第1章表「麗しの若君」 第2話

 高木兵部少輔ひょうぶしょうには、単騎での武芸の腕前もさることながら、将器というものがあった。それこそ家柄や血筋というものの影響かもしれないが、兵部少輔ひょうぶしょう自身の才覚が、他を圧倒しているのである。それでいて兵部少輔自身は、自らは戦場での将器とは違う、と読み切っている。


 目付という役方、いわゆる文官職を卒なくこなしていたように、兵部少輔の本来の適性は現代で言うところの官僚である。あるいは軍事の世界に限って言えば、軍政官とでも言おうか。まともに政治を進めようと思えば溢れんばかりに増える書類仕事に予算の配分、折衝、それら諸々を組織を指揮しつつ戦略的に物事を進めていくことが、兵部少輔の最も得意とする分野であった。


 そして、平時において将軍の警備をする組織に何ほどの仕事がある訳もない。一月のうちに現状を調べ上げ、問題点を洗い出し、二月のうちに部下を完全に掌握し、改善の重点を決め、三月のうちに御書院番第一組(兵部少輔が指揮する組である)は見違えるほどに任務に精励し、「精鋭」の二文字を体現し始めたのである。一度、改革が終わってしまえば指揮官のすることはほとんど無い。今は後釜を任せるに足る人物の育成を、3人に絞って行っているくらいである。


 ゆえに、兵部少輔には時間があった。側室として目星をつけていた女子おなごを実際に見聞し、評判やその家の内情を吟味し、この娘と決めたならば他の家からの縁談を潰し、岳父ちちと上司に根回しをし、先方の上司にまで根回しをする・・・だけの、充分な時間があった。


 このような事情により、明和八年初夏、新番組士しんばんくみしである400石の旗本・竹内清右衛門せいえもんの長女・小夜さよの元に、御書院番頭筆頭にして旗本7000石・高木兵部少輔からの縁談の申し入れが為されることになった。当初、清右衛門せいえもんは困惑した。両番でもない新番組の、それも一介の平士ひらしに過ぎない自分の娘が、なぜ雲の上の地位の人物、全く家格の釣り合わない人物から側室にと望まれるのか?


 が、一度冷静さを取り戻し、徐々に状況が呑み込めるようになると、今度は怒りが湧いてきた。「一介の平士ひらしに過ぎない」ことこそが、側室にと望むための条件であったのだと悟ったからだ。


 家格の高い家が相手では、側室に望む事は先方への失礼に当たる。かといって、家格の低すぎる家の者を側室に入れようとすれば、家中に無用の諍いが生じる。話が面倒になり過ぎる。正室として迎えるには家格が違いすぎる両家だが、側室であれば丁度手ごろな家格である。竹内家は小なりとはいえ三河以来の由緒正しき旗本家であるから、出自についても問題は無い。


 小さな身代しんだいと侮りよって・・・普段は温厚篤実な清右衛門が、この時ばかりは怒りに震えた。


 小夜さよの長兄は相手の男を斬ってやると息巻いた。清右衛門も内心では同感であったが、何とかその場は抑え、「つつしんでお断り申し上げる」旨を返答した。


 清右衛門にとって娘は宝だった。この世に二つとない宝であった。男児2人に恵まれた後、少し離れて生まれてきた娘。自らの子供とは思えぬほどに美しかった。ただただ美しかった。清右衛門は、奥方のきぬが呆れるほどに娘を可愛がった。


 兄2人も同様に妹のことをこの上なく大事にした。しばしば兄2人の間で「小夜を守るのは俺だ」という喧嘩が勃発するほどであった。喧嘩になれば勝つのは決まって次兄の源次郎であった。源次郎には喧嘩の、というよりは武というものについての天性の才能が備わっていた。源次郎にいいようにのされた長兄・源太郎を慰めるのはきぬと小夜の役目であった。


 清右衛門にとって娘は生きがいであった。

 一介の平士なれば、様々な口惜しい思いもするし、阿呆で見栄っ張りな上司からの厄介な頼まれごとにも一々対応しなければならない。


 だが、どれほど嫌なことがあろうと、腹の立つことがあろうと、娘の顔さえ見れば・・・娘が笑顔で

「父上、お帰りなさいませ」

と出迎えてくれる姿を見るだけで、全ての心のおりは消えてなくなった。明日もまた励もう、と思えた。


 大きく育つにつれて、自らの美しさに溺れることを心配したが、娘は何とも心根こころねの優しい女子に育ってくれた。武家の娘として一本筋が通っており、凛とした佇まいを備えた娘は、清右衛門にとって何よりの誇りであった。


