第1章表「麗しの若君」ー第1話

安永元年 江戸 本所相生町


 安永元年師走、グレゴリオ暦によるところの1773年1月、一人の男児が産声をあげた。

 名は虎之助。

 虎のように強く、という願いがこもっている訳ではない。父が上司に願い出た結果である。


「子が生まれましたゆえ、何卒幼名を賜りたく」


 子が生まれたのは夜半である。知らせを受けた父は、すぐさま登城前の上司宅へ朝駆けした。


 父の上司は若年寄である。徳川将軍家の定めし幕府の職制の中で、老中に次ぐ権力者である。この時代の幕府体制下におけるトップエリートであることには間違いない。そんな上司の歓心を買わない手はなかろう。部下が子供の名前をつけて欲しい、とお願いしてきたら、「い奴じゃ」となるのだから。


 ゆえに、この男児の名は虎之助となった。ありがたくも上司の弟君(噂によると、その中でも一番出来の良い)と同じ幼名を授けられたらしい。これから父は、上司とその弟君にお礼状を書き、何某かの進物を献上するのであろう。


 賄賂ではない。あくまでもお礼である。

 この「お礼」を大事にすること、これは出世にとても響くのだ。そう、虎之助の父は出来る男なのである。


 とはいえ、これらはまだ生まれたばかりの赤子には関わりの無い話である。今は、母親の産道を通り、無事に生まれてくるという大役を果たし、母親の横でスヤスヤと眠る赤子を見守る時であろう。無粋な話は無しである。


 その赤子はとても整った顔立ちをしていた。生まれたばかりゆえに髪はさほど生えていない。しかし、柔らかな髪の毛が、障子越しに差し込む冬の弱々しい陽の光に照らされて、金色こんじきに光っており神々しさすら感じさせる。

 肌は抜けるように白い。眉の形もよく、顔の道具立てが天の配剤と思えるほどに整っている。今は眠っているが、起きたときの目はくっきり二重で切れ長、しかし穏やかな瞳である。ゆくゆくは女子泣かせの美男子に育つことが確実である。


 その赤子を見守る母親もまた、驚くほどに色白で美しい。傾国の美姫、と言えば良いのだろうか・・・とにかく、この世のものとも思われぬほどの美しさである。しかも、その美しさには険がなく、その眼差しはどこまでも優しい。落ち着いた物腰ゆえに歳の頃は20歳ほどに見えるが、実はこの母親、いまだ17歳である。


 その側には、同じく赤子に優しい目を向ける女子が一人。赤子が生まれるときには、産婆の手配から母親の身の回りの世話までを全て一手に引き受けていた働き者だ。


 そして二人とも、無心に眠る赤子の姿に心を蕩けさせながらも、この子を護る、と決意を固めてもいた。この何も知らずに眠っている赤子は、実は微妙な立ち位置にいるのである。いずれ、身の危険を招くかも知れないような・・・。



安永二年 江戸 永田馬場


 如月の十五日、既に立春も過ぎてはいるが、まだまだ冷え込みの厳しい日々が続くこの季節、永田馬場(現代で言うところの永田町界隈)にある大身旗本の屋敷では、奥座敷にてこの家の妻女が癇癪を起こしていた。


何故なにゆえじゃ!何故なにゆえあの女は私から全てを奪うのじゃ!殿のお情けも、美しい童子も、何もかも・・・。」

「お、お方様、どうかお気をお鎮めくださいませ」

「私は鳥居伊賀守の娘ぞ。殿を心底お慕い申し上げる故に、高木の家に入ったというに・・・。万寿丸も、次郎丸も、琴子も私が腹を痛めて産んだのじゃっ!!何故、何故あのような軽輩の小娘に・・・全てを奪われねばならぬのじゃ!」


 最後は地の底から響き渡るような、恨めしげな声で嫉妬に狂っているのは、この屋敷の主である大身旗本・高木兵部少輔ひょうぶしょう房永ふさみちの正室、倫子ともこである。


 倫子ともこの父の名は鳥居伊賀守忠意ただおき。下野国壬生藩3万石を領する大名である。先代の将軍・徳川家重が薨去するまでは若年寄を務めていた。

 将軍の薨去に殉じて全ての職を辞する姿が幕閣に「忠義の士」との印象を与え、あらためて幕府要職に就いている。就いている職は奏者番そうじゃばんと寺社奉行。奏者番そうじゃばんは鳥居家のような譜代大名家であれば任じられることは珍しくない(定員も20~30名と相当数いる)が、寺社奉行については少し話が違う。


