【英雄育成】

「……この時を狙っていたんだね、シト」


 教会の様子の一部始終は、遠隔視の法術で把握している。

 積み上げられた計画を横から突き崩す展開に、レイは些かの狼狽えもなく、むしろ嬉しげな微笑みを浮かべてすらいた。


「きみには直接攻撃型の札しか残っていない――ぼくの計画に割り込むとしたら、そうするよね」


 Cチートスキル【正体秘匿アンノウン】は、現在の身分を好きなように偽装し、それを周囲に信じさせることができる。ファルア教の高位聖職者達の危機をラダム教の騎士が救えば、それが両教団和解の大きな契機になり得るとシトは考えたはずだ。


「だけどきみは、ぼくの名前を出すしかない。ラダム教は救援の指示など出していないから。ぼくからラダム教への救援要請があったように既成事実を作って……ぼくが自分自身の手で、二つの教団の間を取り持たざるを得ないように仕向けているのか。ふふふふふふふふ……」


 ――既に盤石無比の勢力を築いているレイが、この駆け引きに乗る理由などない。


 【悪役令嬢ネガ・フェアレディ】によって序盤のアドバンテージを失ったとはいえ、婚約破棄イベントの後も【超絶成長ハイパーグロウス】と【全種適正オールマイティ】の組み合わせによる成長は続いている。シトは弛まぬ鍛錬で、『呪われし者』を一掃できる程度の戦闘力をこの終盤で得たのだろう。それだけだ。


「エリス。通話法術でアリシアを呼んで。あの黒騎士を始末させよう」


 その戦闘の領分ですら、純岡すみおかシトに勝ち目は残っていない。

 レイには、幼少時から【英雄育成トップブリーダー】で育て上げた護衛がいる。成長ボーナスの獲得期間の差が、この終盤では歴然とした大差となって現れる。

 【不朽不滅エバーグリーン】を持つレイは直接暗殺から身を守る必要なく、最強の戦力を自在に動かすことができた。


「そ、それがッ……返事がありません!」

「……なんだって?」

「その、アリシアが……私はさっきから通話法術を使っているのですが……黙ったままで……!」

「――アリシアが!?」


 レイは、あり得る可能性について思考した。

 全てを無力化されたシトにも、一本だけCチートメモリが残されている。


(【超絶交渉ハイパーコミュ】での調略。……違う。アリシアが不審な動きをしていたら気付けたはずだし、ぼくだって裏切り封じの【超絶交渉ハイパーコミュ】を持ってる。【後付設定サプライズ】。それでアリシアを倒せても、その後がない。【無敵軍団ネームドフォース】や【英雄育成トップブリーダー】……これなら【悪役令嬢ネガ・フェアレディ】の影響下でも戦力を育てられる……でも、どうやって隠した? 【正体秘匿アンノウン】の効果は自分自身にしか及ばない! アリシアを倒せるくらいの戦力がこの世界にいるなら、ぼくに隠し通したままではいられなかったはず……!)


 レイは、この世界のほぼ全ての情報と戦力を掌握している。状況を覆せるものはCチートスキルだけだ。

 ならば純岡すみおかシトは何をしているのか? どのようにして黒木田くろきだレイの仕掛けた封殺から逃れたのか?


「……ああ」


 レイは椅子の上で背を丸めて、両腕の間に顔を伏せた。


「レイ様……」

「ああ……ああ。それでこそシトだ……! そうでなければ……強いきみじゃなければ、勝つ意味なんてない! シト……! ぼくはやっと、きみと戦っている。きみが、本当のぼくだけを見ている……!」