 そんな娘であるからこそ、出来るならばずっと手元に置いておきたい、と思う気持ちをグッと押し殺し、必ずや娘を幸せにしてくれるであろう男を見定めんと、清右衛門は娘の縁談を吟味してきたのである。


 もともと、絶世の美女と評判の娘である。持ち込まれる縁談には事欠かない。例え1000石、2000石の家だろうと、娘であれば必ずや大切にされるであろうことは確信していた。家柄だけでなく、相手の人柄まで見てじっくり吟味し、ようやく2つ、3つに相手を絞った。相手の石高は、上は1500石から下は600石まで。竹内家としては十分に満足できる相手である。


 ところが、不可解にも、特段の理由が無いにもかかわらず「誠に申し訳ないが、此度の縁談は辞退させていただきたく」と、先方から断りの連絡が来たのである。意味が分からなかった。


 だが、今、その理由も知れた。大身旗本、御書院番頭。才気に溢れ、御側御用取次おそばごようとりつぎや更なる高みに登り詰めることが、ほぼ確実視されている男。

 高木兵部少輔。

 この男が裏で糸を引いていたのだ。


 第一、鳥居伊賀守の娘が押しかけ女房として入った際に、あれだけ噂が飛び交ったような家である。例え顔が良かろうが、仕事が出来ようが、そんな男に嫁げば娘に平穏な幸せなど望むべくもないではないか。それに、それに・・・俺が、娘の幸せを願ってあれだけ吟味した縁談を破談に追い込んだ男。


 許せなかった。

 清右衛門は、決してこの男だけには娘を渡さない、と固く誓った。


 例え石高はそこまで高くなくとも、正室として迎え入れてくれる、娘を心底大切にしてくれる家へ嫁がせるのが自らの命を掛けても為すべき事、と心に決めているのだ。徹底抗戦の構えであった。


 だが、相手が悪かった。悪過ぎた。

 丁重にお断りした翌日、清右衛門はお城で上司のさらにその上、新番頭に出頭を命ぜられた。何事か?何かお役目に落ち度があったか?「あの男」が上役に手を回したのか?まさか・・・。


 そのまさかであった。新番頭の詰める御用部屋の手前で一呼吸。そして、おとないを告げる。

「失礼致しまする。竹内清右衛門、まかり越しましてございまする」

「うむ、入れ」

さほど言葉を交わさぬゆえに、聞き慣れぬ上役の声が入室を促す。清右衛門とて武門の端くれ、室内に別の気配があることは察していた。


 障子を開け、室内へにじり入ると、精神を落ち着けるように瞑目し、端座する美丈夫が居た。清右衛門の直感が、「あの男だ」と告げる。回れ右をして退室したかったが、既に別の新番組士により障子は閉じられていた。清右衛門、一世一代の大勝負。退路を断たれて逆に腹が据わった。さぁ、掛かってきやがれ。


 先に口を開いたのは上役の勝田左京かつたさきょうであった。

「のぅ、清右衛門。こちらは御書院番頭の高木兵部少輔殿じゃ。ここまで言えば分かるの?」

「はっ。お初にお目に掛かりまする。新番組・竹内清右衛門と申しまする。以後、お見知りおきを」


 上役の話を全く無視するかのごとき返答に、上役の顔が一気に不機嫌に傾いた。

「清右衛門っ!そなた、わしの話を聞いておったかっ!」

「はて、お初にお目に掛かるお方、それも御書院番頭の高木様と申せば、当家とは比較にもならぬ家格のお方。ご挨拶をせねばそれこそ非礼というものでございましょう」

「ぐっ、ぐぬぅ。そなた、上役のわしにそのような態度が・・・許されるとでも思うておるのかっ!」


 勝田左京かつたさきょうには、この話での直接の利害などない。が、うまくすれば、この鳥居伊賀守の娘婿にして、老中からも覚えめでたい兵部少輔に対して「貸し」を作れるかもしれない。噂によれば、出来る男の常として、この若造は「貸し」「借り」の勘定にはきっちりと落とし前をつけるらしい。