 俗に三奉行と呼ばれる町奉行、勘定奉行、寺社奉行のうち、大名が就く役職は寺社奉行だけであり、幕閣の中に存在する数多の「奉行」職の中の筆頭なのである。それだけに、その管掌する職務の範囲も幅広く多岐に渡るのだが、詳細については本筋から外れるため省略する。

 基本的に寺社奉行は奏者番との兼務になるのだが、その定員は4名。少なくとも20名ほどは常時存在する奏者番の中の2割しか寺社奉行の席に座ることは出来ない。要するに、鳥居伊賀守もまた、幕府の中ではそれなり以上のエリートなのだ。


 倫子の夫の兵部少輔は7000石の大身とはいえ旗本である。奏者番、寺社奉行を兼務しており、これからさらに上の役職に就かんとする大名の娘が嫁ぐには不適当と言ってよい。通常ならば、他の大名家に嫁ぐのが妥当なところだ。


 だが、倫子は出会ってしまったのだ。役目上の用向きのために、西の丸下にある壬生藩上屋敷を訪れた凛々しく、香気が匂い立つような男ぶりの若武者に。


 倫子には兄弟が13人、姉妹は自らを含めて7人もいる。個性はそれぞれにあるものの、大名家の、それも今をときめく出世大名の家中としては、中々に厳しく躾けられたものである。兄弟姉妹のほとんどは大人しく自らの境遇を受け入れるのだが、倫子は少々違った。

 

 時にはこの日のように奥座敷を抜け出し、父が政務を取る表に足を運ぶこともしばしばであった。本来、「奥」と「表」は厳密に区分されているものである。

 さすがに、千代田の城の大奥のごとく、主の御渡りの時以外は錠前をかけるほどの事はしないが。とはいえ、この日、日課の手習いを終え、手持ち無沙汰となった倫子が「表」に顔を出し、本来ならば顔を合わせるはずのなかった男、高木兵部少輔と出会ったのは、紛れもない事実である。


 兵部少輔を見かけた倫子は衝撃を受けた。当家の家臣の中にもそれなりにいい男は居たけれど・・・世の中にはあんなにも麗しい殿方が沢山いるのだろうか?


 はしたない事は重々承知の上で、倫子は側付きの侍女に尋ねた。

「あの殿方はどなたじゃ?」

「さて・・・見覚えがございませぬ。表に顔なじみの小物が居りますゆえ、聞いて参りましょうか?」

「よきにはからえ」

 そんなこんなで倫子は2つの事実と、1つの良くない現実を知った。


 すなわち・・・かの若武者の名は高木兵部少輔房永であること。彼が目付に任じられていること。しかし、容姿端麗、頭脳明晰で剣の腕前も確かな若武者である故に、彼の元には年頃の女子を抱える旗本家、諸藩の家老家などから山ほどの縁談が持ち込まれている、という現実だった。


 倫子の心は千々に乱れた。私はあの方の元へ嫁ぎたい・・・。


 この時代、娘の婚姻は親の一存で決まるものである。何よりも「お家」のため。御家大事、が金科玉条となっている武家にとって、特に高位の武家にとってはそれは常識以前の問題であった。だが、この時の倫子は恋に恋する乙女であった。何が何でも・・・あの貴公子と夫婦になりたい、そう思い極めていたのである。


 その結果、倫子による常識外れの父親への直訴が実行された。当然、常識外れの行いをする娘に父親の伊賀守はいい顔をする訳もない。

 が、しかし、昼間に役宅を訪れた堂々たる美丈夫の姿を思い返し、娘がそう思うのも無理はないか、と内心で苦笑した。眉間には皺を寄せ、口では「控えよ!」と叱責してはいたが。


 伊賀守はしばし黙考する。

 高木兵部少輔房永。剣においては直心影流の麒麟児と名高く、何年か前の剣術試合では若年ながら諸藩・旗本家から集まった強豪を抑えて第三席まで進んだ男。

 剣だけでなく、文においても天稟の才を示し、自ら志願して長崎奉行の支配下役として働いた男。

 当の剣術大会を開いた御老中が珍しく手放しに褒めておられた。


「あやつは出来物じゃ、長崎奉行と警護の福岡藩、佐賀藩とは長年不和であった。それを相手方の組頭や番方の上役、果ては博多と佐賀に乗り込んで、家老とも話を付け、曲がりなりにも協力体制を築いてきおった。」


