vsニャルゾウィグジイィ
【令嬢転生】
「シト。
その言葉に、大きく頷いたように思う。
頭を撫でる大きな手。父と、父の教えてくれた
「……そうだな。もしかしたら、それが一番正しいことなのかもしれない」
父は微笑んで、独り言のように呟いている。
その言葉の意味も、もう永遠に分からないままになってしまった。
「シト。お前はいつでも、
幼い手にその
尊敬する……最強の
「お前は、父さんの未来だ。だから、いつかその日が来た時には、その最初の心のままに――何が正しいのか、誰と戦うべきなのか。きっと、お前自身の心で決断するんだ。覚えていてくれ。それが父さんがシトに託す……
行かないで、と叫んでいる。曖昧な光景は溶けて、やがて二つの光が現れる。
その光はシトと父とを隔てて、永遠の別離に断絶してしまう。
それは、ひどく見慣れた光。――トラックのヘッドライト。
巨大な5tトラックが迫る転生レーン。
シトの手は届くことなく、父は光に消えていく。
…………
――――――――――――――――――――――――――――――
「夢か」
寝間着は汗に濡れている。父が残したこの家は、シト一人には広すぎた。
「この
WRA異世界全日本大会関東地区予選トーナメント、準優勝。
かつて敗北した
十分な成績であったはずだ。全日本大会出場を切望し、それすら叶わなかった
だが、完璧を自らに課し、そして勝ち続けてきた
(全日本大会まで、残り二ヶ月。休んではいられん……)
彼が、普通の学生のように日曜の自由を楽しむことは久しくなかった。
時刻は7時30分。朝の鳥が鳴く中、シリアルと野菜のみの簡素な朝食を済ませる。
父が失踪したあの日から……テレビも、テニスボールも、ピアノも、年月を経るごとに消えていった。
室内は白く几帳面に整頓され、父の形見である
その筐体の前に立ち、入念に準備運動を行う。
少なくとも
「今日は【
トラックを模した轢殺ブロックを前にして、その日の訓練メニューを思案していた頃である。
玄関のチャイムが鳴り響いた。
朝も早い。このような時間に宅配や来客の覚えもないが。
「……?」
やや訝りつつもドアを開けると、そこには見知った顔があった。
首の辺りで二つ結びにした黒髪。切れ長の目。
「――や、シト。存外に元気そうじゃないか」
「
同じ
白いレースのワンピースと、その上に羽織った濃い紺色のベスト。そして、肩に斜めにかけたベージュ色の小さなバッグ……
「……これから町にでも行くのか?」
「うーん……きみらしい反応だね。もうちょっと驚かないのかい」
「住所は
「そういうところだぞ。きみを誘いに来たに決まってるじゃないか」
「俺を?」
「そ」
閉じた唇の両端を吊り上げるように微笑む。
いつもそうしているような、真意を悟らせない笑みだ。
両腕を腰の後ろに組んだままで、彼女は首を傾げた。
「……
「そういうことか。助かる」
シトは頭を下げた。
普段のシトでは滅多に示さないような、素直な謝意である。
きっとレイの言うとおりに、知らず心が追い詰められていたのだろう。他の誰かに指摘されて初めて気が付くのは、
「
「もちろんだとも。代わりに、ぼくの用事にも付き合ってくれるかい?」
「安い用だ。どこに行く」
「うーん……そうだね。どうしよう」
形のよい唇に人差し指を当てて、少女は悪戯っぽく笑った。
「映画館かな?」
――――――――――――――――――――――――――――――
「ああ、楽しかったね! シトはどうだい? 男の子はああいうアクションものの方が好みなんだろう?」
「俺はどちらかといえば、恋愛映画のほうをよく見る」
「えっ」
「――だが、悪くはなかった。あの手の作品は娯楽としてもそうだが、
「そ……そうか。ふふ。楽しんでもらえたようで、よかった」
映画館の向かいにある喫茶店で、二人はごく軽い昼食を取った。
食事の間にも、
「さて。じゃあ、そろそろ
「……? 用事はこれで終わりか?」
「え……」
「貴様の用を優先した方がいい。俺は
「でも、ぼくは映画も見て……食事もしたから、ええと」
一転して余裕を失い、レイは指を折って何かを思案しはじめた。
シトは訝った。
「……ふ、服を……買おうかな……?」
「いいだろう」
代金を支払い、ショッピングモール沿いのアパレル店へと向かう。