 つまり、ここで勝田左京の説得に清右衛門が応じれば、それなりの旨みが左京にも転がり込む、そういう寸法だ。

 ゆえに、清右衛門に首を縦に振らせようと必死であった。が、当の清右衛門はその心を知ってか知らずか話をはぐらかそうとして取り合わない。業腹ごうはらであった。


「まぁ、お静まりくだされ、勝田殿。此度の話、竹内殿には寝耳の水の出来事でござろう。何より、それがしが言い出した我が儘が原因にござる。竹内殿、先日は非礼にも突然文にてのあのような申し出を致し、誠に申し訳ござらん。」


 清右衛門は、おや、と思った。聞いていた話と違う。もっと鼻持ちならん男という話だったではないか。思ったよりも柔らかい印象である。

 と同時に、騙されんぞ、と気を引き締めた。この男が目付の職にあった時、数多くの旗本、御家人がお取り潰しの憂き目に遭った。辣腕らつわん、そういう評判が立っていたはずだ。相手の油断を狙って、このように優男の風情を装っているのだ。


「いえ。しかし、その儀につきましては先日お断りを致しましたが・・・」

「これは手厳しい・・・いかにも、その通りにござる。可能ならばお聞かせ下さらんか。それがしでは相手に不足、ということですかな?」


 苦笑しながら兵部少輔はからから攻めてきた。

「そのようなことはございませぬが・・・。」

「ならば何じゃと言うのじゃっ!高木殿に不足が無いというならば何が不満なのじゃ!」

ここぞとばかりに左京が責め立ててくる。


 清右衛門の内心からすれば、うるさいから黙ってろじじい、そんなところだろう。が、眉を上げただけで済ませた。

 この場の真の敵は、頭が固く、欲に目のくらんだじじいではない。目の前の、油断も隙も無い男である。たしかに男の目から見ても余程の美丈夫であるし、剣の腕前がなまなかではないことは、その立ち居振る舞いからも見て取れる。だが、そんな美形も堂々たる体躯も、今この場の清右衛門にとっては疎ましいだけ。


 ええい、ままよっ!言え、言ってしまえっ!奮い立て、清右衛門。今、ここで斬られようともそれも本望!!


 左京がさらに言い募ろうとするのをさえぎり、清右衛門は野太い、覚悟の決まった男の声で応戦した。

「されば申し上げまする。それがし、娘の縁組には正室に迎えていただける方をと思い極めておりまする。高木様におかれましては、寺社奉行・鳥居伊賀守様のご息女がご正室としておられ、既に3人のお子もみえるとか。どうか、どうか、伏してお願い申し上げまする。我が娘のことはお忘れ下さりますよう。何卒、お願い申し上げまする」


 左京の顔は怒りに歪み・・・、兵部少輔の顔には、真摯な眼差しの中にも何故か好意のようなものが感じられた。ただ、その顔のどこにも諦めの色についてだけは見付ける事が出来なかった。


「控えおろ「ははははっ、娘御のためにそこまで堂々と申されるか!さすがは某が見込んだお方じゃ。愉快、愉快!」」

大音声で怒声を上げようとした左京に、兵部少輔の涼やかな、そして伸びやかな笑い声が重なった。左京は怒りのけ口を失って、顔を白黒させている。


 清右衛門も、上司に刃向かった責により蟄居謹慎ちっきょきんしん、悪くすれば切腹でも申し付けられるかもしれない、と思っていたところにこのような反応が返ってきたため、毒気を抜かれたような、若干不貞腐ふてくされたような顔をしている。こっちゃ面白くなんてねぇっての、そう思っている。


 が、兵部少輔としてみれば、問題の原因は元々察していたのだ。親であれば、娘には正室として何はばかることのない家に輿入こしいれさせたい、という願いを持つのは当然のことである。


 そして、側室ならば家格が丁度釣り合う、という判断に清右衛門が怒りを抱いているのだろうことも察しは付いた。そこまで判れば十分である。


 まずは・・・

「某は肝の据わったお方が好きでしてなぁ。竹内殿とは是非ともえにしを結びたいと思っておるのです。聞けば、ご嫡男の源太郎殿も、ご次男の源次郎殿も無外流の腕前は相当なものだとか。竹内殿も一刀流の免許をお持ちと伺いましたぞ。剣の達者は肝が練れておる、とは真のことにござるな」