 黒騎士が通り抜けるたびに『呪われし者』は粉々に飛び散り、黒雲の軍勢がたった一条の稲妻に引き裂かれるかのようだ。獅子奮迅の活躍が法術越しに見える。


「レイ様……黒騎士がたった一人で『呪われし者』を全滅させて……! こ、このままだと、教会から貧民街を抜けて、この屋敷に来るのでは……!」

「……みんな、先に逃げて。彼とは、ぼくが一人で話をする」

「レイ様!」

「大丈夫。ぼくは死んだりしないさ。きみたちが傷ついてしまうより、そっちの方がずっといい」


 形の良い唇の両端を上げて、レイは微笑んだ。今の彼女は、かつてとは違う。


 絶対の自信と余裕がある。

 心の赴くままに振る舞って、そして勝利できる天才であるように。


――――――――――――――――――――――――――――――


「よく来たね」


 この世界でかつて会った日の再現のように、黒騎士とレイは一対一で対峙した。

 【不朽不滅エバーグリーン】で攻撃から守られているとはいえ、この騎士の実力ならば、レイを傷つけずに拉致拘束することもできるだろう――しかしこの世界で絶対の地位を築き上げたレイに対して、それはIP的な自殺行為だ。内政型による社会貢献の強みはそこにある。


「シトを連れてこなくてよかったの?」

「そうしている。俺が純岡すみおかシトだ」

「……ふふふ。それは嘘だよ」


 シト本人では、あれだけの戦闘能力は発揮できないはずだ。婚約破棄時点からの【超絶成長ハイパーグロウス】では、経験点を稼ぐだけの時間が絶対的に足りない。婚約破棄以前から他の誰かを成長させることのできる、【英雄育成トップブリーダー】以外にあり得ないのだ。


 故に、この黒騎士はシトではないとレイは判断している。

 今も別行動を取っていて、これとは別のアプローチでレイの作戦に干渉してくる。

 既に彼の作戦は始まっていて、この黒騎士すらも時間稼ぎの陽動なのであろうか。


「たった一人で、五分もかからず、あの軍勢を全滅させるなんて……【英雄育成トップブリーダー】で育てたぼくの護衛にだってできることじゃない。どんな裏技を使ったんだい?」

「……【英雄育成トップブリーダー】だ」

「やっぱり。それがシトのシークレットだったんだね」


 シトのデッキ構成は、【超絶成長ハイパーグロウス】【正体秘匿アンノウン】【全種適正オールマイティ】【英雄育成トップブリーダー】。内政でレイに対抗することなく、直接戦闘に全てを傾けた。

 【悪役令嬢ネガ・フェアレディ】に対して絶対不利の札で、彼女に勝負を挑んできたのだと。


「違う」


 黒い甲冑の奥底から、謎めいた暗闇がレイを見つめている。

 正体の判然としない声色であった。


「俺が使ったのは英雄育成トップブリーダー】だ」


 黒騎士が兜を脱ぐと、美しい青髪が中から溢れた。

 ……黒木田くろきだレイにとって、あまりにも見知った髪の色だった。


「……アリシア……!」


――――――――――――――――――――――――――――――


「なんで……」


 星原ほしはらサキは、異常な事態を分析しようとした。

 何が起こっているのか。どのようなCチートメモリがそれを可能とするのか。


「まさか【正体秘匿アンノウン】でアリシアの姿に……いや、【正体秘匿アンノウン】は元々いる誰かの姿には化けられないはず……!? 何が起こってるの!?」

「いいところに気付きやがったな星原ほしはら。そうだ……つまりあれが【正体秘匿アンノウン】を使ってねえ、純岡すみおかの真の姿ッてことになる! 画面に黒木田くろきだのイベントしか映らねえのも当然だ……! 純岡すみおかは、最初から黒木田くろきだと一緒に行動してたんだからな!」

「つまり、【英雄育成トップブリーダー】の対象は、最初から――」


 【悪役令嬢ネガ・フェアレディ】の効果は、試合序盤でのIP取得機会を奪った。その機会喪失を補うほどの倍率で、シトの戦闘能力が成長し続けていたのだとすれば。


 ドライブリンカーは、同種のCチートメモリを重ねて読み込むことはない。【超絶成長ハイパーグロウス】に【超絶成長ハイパーグロウス】の倍率を乗算するような事態は通常は起こり得ない。