レイは足を早めて、シトと横並びに歩いた。
「どの店にする? 悪いが、俺にアドバイスは期待しないでくれ。異世界であれば服飾スキルで作成もできるだろうが……」
「ふふ。筋金入りの
「……フ。確かに。あまりこういった思考は良くはないな……」
「最初にぼくと戦った時のことを覚えているかい?」
レイは、シトともタツヤとも通う学校が違う。
最初の出会いは、このモール沿いのデパートのゲームコーナーだった。圧倒的な強さに対戦相手もいなくなった少女の相手に名乗りを上げたシトは、その一戦で彼女の連勝記録を止めた。
彼女の【
「――あれが初めてだったんだよ? シト以外には、負けたことなかったんだ」
「少なくともあの時の試合は、紙一重の差だった。俺も、中学生異世界選手権大会の優勝者とゲームコーナーで出会うとは思っていなかったからな」
「そ。天才美少女中学生
胸に手を当てていつもの名乗りを上げた後で、レイは眉根を下げた。
どこか、脈絡のない不安に襲われたようであった。
「……。ねえシト。ぼく、美少女だよね? どう?」
「美少……!? い、いや。十分、可愛らしいと思う。貴様ならば、異世界の連中にも引けを取らないだろう」
「あ、また言った。『貴様』じゃないだろう」
レイはシトの片袖を引き、細い肩を寄せてくる。
「せめて『君』とか『レイ』とか……せっかくの美少女とのデートなんだから。その辺、気を使ってほしいな」
「デー……ト……!?」
驚愕に目を見開いたのは、シトであった。
……確かに、ある。異世界の攻略過程においては、無数に体験している。
だがそれでも、
「デート……デート、だったのか、これは……!」
「あ」
あらためて、シトは
男子とははっきり異なる、すらりとした肢体。長い睫毛に覆われた、やや細めの眼。耳にかかる数筋の黒髪。肩の体温が伝わってくる。
「そう、そうか……悪かった。すまない……情けない……」
「い、いや!? 別に、今のは言葉のあやというか、た、確かに……まったく大したものじゃなかったかもしれないな!? もちろん、ぼくは最初からきみの
「お、俺は……確かに、
「そんなこと言われたら、ぼくだって……き、気にしないで。やっぱり、ゲームコーナーに行こう。ね?」
「……ああ」
関係が変わってしまうことへの気まずさが、二人の間には流れていた。
同じ道を求道する
仮に――異世界において二十年の人生を送ったとしても、人はそれで二十年分を老成するだろうか。
壮絶な
彼らは何度でも人生をやり直すが、
「だが、貴さ……君の服を買う用事は……」
シトがそう口を開いた時、レイは道の傍らに目を留めた。
年の頃は小学生くらいだろう。子供が座り込んで、泣きじゃくっている。
レイは小走りで彼の元に駆け寄り、目線を合わせて尋ねた。
優しい、柔らかな口調だった。
「きみ、どうしたんだい? 迷子かな?」
「うっ……ううう……」
「――ふふ。きみは運がいいよ。こう見えても、お姉さんは天才美少女
「……」
彼女は道を歩むどの通行人よりも早く、道端で泣く少年に気づいた。
もし気づいたとしても、シトでは声をかけることもできなかっただろう。
喫茶店で、シトの他愛ない相談を文句一つ言わずに聞き続けていた姿を、シトは思い返している。
彼女の後を追うようにして、子供に駆け寄った。
「俺も、
「……シト」
「変な、
「
「うん、うう……異世界が、そいつのせいで、ボロボロになって……ぼく、ぼくは、救いたかったのに……!」
「……っ!?」
「……」
二人の表情が、同時に強張る。
異常な
……心当たりがあった。あの予選トーナメントを見たものならば、誰でも。
シトは、子供の背後の建物を見上げている。
それはまさしく、かつてレイと出会った地。市内中央デパート。
「このゲームコーナーに、それがいるということだな」
もしそうであれば、逃げる訳にはいかない。
レイは微笑んで、子供の頭を撫でた。
「大丈夫だよ。このお兄さんは、とっても強いんだ。もしも悪い
「ほんと……?」
「立てるかい? 一緒に見に行こうか」
正体定かならぬ敵。五階ゲームコーナー付近を見上げながら、シトは低く呟いた。
「……行こう。
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