「ま、いずれはまた元の不和にもどるじゃろうが、一時とはいえ九州の有力な大藩2つと協力関係を築けたという事実が大きい。その時分の様子を覚えている人間が居る限り、何か事が起こったときには速やかに協力体制を築き上げることが出来ようからの。」


「元の家格を考えれば過分な従五位下兵部少輔を与えたのも、目付に任じたのも、あやつの才覚を買ってのことよ。井の中の蛙でつまらん見栄ばかり張りおる連中がどうなるかの?ふっ、ふふ」


 ふむ、ここは一つ、旗本の有望株にこのお転婆娘を娶わせてみるのも悪くはない。

娘も母親に似て顔の造作は悪くはないし、体つきもそれなりに女らしく育った。

 兵部少輔へ嫁がせようとしている旗本にしろ、諸藩の家老にしろ、寺社奉行兼務の奏者番を務める鳥居家の娘ともなれば正室の座は遠慮しよう。


 娘も息子も沢山いるわしにとっては手駒の一つ。人並みに幸せになってほしいとは思うが、あのような出来物が娘一人で満足するとも思えん。側室は好きに選べばよい。

 なに、今はとりあえず使える男と縁を結んでおくことが肝心だ。これからまた若年寄となり、老中の座を狙うには、大身旗本の中にわしの手駒として使える優秀な男が絶対に必要だ。うん、悪くない。


 そんな計算が伊賀守の頭の中では組みあがっていき、口調は厳しいままだが

「そなたの振る舞いは当家の恥じゃ。しばし奥にて禁足いたせ。じゃが、嫁入りの備えは整えておれ。」

と、暗黙の内に倫子の希望に沿った形で動くことを伝えた。


 倫子も「かしこまりました。申し訳ございませぬ」と口調こそ大人しくしているものの、その口元には笑みが浮かんでいる。縁側にて控えていた侍女のたかは、どうなることかとハラハラし通しであったが、姫様の一世一代の願い事が叶ったことに関しては共に喜んでくれた。部屋に戻る倫子の姿は小躍りするかのようであった。


 父、伊賀守の動きは素早く、その二月後には高木兵部少輔と倫子の縁談は正式なものとなり、幕府への届けも出されて受理された。明和二年如月、華々しく彩られた倫子は高木家の屋敷に迎え入れられた。


 意中の人を射止めた倫子は、得意満面、それはそれは鼻高々であった。他の兵部少輔を狙っていた女子衆、特に、倫子よりも器量良しと知られていた娘たちは嘆くしかない。

 いや、大名家の娘という身分差を傘に来て無理やり押しかけたようなもの、と一時期は鳥居の家そのものにもかなりの悪評が立ったものだった。


 人の噂も七十五日、とは言うが、この噂ばかりはかなり長引いた。女の恨みは怖い。普段は噂など歯牙にも掛けぬ伊賀守も、この時ばかりは

「ちと早まったかのぅ」

とぼやきたくなる程度には悪評と、鳥居家に対する陰での嫌がらせが続いた。


 同情をかっていた側の兵部少輔とて、手放しで喜べるはずもない。

 同輩は同情の目線と同時に、嫉妬が見え隠れする目線を向けてきた。大方、上手いことやりやがって、とでも思っているのであろう。何せエリートコースまっしぐらの大名の娘を娶ったのである。そこは陰に陽に“後ろ盾”というものが期待できるのだから。


 とはいえ、城中で、あるいは役宅で、顔を合わせることのある岳父からは、何とかしてくれよ、と言わんばかりの目線を向けられる。兵部少輔とてその程度の噂でどうこうなるタマではないが、毎度のように気楽さを咎められるかのような藪睨みの目で見られるのは少々居心地が悪い。


 この時、同時に広まった噂は数多く、噂というものの性質を忠実に発揮し、あらゆる尾鰭と背びれがつき、おまけに飛魚の羽根まで付いて、遥か水平線の彼方まで飛んでいく勢いであった。

 現代で言うところの政治家のスキャンダルと似たようなものであろう。そのネタが男女の愛憎に寄れば寄るほど、ある事ない事がゴシップとして書き立てられるようなものである。


