無限にある可能性の中から

 郊外を走るバスは本数も少なく、バスが来たのはそれから30分以上経ってのことだった。秋の日は落ちるのが早く、バスが住宅地に入る頃には、日もすっかり暮れてしまっていた。

 休日のバスは、夕方にも係わらずあまり人は乗っていなく、雪乃たち以外の乗客は数えるくらいしかいなかった。二人はバス後方の二人席に並んで座っていた。先に下りる雪乃は通路側、冬哉は奥の窓側。


 冬哉は窓から暗くなった町をただ眺めていた。バス停から先、冬哉はなぜか黙りこくったままだった。動物園にいた時とは、あまりにも違っている冬哉の様子に、雪乃は戸惑ってはいた。一体どうしてそうなったのか、何が良くない事でもあったのか、雪乃は尋ねたかったが、周りを一切寄せ付けない様子の冬哉に、話のきっかけすらつかめず、雪乃も黙り込んでしまうしかなかった。

 「次は、東光1条5丁目。東光1条5丁目。お降りの方はブザーでお知らせください。次は…」

 録音テープのアナウンスが流れるのを聞いて、雪乃は言った。

 「そろそろ、降りなきゃ」

 すると、窓の外を見たままだったが、ようやく冬哉が口を開いた。

 「次?」

 「いや、次の次…」

 バスは、「東光1条5丁目」のバス停に止まり、乗客が一人だけ降りると、すぐに走り出した。

 「今日、楽しかった、ですね…」

 このまま何も話さずに降りてしまっては、きょうの全てが台無しになってしまうような気がして、雪乃はおずおずと遠慮がちながら、冬哉に話しかけていた。

 「うん、そうだな」

 冬哉は相変わらず窓の外を見たまま答えた。

 「また、行きたい、ですね…」

 「うん…」

 気のない返事に、雪乃は少し落胆していた。自分としては、勇気を振り絞ってまた行きたいといったつもりだったのに…。

 そのとき、ピンポンとチャイムがなり車内アナウンスが始まった。

 「次は、東光1条5丁目。東光1条5丁目。お降りの方はブザーでお知らせください。次は…」

 そのアナウンスは、さっき止まったはずのバス停を案内するものだった。

 「あれっ?さっき止まった…」

 しかし、バスは本当に再び「東光1条5丁目」のバス停に止まった。そして今度は誰も降りずにそのままバスが動き出した。

 「やだな、疲れてるのかな…」

 冬哉は相変わらず黙って窓を見ていた。

 (そう言えば…)

 雪乃は、ここ数日起こった不思議な事を思い出していた。街中の雪虫。ワープする猫。他にも細かい事は沢山あった。自分の部屋でもしまっておいたはずのものが、全然別のところから出てきたり、買ったはずのものが無くなっていたり(そのときは買った事自体なかったかのように、払ったはずのお金まで財布に戻っていた)、デジュヴの様なものは、このところ顕著で、一日の授業のうち何回かは必ず前にやったような気がして仕方ないのだ。それに極めつけは、教室で見た白日夢…。あれは、まるで自分が…。

 そのとき、なぜか自分の顔を見ていた冬哉と目が合った。驚いた雪乃は、

 「あ、いや…」

 と、思わず言ってしまったが、冬哉は、何事もなかったかのように、また外を見つめていた。すると、また車内アナウンスが流れた。

 「次は、東光1条3丁目。東光1条3丁目。お降りの方はブザーでお知らせください。次は…」

 「今度こそ次だ」

 そういうと雪乃は、名残惜しそうにゆっくり立ち上がった。

 「したっけ、また…」

 冬哉の様子に少し不安になった雪乃は、また会いたいという思いをこめて、別れの言葉を言った。しかし、その言葉は冬哉の聞いたことの無い言葉で、その耳慣れない言葉に冬哉は思わず聞き返した。