これを変わらぬ涼やかな声で、穏やかに語りかけてくる。


 ひょっとすると・・・本当に、この男についての噂は、ただの噂でしかないのかもしれない。


 そして、兵部少輔から逆の提案が一つ。

「一度、ご息女と直に言葉を交わすことはできませぬか?」

「某とて嫌がる女子を無理に迎えようなどというつもりはござらぬ。ただ、某のことを、恐らくは噂のみでしかご存知ないまま、断ると言われてしもうては・・・ちと、こちらも得心がゆかぬ。」

じかに言葉を交わし、某のことを検分された上で、それでもやはり断る、と仰るのであれば是非もなし。某に器が足りなかっただけのこと、諦めもつきましょう」


 そんな全く諦めてない顔で言われても・・・と思わぬでもないが、兵部少輔の言い分は確かに道理である。たしかに、この縁談を断ると決めたのは、多分に清右衛門の心情の問題なのだ。それを自覚するゆえに・・・

「承知つかまつった。」

そう答えるしかなかった。


「有り難い!礼を申しますぞ。それでは、某がお尋ねするゆえ、日取りについては当家の用人より伺いを立てさせまする。よろしくお頼み申す」

「はっ。畏まりました。では、御免つかまつる」


 兵部少輔と左京に一礼して部屋を出る。一歩遠ざかるごとに、もしかしたら取り返しの付かない事をしてしまったのではないか、と不安になる。

 もし、娘があの憎たらしい男に惚れてしまったら・・・いやいや、娘は美しいだけではない、穏やかな気性の中にもしっかりとした芯がある。ちゃんと男を見極める目も持っているはずだ。


 一方、勝田左京はこれで兵部少輔に恩を売れたと喜んでいた。もしかすると、俺も両番の番頭に転任できるかも・・・その先は御側衆おそばしゅうか!?

 一人心中で盛り上がっていた。客観的に見れば先ほどのやり取りの中では、前向きなやり取りは全て兵部少輔の言葉により成し遂げられ、左京は邪魔しかしていない。


 だが、この風采の上がらない、権柄けんぺいずくの態度でしか部下に指示をだせない石頭には、そのような客観性を求めるのは酷というものだろう。

「勝田殿、この度は場を取り持っていただき誠にかたじけのうござった。この礼は後ほど・・・」


 その日のうちに、勝田家の屋敷には高木家用人が「お礼」として金50両と、上等な反物たんものを届けに行っている。左京は、

「うんうん・・・これも後の大きなお礼の先触れであろう」

と一人納得していた。後に、ある意味ではその通りの展開となるのだが、今は石頭の事よりも清右衛門である。



 清右衛門はその日、自宅に帰る足取り重く、どれだけ進んでも自宅に近付いている気がしなかった。清右衛門の拝領屋敷はいりょうやしきは両国若松町にある。平士ではあるが、一応は三河以来の譜代旗本の分家であるから、500坪ほどの拝領屋敷はいりょうやしきに代々住んでいる。


 先々代は新番組頭しんばんくみがしらを務めたり、その前にも大番組頭おおばんくみがしらを務めた出来物できぶつの先祖がいるが、生憎、清右衛門は実直剛毅な仕事ぶりは評価されても、上役の受けが良い性質ではない。出世については早々に諦めが付いている。


 結局、日本橋の小道を入ったところにある茶店で少し時間を潰してから帰ることになった。その折に、酒を徳利一本分だけ飲んだ。普段はこんな寄り道などせずに真っ直ぐ帰る男が、である。それほどに、娘に対して、いや、家族に対して、

「すまぬ。一度、高木殿と会ってくれ」

と言うのがはばかられたのであろう。


 だがしかし、自宅に帰らぬ訳にも行かぬ。四半刻ほど時間を潰した後に、清右衛門は重い足を引きずるように自宅へと向かった。家人に帰宅を告げると、すぐに妻と娘が出迎えに上がる。