 だが、完全な不可能ではないのだ――自分自身が【超絶成長ハイパーグロウス】を使用した上で、英雄育成トップブリーダー】の対象となっていた場合。


「シトが最初からそうしてたなら……あの強さだって、むしろ当たり前だ……! 【超絶成長ハイパーグロウス】一本でも世界最強になれるってのに、あいつは二本分のCチートメモリでそうしていたんだッ! IP獲得計算が17年目からだったとしても、余裕で間に合う成長速度だったはずだぜ!」

「わ、分からないよ……! いつから!? 黒木田くろきださんは気付かないままアリシアを育ててたの!? そもそも、こんなに姿が変わっちゃう転生ドライブなんて……」

「……いいや。あるんだよ、星原ほしはら


 大葉おおばルドウが答える。【正体秘匿アンノウン】が発動している中でも、観客の視点からはIP変動や発生イベントを見ることができる。

 転生ドライブ中の黒木田くろきだレイの視点からは分からないのも無理はない。彼女も観客としてならば、表示の不自然さでシトのシークレットに気付くことができただろう。


「そいつは……たとえば黒木田くろきだが使っても、そういうことにはならねェ。外江とのえや、星原ほしはら……テメーが使っても、見た目まで変える効果はねえ……それでも、星原ほしはら。スキルの効果としてある以上、記述されていることは絶対に起こる! 絶対にな! そいつがCチートメモリのルールだ!」

「待って、どういうこと……!? 人によって効果が違うなんて、そんなCチートメモリがあるわけ!?」

「俺が今言った奴らの共通点が分かるか」


 異世界における転生体アバターは原則として転生者ドライバーと酷似した容姿と名前を持ち、異世界転生エグゾドライブを見る者はそれを当然の前提として受容している。

 だが……たとえば、【人外転生クリーチャー・エボルブ】がそうであったように、その原則を破るメモリは存在する。Dダークメモリですらない、一般に流通するCチートメモリにおいても。


「――『女』ってことだ!! 純岡すみおかは、正体のを仕掛けやがった!!」


――――――――――――――――――――――――――――――


「そ、そんな……嘘……最初からアリシアの振りをして……!? 違う……そんな、そんなはずはない……」


 黒木田くろきだレイも、刹那の思考を総動員して、あり得ない事態を飲み込もうとした。


「だって、アリシアはちゃんと身元も分かってる……ぼくは、だから、婚約破棄の前からの使用人に【英雄育成トップブリーダー】を……エクスレン家の、ぼく付きの使用人に……」


 かつての自分自身の言葉を思い返している。

 ――エクスレン家に仕える家柄である以上は、帰るべき、相応しい身分の家があるはずだ。


「シト……!」


 だからこそ、シトはあのタイミングで奇襲を仕掛け、そして失敗したのだ。

 レイ自身にシトの正体を看破させることで、身元の定かではない者がシトの【正体秘匿アンノウン】であると、先入観を固定するために。直接攻撃ダイレクトアタック以外の切札が残っていない、手詰まりの状態だと誤認させるために、あえて攻撃を。


 アリシアがレイに差し出した腕には、ドライブリンカーがある。

 紛れもない、この世界における転生者ドライバーの証が。


「……あの直接攻撃ダイレクトアタックの時点で俺が危惧していた可能性は二つ。貴様のシークレットに【絶対探知フラグサーチ】があり、別の手段で暗殺を阻止してくる可能性。そして、反撃を受けた際に戦力の程を露呈してしまう可能性。俺がアリシアであると看破されない保証が、あの時点で欲しかった」

「ぼ、ぼくは……アリシア。一番戦闘スキルの適性がある一人を、【英雄育成トップブリーダー】の対象に……」

「【正体秘匿アンノウン】ならば、直接視認した際のステータス表示を欺くことができる」

「……【全種適正オールマイティ】を、そのために使ったのか……。ぼくがどんな方向でスキルを育成したとしても、【全種適正オールマイティ】なら……全部のスキルツリーを伸ばせるから……」