 「ん…、したっけ?」

 「あっ、わかんないですよね。こっちの言葉で『じゃあね』とか『またね』って意味です」

 やがて、バスは停留所へと入るべく、ゆっくりとスピードを落としていった。

 「やばい、降りなきゃ」

 雪乃が言うと、冬哉も、

 「俺も降りる」

と言って、突然立ち上がった。

 「えっ、なに」

 バスが停まり、ドアが開いた。

 「ほら、早く行かないと出ちゃうぞ」

 「え、だから、なして、えっ、えっ」

 戸惑う雪乃を冬哉は追い立てるように前に行かせ、バタバタと料金を払って、二人とも降りてしまった。二人をそこに残し、バスは走り出していった。取り残された二人を、バス停のそばにあるコンビニの灯りが、明るく照らしていた。

 「なして降りたんです?バス行っちゃったしょ」

 「大分暗くなっちゃったし、そこまで送るわ」

 戸惑う雪乃を尻目に、冬哉は雪乃の家への帰り道をすたすたと歩き出した。

 「ちょ、ちょっと待って」

 雪乃はそれを後ろから追いかけた。冬哉は振り返ることなく、まっすぐ雪乃の家へと向かっていった。大股でスタスタと歩く冬哉の足は早く、普通に歩いていてはその速度に追いつけない雪乃は、数歩後から小走りについていくしかなかった。

 暫く歩くと、雪乃の家が見えてきた。

 「と、冬哉…さん」

 少し息を切らして呼びかける雪乃の声に、冬哉は立ち止まり、そこで振り返った。

 「いや、もう、ここでいいです。ほら、すぐそこだから…」

 雪乃はそういって数軒先にある自分の家を指差した。

 「さすがに家の前はまずいしょ。誰かに見られるかもしれんし…」

 そういう雪乃の言葉に、冬哉も同意した。

 「そうか…」

 雪乃は息を整えると、名残惜しそうに言った。

 「ありがとう…。また、ですね・・」

 そして、冬哉の前を横切って、自分の家のほうへ歩き出した。

 「あの、さ」

 その後姿に向かって冬哉が声をかけた。雪乃は立ち止まり、冬哉のほうに振り返った。

 「明日は俺、夕方用事あるんだ」

 雪乃は少し首をかしげた。

 「だから、明日喫茶店には行けない」

 「そう…、ですか…」

 雪乃は明らかに落胆した表情でそう答えた。

 「でさ、明日、さっきのバス停前のコンビニで待っててくんないか?話したい事もあるし。時間は、そうだな、8時くらい。遅れるかもしれないけど、立ち読みでもして待ってて」

 それを聞いた雪乃は、恥ずかしそうに少しはにかみながら、しかし心から嬉しそうにニコリと微笑んでうなずいた。

 「うん、わかった…。じゃ、ま…」

 と、途中まで言いかけてから、

 「いや…、したっけ、また」

 少し悪戯っぽく笑って言った。そして、冬哉も少し戸惑いながら言った。

 「え、あ…。したっけ…」

 「うん、したっけ」

 雪乃はそう言うと、もう一度ニッコリ笑ってから家の方へ歩き出した。そして、数歩歩いて振り返り、後ろ向きに歩いたまま、冬哉に向かって手を振った。冬哉もそれに応えて小さく手を振った。それを見て雪乃は家のほうへと振り返り、今度は小走りに家へと向かった。

 冬哉は、雪乃が家に入るまでその姿を見送ると、ふーっと小さく溜息をついて振り返り。来た方角へと戻っていった。


 次の日。

 待ち合わせには少し時間が早かったが、雪乃は駆け足でコンビニに向かっていた。コンビニに着くと、雪乃はぐるりと中を見回したが、冬哉は来ていないようだった。時計を見ると8時にはまだ間があった。遅れるかもしれないとも言っていたし、まだ暫く時間があったので、入り口の脇の本棚にあるファッション誌を手にとり読み始めた。