 毎日のように

「お帰りなさいませ」

と花開くような笑顔で出迎えてくれるのが娘の小夜さよである。そして、娘のような絶世の美貌とは比ぶべくもないが、それでも十分に美貌と言える容姿を持ち、落ち着いたたたずまいと共にたおやかな微笑みを浮かべて迎えてくれるのが、苦楽を共にしてきた妻女のきぬである。


「うむ、今戻った」

その雰囲気などから、絹は何事かが出来しゅったいしたことを悟ったのか若干顔を曇らせるが、娘の前である故に何も言わずに奥へと着いてきた。


 絹が清右衛門より受け取った大小を刀架へと掛ける。外出用のかみしもを脱ぎ、屋内用の着流しに羽織姿となる。しまいに脇差を腰へ収める。武人たるもの、一寸たりとも油断すべからず、竹内家の家訓ではそういうことになっている。


 着替えを手伝う最中にも絹は何事かを尋ねたいような雰囲気を見せつつも、何も言葉を発しなかった。必要であれば清右衛門が自ら話すことを知っているのだった。


 竹内家では食事は奥座敷で摂ると決まっている。家族皆が揃い、清右衛門が最後に着座したら、皆で手を合わせて「いただきます」の唱和。


 武士らしく一汁一菜、ではない。

 清右衛門自身の剣術修業の折に、身体を丈夫にするには鍛錬だけではいかん、食する物にも気をつけよ、出来るだけ魚を食べよ、と言われたのである。


 幸い、竹内家はさほど気取った家ではないので、金のやり繰りには困っていない。食を充実させるために金穀を使う事に抵抗はない。ゆえに、本日の食卓にも玄米と味噌汁、汁の具にはしじみと庭で取れた青菜、鰯の煮付けとかぶらの漬物、小魚の甘露煮が並んでいた。


 美味い・・・。実際の調理にはさほど手を出さないが、勝手場を仕切っているのは妻女の絹である。味見をして最後の整えをするのも絹の役目であった。絹の出す膳は、いつもながらに美味かった。


 これで少し落ち着いた清右衛門は、皆が食べ終わった後で、食前と同様に「ごちそうさまでした」と唱和した後に告げた。


「少し話がある。皆、残りなさい」

「本日、番頭の勝田様に呼び出しを受けた。その場に同席されていたのが・・・高木兵部少輔様だ。」

気色ばむ嫡男を仕草で抑え、続ける。


「正直申せば、いけ好かぬ男と思うておった。直に言葉を交わす前はの。・・・じゃが、言葉を交わした後は、ちまたで噂されるほどに高慢で鼻持ちならない、岳父の威光を笠にきたような人物とは思えなんだ。それよりは、よほど勝田のじじいの方が・・・いや、何でもない」

「ともかく、明らかに格下のわしに対して、丁重にこう言われたのだ。一度、ご息女とお話させてはもらえまいか、と。その上で、やはり某のことは気に入らぬ、とそう申されるのであれば、無理強いをするつもりはござらぬ、とな。」


 奥座敷に沈黙が垂れ込めた。

 嫡男の源太郎がえるように言う。

「そう上手い事をいって、一度会えば、もはや縁談は成った、と吹聴ふいちょうするつもりなのじゃ。父上、なりませぬぞ!受けてはなりませぬ!」

普段は冷静な男だが、妹の事となると熱くなりがちである。


「そなたの気持ちは分かるがの、それでは道理が通らぬ。相手は大身旗本、御書院番頭じゃ。当家よりも遥かに格上の相手が、礼儀に則りこちらに頭を下げておるのじゃ。」

「それにの、そう言われたのはわしが、叶うならば娘には正室として輿入れさせたい、と存念を述べた後のことぞ。尋常ならば、その時即座に非礼を理由としてわしは謹慎を言い渡されてもおかしくは無い。それだけの力を相手が持っているのだ。それをせなんだは、相手にもそれなりに当家への気遣いがあるからじゃ。なれば、この申し出、こちらも無碍むげにはできまい」