 大胆で、先入観を覆し、そして敵の裏をかく、異世界転生エグゾドライブの申し子。


 アリシアは……純岡すみおかシトは今、シークレットを明らかにする。

 レイが何よりも見慣れたCチートメモリを。

 上流階級の令嬢に転生する。元の性別がどちらであっても、それが起こる。


「――【令嬢転生マイ・フェアレディ】」


――――――――――――――――――――――――――――――


純岡すみおかシト IP228,234,578 冒険者ランクA


オープンスロット:【超絶成長ハイパーグロウス】【正体秘匿アンノウン】【全種適正オールマイティ

シークレットスロット:【令嬢転生マイ・フェアレディ

保有スキル:〈旋死短剣SSSS+〉〈無影の理SSS+〉〈戦術糸SSS〉〈ファルア法術SS〉〈不死なる種子SSS〉〈殺滅六重SS〉〈自動迎撃SSS〉〈分身SS〉〈瞬間退場SSS〉〈完全追跡SS〉〈影同化SS〉〈礼儀作法A〉〈完全言語B〉〈完全鑑定C〉〈掃除B〉〈調理A〉〈庭師B〉〈絶止の盾SSS〉〈姫の介添SSS〉他46種



黒木田くろきだレイ IP636,198,629 冒険者ランクS


オープンスロット:【悪役令嬢ネガ・フェアレディ】【超絶交渉ハイパーコミュ】【英雄育成トップブリーダー

シークレットスロット:【不朽不滅エバーグリーン

保有スキル:〈政治交渉SS+〉〈籠絡SS+〉〈礼儀作法SS〉〈宗教指導A〉〈大扇動SS〉〈軍勢指揮A〉〈美貌の所作SS〉〈完全言語S〉〈完全鑑定A〉〈カリスマA+〉〈農業A+〉〈公共事業S〉〈ファルア法術A〉他29種


――――――――――――――――――――――――――――――


「【令嬢転生マイ・フェアレディ】の効果で令嬢に生まれ変わった……だから女の子に……で、でも、そんな……! そんなめちゃくちゃな戦術、読めるはずがない! だっていくら家柄があっても、敵対する教団の家に生まれたかもしれない! 違う国の貴族かもしれない! 都合よく黒木田くろきださんの使用人になれたはずがないもの……!」

「そうだな……実際、アリシアの生まれは黒木田くろきだの国の大陸のほぼ反対側だったはずだぜ……! シトは……そういうギャンブルに勝ったってことかよ……!」


 星原ほしはらサキとつるぎタツヤの会話を、ルドウは苦々しい表情で聞き流している。

 当初からこのような戦いを予定していたわけではなかったはずだ。シトのオープンスロットは、三種全てが直接戦闘型。【正体秘匿アンノウン】でプレッシャーを掛け、内政型を用いるであろうレイのシークレットを【不朽不滅エバーグリーン】に導くことで不確定要素を潰し、堅実に戦えるデッキであっただろう。


 故にあの黒木田くろきだレイすら、このような無謀を読み切ることはできなかった。


(――できたんだよ。純岡すみおかには)


 この試合が始まる直前に、純岡すみおかシトはそのCチートメモリの存在を認識している。無論、大葉おおばルドウはそれを知っている。

 彼はその知識を、すぐさまこの転生ドライブに応用してみせた。


(俺達には【基本設定ベーシック】がある。【悪役令嬢ネガ・フェアレディ】にイベントを封じられて、IPが獲得できない間だったとしても……。それだけで何にだってなれるし、同時に自分のままでいられる、最強のCチートスキル――)


 この広い世界から、レイが転生体アバターである令嬢を特定し、あらゆる能力をつぎ込んで……人生の全てを投げ打ってでも、彼女の従者として。


(何のサポートもない状態から17年の年月を使って……それをやったんだ……!)


