

 一通りの様式が滞りなく済んだ後、皆で飲み交わす頃にはニコニコしながら新郎、新婦の前に座り、すまんのう、このような扱いになったはあの夜叉がいかんのじゃ、嫁ぐ際に婿殿ならば側室の話が必ずあるから心せよと言い聞かせたのじゃがのぅ、すまんのう・・・などと言うのである。


 これにはつどった皆が何となく毒気を抜かれてしまった。兵部少輔は内心、上手いお方よ、と一人ごちていた。口では、伊賀守様におかれましては格別のご配慮をたまわり真にかたじけなく、などと応じている。小夜が固まっているのを横目に。


 しかし、何はともあれ、この夜に集った者たちが、まず目を奪われたのは何よりも小夜の美しさであろう。あえて白粉の白塗りにするのではなく、そのままの小夜の抜けるような肌の白さを生かした化粧にしている。


 今日の晴れの日に、我等が姫様が最も美しく映える姿にしようと、出入りの髪結いを巻き込み屋敷の女衆が知恵を絞った結果である。男たちはその美しさを手に入れた兵部少輔を羨み、そして自らの容貌と兵部少輔の美形とを比較してため息をついた。


 宴は無事に終わり、夜も更けてから御開きとなった。これから新郎新婦には大切な仕事が残っている。初夜というものである。そして、この縁談に多少なりとも関わった独り身の男共は、想像をたくましくして我が身の無聊ぶりょうを慰めるのであろう。自らの手を友に。いや、下世話に過ぎた。


 この時代、将軍や藩主、あるいはその嫡男においては、その初夜が無事に「済んだ」ことを衝立ついたて一枚を隔てて侍女が確認する、という現代に済む者にとっては考えられない風習が存在した。


 とはいえ、この日の二人にはそのような者は必要ない。新婦・小夜は紛れもない生娘きむすめであるが、新郎・兵部少輔は3人の子を持つ手練てだれなのだから。そして、この日以降、兵部少輔は三日にあげず本所の寮に通うようになった。


 兵部少輔は自らが小夜から好意を寄せられるとは考えていなかった。兵部少輔自身も、これまで女に溺れた事などない。貴人の常なるかは分からないが、縁談などは「お家」の反映のための道具に過ぎないのが実情である。


 人と人との繋がりではない、家と家との繋がりなのである。そんな環境で育ちつつも、容姿や才覚に恵まれ、女に不自由しなかった男が、どのような思考回路を身に付けるのか。兵部少輔はその典型と言ってよかった。


 その男が、なにゆえ足繁く小夜の元に通うようになったのか。そこには何らかの、兵部少輔自身の心中における変化があったであろうことは想像に難くない。どのような変化であったかは別の機会に譲るとして、今、重要なことは小夜の元に頻繁に通っていた事実である。


 それにより小夜は、安永元年師走の十日に赤子を生む事になったのだから。




 さて、しばし時はさかのぼる。


 兵部少輔と小夜の縁談がまとまった後のとある日。番町ばんまちにある勝田家の屋敷では、主、左京が怒髪天どはつてんく勢いでいきり立っていた。

「あの男、若造の分際で手引きをしたわしに、金と反物だけとは良い度胸をしておるではないかっ!」


 そう、この男は竹内清右衛門が兵部少輔と初めて出会った際に立ち会った男である。ここのところ毎夜のごとく、左京は荒れていた。


 彼にとっては自分こそが兵部少輔と竹内家の小夜とを結びつけた功労者であり、縁談の立役者であり、最も礼を尽くされるべき人物であった。彼の主観の中では。


 だが、高木家からはあの日から二月は経とうというのに、その後は何の音沙汰も無い。仲人の依頼も来なければ、宴への誘いすらない。

 何という無礼、何という非礼、この勝田左京に労をとらせておいて、虚仮にするとは・・・。そう思い、酒を飲み猛っていた左京であるから、表より騒がしい、争うかのような音が聞こえたことに気付かなかった。


 気付いた時には、左京のいる奥座敷の障子は既に開けられていた。先頭に立つ怜悧さの目立つ顔の男が右手で掲げていた物を見て、左京は固まった。そこには、「下」と一文字書かれた書状があった。


 それに・・・それに、あの男は見た事がある。目付の岡部おかべなにがし・・・。酔いなど一遍に醒めた。顔が強張り、身体が震えるのを止められない。なんだ、何が起きている?がバレた?