 清右衛門の正論に詰まった源太郎が尚も言い募ろうとする。

「ぐっ、ならば、ならば・・・せめて立会いを申し込みたい。小夜を守るだけの力を持っておるのか。心胆は練れておるのか。剣で見極めてくれん」


 思わず娘の小夜が口を挟む。

「あ、兄上・・・無茶をなされますな。いかに気遣いの出来る方とはいえ、非礼に過ぎましょう。私がお会いいたしますゆえ」

「な、ならぬっ!!そなたも何とか申せ、源次郎っ!」


 源太郎が悲痛な声で叫んだ時、これまで一言も発しなかった絹がおっとしとした声音で取り成した。次男坊の源次郎は、口を引き結び、虚空の一点を見つめて考え事をしている。


「源太郎、落ち着きなされ。そのように取り乱していては、小夜に嫌われますよ?」

その言葉に衝撃を受けた様子の源太郎に、さらに告げる。

「父上がお会いになり、少なからずお認めになった相手を、小夜も自らの目で見極められるのです。良いではありませぬか。大方の縁談は、相手と一度も会うことなく、祝言の場で初顔合わせとなることも多いのですよ。」


 若干落ち着きを取り戻した源太郎が、肝心な点について問う。

「申し訳ございませぬ。取り乱しました。しかし、小夜が会うてみて、どうにも嫌じゃとなった場合は、まことにお断りできるのでありましょうや?」


 清右衛門も絹も、難しい顔をした。一廉ひとかどの人物であると判った今、相手がそれなりに周到な準備を整えた上で、動いているだろうことは想像に難くないのだ。何しろ相手は、この日ノ本を治める幕府の中でも高位と言ってよい役目にあり、そして、出来る人物であることが伺えるのだ。


 組織を動かすには、その組織が大きければ大きいほど、尋常ならざる才覚と、気配り、目配り、そして面倒極まりない根回しを精力的にこなせる折衝能力が求められる。


 清右衛門は、本日対峙した高木兵部少輔という男が、その全てにおいて別格である、との印象を受けた。そこらの平凡な旗本連中とは比較にならない傑物けつぶつである、と。


 で、あればこそ・・・この縁談、恐らくはお膳立ては全て整った上で持ち込まれている。断る事自体は可能かもしれないが、その後にどのような無理難題が降ってくるかも知れぬ。

 何より心配なのが、そのような気配りを受けながら断った、という事で、今後、小夜の縁組がまともに決まらなくなる恐れがあることだ。


 兵部少輔自身が縁組を邪魔するとも思えないが、この件は既に上役の勝田左京を始め、新番組の者にも知れていよう。破談ともなれば、どのような噂を立てられるか知れたものではない。軽輩の娘のくせに大身旗本の側室の話を蹴ったとんでもない気位の高い娘だ、などと噂を立てられようものなら自由に市中を出歩く事も出来ぬ。


 肩身の狭い思いをしながら陰に隠れて生活し、弱みに付け込む輩を封じ込め、などと手をこまねいている内に、あっという間に婚期を逃してしまう。一度婚期を逃せば、年増としまとしてますます縁談が遠のいていく・・・。それこそが、最も忌まわしき結末である。


「気に入らぬ・・・」


 唐突に源次郎が呟いた。恐らくは、親戚一同の中でも最も自由奔放に生き、その若さにも関わらず昔から様々な凄絶な体験をしている、この次男坊こそが竹内家の中で一番先が見えている人物だ。


 数えで21歳という若さながら、既に浅草瓦町かわらまちに自らの道場を持っている。無外流兵法むがいりゅうひょうほう・竹内道場、と銘打っている。道場を開いたのは半年ほど前の事だが、その折も竹内家には一銭の援助も求めず、どこからか調達してしまった。


 何事があろうともこの男だけは生き残り、楽々と世の中を渡っていってしまうであろうつよさと、したたかさ、しなやかさを兼ね備えているのだ。


 剣の腕前に関しては、天才では片付かぬ程のものを持っている。何せ数えで16歳の時には、余りの稽古の厳しさに寂れつつある名門道場であった無外流・辻道場で印可を得て、師より「もはや教える事は何もないわえ」と言わしめた実力の持ち主だ。


 その後は、父を通じて幕府より許可を得て、ふらりと廻国かいこく武者修行に出た。1年程前に、何事も無かったかのように戻ってきたのだが、その時にはなぜか20人ほどの子分を連れており、竹内家では少なからぬ混乱が起こった。


 もっとも、その混乱も源次郎自らの手で何とか片付けてしまった。

 竹内家が新たに侍女として雇い入れたおうのの実家が浅草蔵前くらまえ札差ふださし春日屋かすがやと聞くと、即座に出向き何やら話を付けて子分たちを春日屋かすがやかかえとしたのだ。