 黒木田くろきだレイの【悪役令嬢ネガ・フェアレディ】がなければ、あり得なかった戦術のはずだ。

 他の転生ドライブで同じことを仕掛けたとしても、対戦相手の従者として潜り込む努力を行う間、敵はIPを稼ぎ続けることができる。自分自身の戦術を実行するほうが、余程効率的だ。故に、あり得ない。


 ――両者ともにIP獲得が凍結している、このような状況下でもなければ。


「問題は……問題は、純岡すみおかが何をしたかじゃねえ」


 ルドウは低く呟く。だからこそ、不可解なのだ。

 幾重もの研鑽と綱渡りの末、シトはここまで辿り着いた。不利ではあっても堅実な戦い方を捨てて、容易ではない戦術に舵を切った。


「……勝てるはずがねえんだ。そんなことをしても」


 何故、そうしたのか。


――――――――――――――――――――――――――――――


「わ、わからないよ……」


 異世界のレイも、同じ困惑とともに呟いた。


「アリシアが……アリシアの正体がきみだったからって、何になるっていうんだ!? きみはぼくの従者じゃないか!? きみがどれだけIPを獲得したって、いくらでも、ぼくの功績にしてしまえる! こ……ここからの逆転は、不可能だ!」

「……そうだな。俺は勝てない」


 シトは正直に告白した。

 かつてのシトであったなら、それを認めることは容易くはなかっただろう。

 【悪役令嬢ネガ・フェアレディ】は圧倒的なDダークメモリだった。この奇策を以てしても覆しきれなかったほどに。


「だが、それでも……貴様は人を殺していない」

「え……」

「いざという時には、俺がこの手で止めなければならないと……直接戦闘では勝てないと宣言された時に、最初に考えたことはそれだ。その迷いが……この【令嬢転生マイ・フェアレディ】を手に取らせた。直接攻撃ダイレクトアタックを隠れ蓑にした二重偽装だけではない。少しでも貴様に近い立場に転生ドライブするために……」

「違う……ぼく、ぼくは……アンチクトンの人造転生者ドライバーだ……!」

「アンチクトンとして、虐殺を仕掛けるタイミングはこれまで何度もあった! だが貴様は……この決着の盤面までそうすることはなかった! 何故だ!?」


 アリシアの手が、レイの指先を強く引いた。

 華奢な令嬢は従者の力に逆らうことができず、腰掛けていた椅子から立たされた。


「それ、それは……きみのせいじゃないか……! きみにはもう、何も打つ手がないって思ったから……だから、殺さなくても……手を汚さなくても、勝てるかもしれないって……ああ……」


 ――それが、シトの直接攻撃ダイレクトアタックのもう一つの意味であったとしたら。

 見えている全てのCチートメモリが無力であることを知らせて、と思わせたかったのなら。


「貴様は……誰も殺してはいない。暗殺を指示された要人は、俺が保護した。ファルア教の者にもラダム教の者にも、貴様が助けを寄越したと。俺は……俺は、君に人を傷つける異世界転生エグゾドライブをしてほしくはなかった」

「……っ……!」


 静かだ。涙に滲むレイの視界には、アリシアの姿をしたシトだけがいる。


 屋敷の外には、雨音が響いている。そして人々の声が。

 彼らは生き残ったのだ。シトが助けたから。本来ならば、滅びを前にしたファルア教の要人の前に姿を現し、罪を糾弾して……そうして、【悪役令嬢ネガ・フェアレディ】であるレイが、IPを手に入れるはずだった。


「きみに……!」


 優しい異世界転生エグゾドライブなど、するつもりはなかった。

 情を捨てて、今こそ純岡すみおかシトに勝てるはずだった。そうだというのに。


「……きみに、ぼくの何が分かるんだ、シト! 本当のぼくの、何が分かる! きみがめちゃくちゃにしてしまったのに! ぼくも……ぼく自身にだって、ぼくが分からないのに!!」

「ああ、わからない!」


 腕を掴んで、シトはレイを強く抱き寄せた。彼は……彼女は、間近で言った。

 澄んだ氷のような瞳。虹彩の奥底には、純岡すみおかシトの面影がある。


 ――何故、今になるまでそれに気づけなかったのだろう。


「俺は、優しさを持つ黒木田くろきだレイが好きだ! だが、それは俺から見た君だ……! ……君が悪でありたいと願うのなら、その願いも含めて君であるかもしれない! 黒木田くろきだ……! それは、俺が決めつけられるものではない! 君以外の、誰にも! だから、この異世界転生エグゾドライブは……!」