 そして、その噂の中の一つを耳にした兵部少輔は乾いた笑い声を漏らした。内心、嘘から出た真とはこのことか、と感心してもいる。

 その噂とは、高木兵部少輔は押しかけ女房の倫子を嫌っており、器量良しの娘を側室として探している、というものであった。実際にはその最後に、器量良しの評判高い娘御をお持ちの方は某へ申し付けられよ、きっと内々にご紹介いたしますぞ、という言葉が添えられている。最後の部分だけは切り取られて兵部少輔に伝わった。


 実際にこの噂は同僚の何某かが流したものであり、それは兵部少輔が嫁を娶ったというのにも関わらず、普段の態度に一切の変化がなかったことから、さては・・・と邪推したのが切っ掛けである。

 そもそも兵部少輔は私事にかまけて仕事を疎かにしたり、仕事に影響を与えるような精神構造ではないので、いつも通りに十歩、二十歩先を考えて淡々と御役目を果たしていたに過ぎないのだが・・・たどり着いた結論についてはそうそう間違ってもいなかった。


 兵部少輔は確かに倫子のことを好いてはいなかった。嫌っているという程ではないが、少なくとも兵部少輔の好みではなかった。顔の造作は悪くはないが、飛びぬけてもいない。

 お転婆だったとは言うが、大名家のご令嬢である。碌に運動もしていない身体は女らしさは感じられても、メリハリがなかった。遊びなれている兵部少輔にとってはどこぞの働き者の小町娘の方がよほど好みであった。


 そして、何より兵部少輔の内面を知りもせずにただひたすらに好意を向けてくる。やたらと甘えてくる。

 自分が拒まれることなどあり得ない、そう確信しているかのように。


「倫子は兵部少輔様をお慕い申しております」

そう言われてどう答えれば良いと言うのか?


「私も倫子殿のことは好ましゅう思っております」

そう返す以外に無いではないか。何せ相手は大名の娘なのだ。


「・・・いや。私のことは、倫子と呼んでくださいまし」

恥らうかのように、拗ねてそんな言葉を言われても・・・。


「うむ。では、倫子。参るぞ」

「はい、新之助さま・・・あぁっ」

その後の事についてはお察しである。


 たしかにする事はしている。閨を共にせねば子が産まれぬ。子が産まれなければ、兵部少輔自身にとっても傷が大きくなる。


 家と家の結びつきの話なのだ、これは。そこに私情を挟む余地などない。ゆえに有象無象の噂話でこれ以上、鳥居家と、潜在的に高木家の評判を落とす前に、とりあえずは子供を1人、可能ならば世継ぎを作る必要があった。早急に。


 また、それとは別の理由から兵部少輔としては、倫子に3人は子供を産ませるつもりでいた。

 1人目の男子はもちろん嫡男として。

 2人目の男子は嫡男に万が一があった場合の控えとして。

 あとの1人は出来れば女子で、どこかの家と血縁を結ぶために。


 非道と言う勿れ。21世紀の自由民権がほぼほぼ確立した世においてさえ、「世継ぎ」という言葉は死語となっていないのだ。

 封建制のこの時代、家と家との結びつきというのは、今とは比較にならないほどの重要性を秘めている。自家の存続における選択肢が広がる、という事なのだから。


 それはさておき、兵部少輔が倫子のことを好いてはいない、これは事実である。

 そして、可能ならば自分好みの女子を側室に迎え入れたいと秘かに思っていることもまた、事実である。


 だが、兵部少輔はそもそもが「女の扱いに慣れた男」なのである。

 平たく言えば悪い男である。

 好みでなくとも、倫子を喜ばせる方法は心得ているし、何なら倫子のことを心から愛しているかのような演技とて朝飯前にこなす。たとえ内心がどうであろうと。


 今の倫子には、今現在の、経験もなく恋に恋しているような乙女の倫子には、とてもではないが兵部少輔の内面を察することなど出来なかった。


 さて、巷に広がる噂、それ自体は倫子の耳にも入っていた。だが、それを鼻で笑っていた。


「ふん、力なきものが何を言うても無駄じゃ。新之助さまは私のものじゃ」

「新之助さまは閨で情熱的に口吸いをなされるし、耳元で愛いやつと囁いてくださるのじゃ。妾と新之助さまとの仲に嫉妬しても詮無きこと。町雀や下郎には好きなように囀らせておけばよい」