 そして、いつの間にか浅草瓦町かわらまちには80坪ほどの敷地に40坪の立派な道場と、子分たちの住まいが併設された「竹内道場」が完成しており、50人の門人を抱える道場主に納まっていたのだ。いずれこの辺りの事情については詳しく書くとして、今は竹内家の食卓に話を戻そう。


 源次郎から見て、この局面は既に詰んでいた。今からこの話を破談に持ち込むのは、小夜の負う傷を考えれば得策ではない。恐らくは、こちらがそう判断することまで兵部少輔は計算に入れているであろう。


 源次郎がさりげなく仕入れた情報からすれば、兵部少輔という男は気に入った相手にはそれなりの対応をするらしい。と、なれば、今後の父や兄の仕事がやり易くなるように便宜を図るであろうことも想像に難くない。


 余程に根回しをした上で、この話を持ち込んでいるのであろうが、その労をいとわぬということは、それほどまでに小夜を気に入ったという事なのだから。


 源次郎が「気に入らぬ」と言ったのは、自分が居ながら、詰みの局面で話を持ち掛けられるまで、この件を探りきれなかった事だった。小夜の縁談が破談になった時点で探りは入れたが、いずれも途中でぷつりと糸が切れてしまったのだった。

 ある者はご老中、別の者は若年寄、さらに別の者は寺社奉行、と脈絡が無かった。そこから先に探りを入れるには、源次郎の仕込みの時間が足りなかった。だが、今なら解る。そのいずれもが、何らかの形で兵部少輔と関わりのある幕府の重鎮であった。


 まったく、手の込んだ事をしてくれる・・・。ここまで探りを警戒しているということは、情報の大切さを理解している、という事に他ならない。こちらの縁談を潰されたことには思うところはあるが、ここまでの絵図を、構想を描ける男、というのは滅多に居ない非凡な男、ということでもある。

 源次郎は単純に兵部少輔を嫌う事は出来なかったし、意外と自分は話が合うのではないか、そう感じていた。


 面白い奴、と感じ始めていた。


 源太郎が源次郎の呟きに反応する。

「そうであろう!このようにこちらに選択肢を与えぬようにして、手足を縛ってから会いに来ようなどと・・・」


 が、源次郎がそれを遮る。

「いや、そうではない。兄者も少しは落ち着け。俺の見たところ、小夜が兵部少輔に嫁ぐのはそんなに悪い話ではない。」

「小夜が会ってみて気に入ったらば、側室でも輿入れはした方がいいぞ。元々あった縁談の相手に輿入れするよりも、よほど竹内の家のためになるし、小夜も無用の苦労をしなくて済む。」

「何よりな、兵部少輔は小夜との間にさちあらんと努めるはずだ。でなければ、正室がいるってのに、ここまで手の込んだ仕掛けはしねぇさ。ふふ、兵部少輔の奴、よっぽど正室の倫子のことが気に食わねぇんだな」


 何やら源太郎が反論したそうであったが、相手が源次郎である。恐らくは、父よりも、母よりも、説得力のある言葉を吐いているであろう、嫌になるほど優秀な弟の源次郎が言っているのである。


「あぁ、もう!そう言われては何も言い返せん。気が晴れぬわ・・・外で木刀でも振ってくるっ!」

「おぅ、兄者。兵部少輔との腕比べ、やってみりゃいい。意外と喜んで乗ってくるかもしれんぞ」

「そ、そうか?うん、ではそうしてみるか・・・」


 最後は肩透かしを喰らったような顔で源太郎は奥座敷を出て行く。心中では、俺が言い出した時は皆止めたくせに・・・と、少しねている。


 父と母は何かを悟ったような、諦めたような顔で源次郎を見ている。この息子の破天荒は今に始まった事ではないのだ。ただ、本当に締めるべきところでは、この粗野な口調が見事に改まり、凛とした佇まいの立派な若武者に早変わりするため、あまりきつくも言えない。