 人々の声が聞こえる。悪役であるレイを、彼らは糾弾しているのではない。


決めてもらうことにした!」


 シトの言葉の意味が、レイにも分かった。


 彼らは感謝している。

 黒木田くろきだレイこそが全てを仕組んだ悪役であるのに……命を救われたことを、ラダム教との架け橋となってくれたことを、何も知らずに感謝している。


「俺の為した功績は、君自身の指示だったと告げることができる! 黒木田くろきだ……! 俺には確実な逆転の手段など、何もなかった! 血を流すことのない世界救世を望むのならば、君が今、勝つことができる! だが……だが、黒木田くろきだ! 君がもしも真に悪を望むのなら……それを貫き通して、敗北したっていい!」

「ぼく……ああ、違う……ぼくは……! シト……違うんだ……」


 世界を滅ぼしたくはなかった。シトに勝つために、悪にだって手を染めたかった。

 本当の自分になりたかったが、レイにとって、どちらが本当だったのだろう。何もかもがぐしゃぐしゃになって、涙となって溢れ出ていくようであった。


「レイ様!」

「これで、ようやく戦いが終わります……! ありがとうございます! レイ様!」

「叡智の聖女に祝福あれ!」

「すまなかった! 君は素晴らしい女性だった!」

「あなたこそが、本当の救世主でした! レイ様!」


 ――勝てる。

 黒木田くろきだレイはようやく、望んだ執着を断ち切ることができる。


 彼らの前に出て、全ては自分の功績だと告げるだけで。

 純岡すみおかシトに、勝てるのだ。


「……あ、あああああ……!」


 シトに体を預けて、すがりつくように、レイは泣いていた。

 彼は静かに令嬢の背を撫でて、アリシアとしての言葉を告げた。


「……。ずっと……貴女のことを見守ってまいりました。レイ様」


 異世界には、時折このような言動をする者がいる。転生者ドライバーの本来の人生を知る由もないのに、【基本設定ベーシック】で制御されているに過ぎない転生体アバターの人格を見て、彼女らを理解したつもりでいる。