 左京の頭の中でまとまらない思考が渦を巻いているその時、最後の一人が岡部某の隣に現れた。よく見知った顔であった。左京の顔が絶望に染められていく様を見ながら、目付・岡部おかべ因幡守いなばのかみは静かにこう告げた。


「上意である。控えよ。」


 さて、倫子が兵部少輔を見初めた折に、兵部少輔が就いていた職は目付である、と先に述べた。


 目付とは、同じ旗本、御家人の犯罪や風紀の乱れを取り締まる役柄である。実質的に警察の役割を担っていると言ってよい。勝田左京はその事をもう少しよく考えておくべきだった。兵部少輔は二十歩、三十歩先を考えてお役目に精励せいれいする男なのだ。


 この平和な時代、あるいは緩みきった時代、大身旗本ともなれば叩けばホコリなど幾らでも出てくるのだ。自身も「それなりに」女遊びをする兵部少輔には、それがよく分かっている。


 目付という職に就いたのも何かの縁、これを機に大身旗本家の「秘事」を出来るだけ手に入れておこうと企んだ。そのために、内偵などに使える人間を江戸市中の方々に飼っている。そして、このご時勢ながら、忍を少ないながらも飼っている。その者たちの拠点が、白金村の抱え屋敷であることは前述の通りである。


 これはこれで、反乱を疑われる可能性がある危険な行為だが、その危険性は甘受した。それよりも、市中に散らした子飼いに内偵と情報収集をさせて、最後の一押しで相手方の屋敷に忍び込む必要がある場合は忍を使う・・・それによって得られる情報には千金の価値がある、と踏んだのだ。


 果たして結果は、大漁であった。

 どこそこの旗本家の抱え屋敷では夜な夜な賭場が開かれている、家臣も付け届けを受け取っていて、それを見て見ぬふりをしている。


 あるいは、どこそこの当主が相場に手を出して1000両の借金を背負っている。

 ひどい話になると、旗本が土地の無頼と組んで町家から金品を脅し取ったり、当主や跡取りが辻斬りをしていたり、出入りの商人を監禁してその娘をかどわかし、手篭てごめにしているような者までいた。


 即座に処断が必要なものは明確な証拠を掴み、言い逃れできないようにさせた上で上役たる若年寄に報告し、処断していたが・・・現時点ではそこまで他所に、他者に迷惑を掛けていないと思われる件については、全て兵部少輔の独断で未報告のまま資料のみが眠っている状態である。実は、その資料の中に、勝田左京の名があった。


 勝田左京自身の屋敷ではないが、本所番場町ほんじょばんばまちの妙源寺の庫裏くりでは5年ほど前より大規模な賭場とばが開かれている。一晩で100両近い金が動く事も珍しくはない。そして、賭場では一晩に10両を稼ぐ者も居る、という噂が飛び交っている。


 元々、寺であるからこの件の管掌は寺社奉行である。つまり、兵部少輔の岳父・鳥居伊賀守である。が、伊賀守が手の者を使って軽く探りを入れたところ、どうやら寺の者は庫裏で起きることには目を瞑れ、でないと坊主の女遊びをお上へ届け出るぞ、と脅されて場を貸していたに過ぎないようであった。


 もっとも、寺社内で起こっていることなので、寺社奉行がその場を押さえて取り調べることも出来るのだが、何となく裏にきな臭いものを感じた伊賀守が、兵部少輔に話を持ちかけたのである。ちと探ってみてはくれんか、と。


 兵部少輔も否やはない。何となくやり口に武家の「押し通る」風味が出ていて、いいネタになりそうだったからだ。内偵を続けた兵部少輔は、しかし、問題の根っこにたどり着くにはしばし時を要した。


 賭場の胴元は本所三笠町みかさちょう香具師やしの親分である八郎兵衛という者だったが、そのすぐ裏に居たのが勝田左京の家の用人であった。


 勝田左京は茶屋の女に入れ込んで身請けし、浅草に100坪ほどの家を建てて囲っているらしい。その女に贅沢をさせるために自由になる金が必要だというのだが、それだけに飽き足らず、吉原にも馴染みの散茶女郎さんちゃじょろうが居るとかで金遣いの荒さがひどいのだとか。


 金のやり繰りに困った用人があるじに直談判したところ、左京自ら

「あしのつかない場所で賭場でも開いて、巻き上げれば良かろう。本所に八郎兵衛というワルが居るから、あ奴に胴元でも任せておけばよい。」

そう指示したと言う。


 用人としては身の丈以上の遊びの方こそやめて欲しかったのだが、主には逆らえず主人と胴元との間の使い走りにさせられてしまった。そこまでは簡単に判った。


 が、兵部少輔が勝田左京を調べれば調べるほどに、この男にそこまでの度胸と、悪知恵が働くものか、それがどうにも疑わしく思えてきた。どうにも小物臭が漂ってくるのである。