 兄に対しては最後は茶化した源次郎だが、ふと小夜に向かって言う。

「小夜、お前は何も気にせず、兵部少輔のことを気に入るか、気に入らねぇかだけを判断すればいい。気に入らねぇ時は安心しな。俺がお前の気に入る男をどこかから連れてきて、必ず幸溢さちあふれる所帯ってやつをもたせてやるからな。」

「次郎兄さま・・・」

「親父殿もお袋様も・・・まぁ、頭に浮かんでることは分かるがね。その程度のことなら俺が何とでもしてやるから気にすんな」


 ぽかんとした母が我に返り、早速叱りつける。

「源次郎、父上に向かって何という言い草。父上は許されても母は許しませぬ」

が、元々がおっとりしている母なので迫力はない。

「あ、すまん、母上。」

一言言い残し源次郎も席を立つ。


「これ、源次郎。まだ話は・・・」

と声を掛けたところで、源次郎は姿を消し、絹はため息をついた。

清右衛門は苦笑するしかない。


 翌日、約束どおり高木家用人が清右衛門を尋ねてきた。丁重に挨拶をして本題へ。日取りは7日後のの刻。主・兵部少輔と供回ともまわり、用人、小物の4名で訪れるとのこと。

 お忍びで訪れるとの事だが、そうは言っても竹内家ではそれなりに格式を整えるための準備がある。普段と比べるとせわしない日々が続き、約束の日取りは瞬く間に訪れた。


 結果からすると、小夜は兵部少輔に惚れることはなかった。今までどこに行ってもモテモテだった兵部少輔としては、新鮮な思いを抱いた。

 小夜は、先日の源次郎の言葉を受けて、あくまで自然体で兵部少輔に接し(とはいっても多少の緊張はするが)、「この人は悪い人。でも、きっと私のことは大切にしてくれる人」と見極めをつけた。


 むしろ、兵部少輔の方が、「やはり美しい。生粋のお嬢様育ちとは違うのに、この溢れる気品は何だ。うちの正室と比べたら、小夜殿に失礼にあたるわ。うむ、やはりどうしてもこの女子を嫁として迎え入れたくなった。決して手放さぬぞ」と、心を奪われてしまった。惚れた弱みとでも言おうか。


 いずれにしても、この日を境に高木家と竹内家の両家は、小夜の輿入れに向かって動き出していく事と相成った。輿入れの日取りは長月ながつきおおよそ10月)の吉日と決まった。


 後は万事恙つつがなく輿入れが終わり、目出度し、目出度し・・・とはいかなかった。


 小夜を側室に迎え入れる、という話が公になった時、正室の倫子は全くもって理解が出来なかった。その事実を受け入れる事が出来なかった。


 自らのって立つところ、自らが他者に対して抱いていた優越感、全てを手に入れ誰にも邪魔されないはずの幸せな世界がガラガラと音を立てて崩れ落ちていったのだ。そして、絶叫した。


「いやじゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!私は認めぬっ!!絶対に側室など認めぬわっ!!」

「鳥居の父には話されたのか!?父がこのような、このような馬鹿げた話を認める訳がないであろっ!?」


 夫に対する貞淑ていしゅくな妻の仮面をかなぐり捨て、噛み付いた倫子に対する、兵部少輔の答えは単純明快であった。


「伊賀守様には既にお許しをいただいておる」

「そ、そんな・・・馬鹿な・・・。嘘じゃ、嘘じゃ・・・」


 幽鬼のようにふら付きながら挨拶もなく居室を出て行こうとする倫子に、兵部少輔は最早一声たりとも掛けようとはしなかった。

 倫子付の侍女・たかが、自らの女主人の精神のを危ぶみながら慌てて追いかけていく。横目でちらりと兵部少輔を見る。そこには、何事も無かったかのように書物を読み進めるこの屋敷の主の姿があった。


 やはり・・・と、たかは思った。恐れていた事が真になった、とも。

 姫様も姫様、やり過ぎてしまわれたのだ、と。

 しかし、情けなど最初から無いのであれば、初めからそのように振舞ってくだされば・・・。


 姫様は、藩邸の中の世界しかご存じない故に。

 むごい仕打ちじゃ・・・最前の兵部少輔の冷たく拒む目を思い返し、たかは思わず背筋を震わせた。そして、こう思った。


 殿様は恐ろしいお方じゃ。側室に入られるというお方は、あの方の恐ろしさをご存知なのであろうか、と。

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