 ……けれど彼らは人間なのだ。


 一人ひとりに意思があって、彼らの人生を生きている。

 紛れもない、人間。


「そうじゃない。ぼくは、ぼくはそうじゃないのに……!」

「いいえ。救われる者にとって……この世界の誰もにとって、貴女はそうなのです。貴女は……とてもお優しくて、聡明な。私達の主。お慕いしております。レイ様」


 黒木田くろきだレイは、ドライブリンカーの降参サレンダーボタンを押した。

 自分自身の善悪を自ら決めてしまうことに、耐えることができなかった。



 WRA異世界全日本大会第二回戦。

 世界脅威レギュレーション『宗教対立A』。


 攻略タイムは、25年1ヶ月15日1時間4分33秒。


――――――――――――――――――――――――――――――


「……ひどいよ」


 現実に戻るや否や胸に飛び込んだ華奢な体を、シトは何も言わずに受け止めた。レイは何度も彼を責めた。異世界でもそうだったように、彼の胸に表情を隠して。


「ひどいよ。ひどいよ。ひどいよ……ひどいよ、シト……」

「……すまない。俺には……君の苦しみを解くことができないのだろう」

「分かってるよ……そんなの……ああ……」


 千々に乱れてしまったレイの心は、決して元通りになることはないのだろう。

 こんな苦しみを味わうことのない自分でいたかった。心の鎖から解き放たれて、自由に、心の赴くままに異世界転生エグゾドライブを戦っていられる自分でいたかった。


 ――純岡すみおかシトに恋することのない自分でいたかった。


黒木田くろきだ……お、俺は……こんな……こんなところで言うことでは、ないかもしれない……だが……」


 シトはその言葉を告げるために、極度の努力を要しているようであった。


「……善でも悪でも、どちらでもいい。君が好きだ。黒木田くろきだレイ」

「ひどいよ……シト……本当に、ひどいよ……」


 嬉しいなどと思いたくないのに。

 天才で美少女で、転生者ドライバーでなければならないのに。

 シトを抱きしめたまま、彼の目を見た。観客の喧騒も、決着を告げる司会の声も、何も聞こえなかった。シトの鼓動だけが聞こえていた。

 彼がレイの全てを奪ってしまったから。


 だから、次の一つを奪わせた。


「…………っ……!!??」

「……ふ、ふふふ。悪いぼくでも、かまわないんだよね……?」


 重ねた唇を離しながら、レイは精一杯邪悪に微笑んでみせた。

 暖かな涙が頬を伝って落ちるのが分かった。


 少しでも長く。愛する一人とともに。

 ……だがその時間も、いずれ終わりを告げる。


「――やはり君は失敗作だったな! 黒木田くろきだレイ!」


 純岡すみおかシトは、反射的にレイを守るようにその体を引き寄せた。


 絶大な身体能力で彼女の背後に飛び降りた影は、鬼束おにづかテンマ。

 そして彼の腕に抱えられた小柄な老人、ドクター日下部くさかべである。


「アンチクトン……! 彼女に手出しをするなら……俺も容赦はしない!」

「……ククククク! 早まるな……! 用があるのは君だ、黒木田くろきだレイ!」


 ドクター日下部くさかべは心底愉快そうに笑った。

 片眼鏡からの視線を受けて、レイは端正な顔を悲痛に歪めた。

 そうだ。彼女は、アンチクトンの任務を果たすことができなかった。


「ああ、ドクター……」

「……知っているだろう、黒木田くろきだレイ。罪悪を感ずることのない人造転生者ドライバー異世界転生エグゾドライブの脅威から世界を救うためだけの兵器が、君の本質だ! だが、まさか……! ク、クククククク!!」

「……ご、ごめんなさい、ドクター……」

「何を謝ることがある!! もう一度言うぞ! 君は失敗作なのだ!!」

「貴様……ドクター日下部くさかべ!」

「いいか黒木田くろきだレイ! 単一のイデオロギーや正義で動くことなく、時に善を、時に悪を為し! 思考も行動も、状況に伴い相互に矛盾する! それはもはや兵器ではない!! そのようなものを、我々は兵器として運用できない!!」


 シトの存在を意に介することもなく、ドクター日下部くさかべは喜々として続けた。

 両手を広げ、まるで祝福を告げるかのように。


「君は立派な人間のだ! まさか兵器を作るべくして、人間を作り出すことになってしまうとはな!! 実験の結果とは、かくも予想できぬものよ! ククククク!! クハハハハハハハ!!!」

「ドクター……」

「ククハハハハハハハハハハ!!!」


 ひとしきり哄笑を響かせた後で、老人は踵を返した。


純岡すみおかシト。君には感謝するぞ。これからの彼女を、君が生かすのだ。情熱。対抗心。尊敬。嫉妬。劣等感。愛。黒木田くろきだレイは……君が真に心を与えた人間だ」

「……ドクター日下部くさかべ。貴様は……」

「クククク! ……まさか、私の善悪でも問いたいのか? 不定だ。どちらであろうと、我が子の幸せを喜ばん親はおるまい!」


 去っていく白衣を見送りながら、シトは立ちすくんだままでいる。

 ――アンチクトン。黒木田くろきだレイもまた、アンチクトンであった。シトと相容れぬ敵であり……しかし、滅ぼすべき邪悪であるのか。

 シトにとっての、その敵の象徴である男が今この場にいる。


「開会式での発言は撤回しよう。君は『捨てる』ことのできる転生者ドライバーだった。信念のために……自らの確実な勝利すらも。それは紛れもない強さだ」

「……鬼束おにづかテンマ」


 黒衣の巨漢は腕を組んだまま、一つの壁のように立ちはだかっている。


「だが、私は黒木田くろきだレイとは違うぞ。純岡すみおかシト。世界を滅ぼすことに、私は一片の迷いもない。私は、アンチクトンの一つの兵器だ」

「次の対戦相手は」


 テンマは、既に第二回戦の勝利を収めている。

 共にトーナメントの道筋を進める先は、異世界全日本大会、準決勝。


「――貴様か」

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