 これは裏にもう一枚何かある・・・そう直感した兵部少輔はじっくり腰を据えて取り組むことにした。監視の手を緩めず、周りを洗っていき三週間ほど経った頃、見知らぬ侍、それも中々に身形みなりの良い壮年の者が時折、小者を連れて勝田屋敷を訪れていることを突き止める。


 その一行を勝田屋敷では下にも置かずに歓待する。行きは供の若党、それも中々に腕の立ちそうな男が一人と、小者が一人だけ・・・しかし、帰りは小者の荷物が増えて何とはなしに足取り重く、腕の立ちそうな剣士風の男が二人増えている。


 何人もの影を使い、交互に尾けているとその者たちが入ったのは根津権現の門前町にある料亭「水尾」であった。


 念入りに服装を変え、黒塗りの紋無し網代笠を被るなどして、「水尾」を出た一行であったが、この偽装工作はさほど意味を持たなかった。高木家配下の裏の者の中には、元々、抜け忍の追跡を専門にしていたものが居たからだ。


 他人を装ったところで、背格好、歩き方などまでガラリと変えることは出来ない。間違いなく先ほど勝田屋敷から出てきた壮年の侍を尾けていき、難なく裏にいる黒幕の屋敷を突き止めてしまった。


 結局、全容を掴むまでにはさらに二週を要した。いや、むしろ全容の話の大きさからすれば、よく二週で全てが掴めたものである。この一件には、元・寺社奉行にして現在は若年寄、という兵部少輔も鳥居伊賀守も易々とは手を出せない大物が絡んでいたのだ。


 この黒幕が絵図を描いており、勝田左京などの脛に傷持つ旗本はあくまで手足として使われているだけであった。大物を刺激するのは兵部少輔にとっても少々分の悪い賭けである。よって、この時の勝田左京は裏に居る大物のお陰で命拾いをした。


 だが、竹内清右衛門との顔つなぎに勝田左京を使時、兵部少輔は自然な形を装って「左京が鳥居伊賀守とよしみを通じようとしている」という噂を件の大物へ流した。


 この手合い(左京のような男)は、やたらと恩着せがましく、過大な「礼」を要求するのが常であるし、さりとて無視すれば至る所で悪評を立てられ迷惑するものなのだ。ゆえに、相手がこちらに関わっていられないを贈呈したのである。


 はたして・・・大物はいたくご立腹であった。小賢こざかしい真似をしおって・・・伊賀守に乗り換えるつもりか、と。

 そして、散々搾り取った左京をあっさりと切り捨てることにした。


 何せ、今の身分は若年寄である。目付を差配さはいしているのだ。目付には大名を取り調べる役目はない。配下の目付が自らの手に噛み付く心配はない。それに・・・あやつも逃げられないように美味い汁を吸わせているしな・・・。黒幕の頭の中には、この件を任せる適任の目付の顔がはっきりと浮かび上がっていた。


 兵部少輔としては、噂で大物が動かない場合は、賭場と勝田家との関わりを示す垂れ込みを、適当な目付の元に流すつもりでいた。


 目付にはそれぞれ、下役として小人目付や徒目付、横目付など手足となって働く者たちが居る。その者たちの探索の結果として、自然と目付の元に情報をたどり着かせることなど、兵部少輔にとっては朝飯前なのだから。


 結果としてその手は使わずに済んだ。伊賀守からこっそりと文が来たのだ。

『左京は切腹。士道不行き届き。家督は嫡男が継ぐが、減封により1000石』


 つまり、左京は賭場を開いていた咎ではなく、その他の細々とした罪状の積み重ねで切腹の処罰を受けることになった。


 特に不審はない。賭場の件を表に出せば、黒幕まで手が及びかねない。その辺りは想定の範囲内である。

 何より重要なのは、左京自身の逆恨みが嫡男に伝わっていようとも、石高1000石の家で切腹した父を持つ、となれば今後、兵部少輔の障害にはなり得ないことである。


 いずれにしても想定内のこと、その知らせを受け取った兵部少輔はすぐに影を呼んだ。

「勝田の次代を見極めよ、我に恨みを持つのか、否か。恨みを持つのであれば、かねてよりの手はず通り、取り潰しの策を」

「承知」


 どこまでも確実に、脅威の芽を摘む兵部少輔であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

江都の鬼神 富永 全承 @braveheart0916

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