いかにも自信満々、余裕綽々であった。


 ちなみに新之助とは、兵部少輔の幼名である。幼少の頃より親しくしている者が呼ぶ呼び名である。一般的に、幼馴染が結婚したとかではない場合、妻女が夫君のことを幼名で呼ぶ事はまずない。


 倫子にとって、夫の兵部少輔はたしかに恋した男性ではあった。

 が、選んで「あげた」存在であり、嫁いで「あげた」存在である、という無意識の認識が端々に滲み出ていた。そのような態度が夫に対してどのような影響を及ぼすかについては、想像の埒外にあった。故に、その結婚生活の当初から、夫婦の双方には重大な、極めて重大な認識のズレが生じていた。


 1年が経ち、明和三年弥生、倫子は男児を出産した。子の幼名は、鳥居伊賀守が付けた。万寿丸である。


 いまだ尾を引いていた鳥居家、高木家の噂話問題は万寿丸の誕生を機に、潮が引くように消えていった。

 伊賀守や兵部少輔にとっては、少なくともこれ以上の悪評を防げそうだ、という点で一息つける慶事であった。何より、家の存続の観点からすれば、「お世継ぎ」の誕生は大きな安心材料となる。


 一方、倫子はこの時、得意絶頂であった。我が世の春を謳歌していた。

 彼女の主観からすれば、この世に彼女ほどの幸せな女はいなかった。優しく、自分のことを想ってくれている夫がおり、可愛い子供にも恵まれた。


 暮らしぶりは以前の「大名の娘の一人」に過ぎなかった時に比べると、むしろ「大身旗本の奥方」となった今の方が豊かである。世の中にこれほど恵まれた女子はおるまい。ほら、下々の者どもよ、妬むが良い、噂するが良い。おほほほほほ・・・。


 ここでいう下々の者、とは武家ではない農民、商人、職人の事は含まない。なぜなら、彼女にとってそれらの「モノ」は視界にすら入っていない、自身と比較するべき対象の中に入っていないからだ。この時代の身分制度とはそれほどの差がある。


 倫子にとっての下々の者、とは自らの家格に達しない全ての武家である。加えて、夫の兵部少輔は幕閣の中でも有数の実力者である。7000石の大身旗本、そして、目付の役目ともなれば、小大名程度では無視できない権勢を誇る。


 倫子が鼻高々になるのも無理はないが・・・やはり気付いてはいないのだろう。

 倫子自身の立場は決して磐石なものではなく、また今ある立場は倫子の成し得た成果によるものでもないことを。・・・倫子自身には、誇るべき理由など何もないことを。


 とはいえ、倫子にとっての蜜月、最良の日々はしばらくの間は継続した。兵部少輔が、3人の子が生まれるまでは自らの本願である「寵姫を我が側室に」という思いを封じていたからである。


 そして、明和七年。倫子は、3人目の子、高木家長女の琴子を産んだ。

 赤子の具合もよく、産後の肥立ちも良い。そのことを受けて満足そうに頷いた兵部少輔は、お褥辞退を理由に倫子と閨を共にすることは無くなった。


 より正確に言えば、倫子の与り知らぬところで、お褥辞退を「受け入れた」という体裁を整えてしまったのである。(主の内心を承知している高木家用人も、その話を聞かされた時は絶句していた。)


 そして、自らの本願を果たすために本格的に動き始めた。

 倫子と過ごす時間はどんどんと少なくなった。


 そもそもが仕事の出来る男、兵部少輔である。自重はしていても、将来、自らの側室に迎えるにちょうど良い相手を内密に調べることに、手抜かりなどない。3人目の子供が産まれる前に、既に目星は付けていた。


 この頃、兵部少輔は目付の職を勤め上げ、新たに御書院番頭の役目に就いている。

 番方、いわゆる武官の家柄にとっては、将軍の親衛隊と言える番役に就くのは本筋と言えるが、その中でも御小姓組、御書院番の2つは俗に「両番」と呼ばれ番役の中でも一際家柄の良い者のみが選ばれる役である。


 番頭というのは、その中で最も格の高い役職、指揮官の役目である。家柄の良さと、将軍警護にあたり求められる強さが比例するのか?という問いについては大いに議論の余地があるが、少なくとも兵部少輔に限っては、若年とはいえこの役目に就くことに周囲の反対はまったくと言ってよいほど無かった。

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