 その姿を外から、少し離れた物陰に隠れじっと眺めている姿があった。冬哉だった。冬哉のいるところは、外灯の光の当たらない影になっているところで、コンビニのほうは良く見渡す事ができるが、逆にコンビニからは人が隠れていても全く分からない位置にあった。冬哉は雪乃がコンビニに入るところを確認しても、決してその場所から動こうとはしなかった。冬哉の首には、いつも巻かれているはずのあのマフラーがなかった。



 その十分程前、そのコンビニからあまり遠くない民家の中で、このような会話が交わされていた。

 「お父さん、お願いアイス買ってきて」

 その家の妻が、風呂に入っている夫に言った。

 「なんだよ、今、風呂だって」

 「だから、お風呂上がってからでいいって」

 「なんだよ、アイスって」

 「今、テレビでやってたの見たら、美和が無性に食べたいって」

 美和は中学生の娘の事である。

 「そんなの我慢させろよ」

 「あたしも、お風呂上がったら食べたいの」

 「じゃあ、お前言って来いよ」

 「私の車、修理に出しているからないの」

 「車って、近くの店だろ。歩いて行きゃいいべ」

 「バス通りのコンビニまで行かないとないの」

 「じゃあ、車貸してやるよ」

 この家では、夫が通勤用に使っているSUVと、妻が買物とかに使用している軽と2台の車を持っていた。バスぐらいしか、公共の交通機関がないこの辺では、こうゆう家も決して珍しくはない。

 「いやよ、あの車大きいんだもん。運転した事ないし」

 「大丈夫だって、軽もランクルも大した変わらんって」

 「でも、ぶつけるかもよ」

 「じゃあ、諦めろよ。第一、さっき飯のときビール飲んじゃったし」

 「え、普段家で飲まないのに」

 「今日はたまたま飲みたかったんだよ」

 流石に飲酒運転させるわけには行かない、と妻は思ったのだろう。夫を買い物に駆り出すのは諦めたようだ。

 「わかった。じゃあ、車借りるわよ」

 「鍵のあるとこ分かるべ」

 「うん、じゃあ行ってくる」

 「気をつけろよ」

 暫くしてSUVのエンジン音がして、だんだん小さくなっていった。妻がコンビニにいったようだ。

 (ま、こうまでして買いに行くって、よっぽどおいしいそうに映っていたんだろうな。そのアイス)と、夫は湯船に浸かりながら思った。

 そう、たまたまその日そのアイスが映っているテレビを見なければ、たまたま車が修理に出ていなかったら、夫が食事のときビールを飲んでいなければ、妻がなれない車で出かける事もなかっただろう。

 物事は全て偶然の重なり。これも無限にある可能性の中から選択がなされた結果。




 時刻は8時になろうとしていた。冬哉の前を大型のSUVが通り過ぎていった。そして、雪乃のいるコンビニの前に止まり、たまたま一つだけ空いていた駐車スペースにバックで止めようとしていた。それは、雪乃が立ち読みしてる棚の前にある駐車スペースだった。冬哉は、そのSUVを一瞥すると、コンビニには向かわずその場を立ち去ろうとした。

 冬哉は立ち止まり、もう一度コンビニのほうを見た。そこには、雪乃が本棚の前でファッション雑誌をじっと見ている姿があった。冬哉はその姿をじっと見ていた。そして、普段はあのマフラーが巻いてある首のところにそっと手を触れた。

 「くそっ!」

 突然冬哉は叫ぶと、コンビニの方へと駆け出した。コンビニの前では、上手く駐車できなかったSUVが、前に出て車の向きを直し、もう一度バックで駐車場に入れようとしていた。運転者はこの車に慣れていない様子で、この同じ動作をもう数回繰り返していた。冬哉はそのSUVを横目で見ながら、コンビニへ飛び込んだ。

 「出るぞ」

 コンビニに入るなり大声で言った冬哉は、そのまま雪乃のほうに駆け寄った。冬哉の顔を見た雪乃は、ニッコリ笑って言った。

 「あ、待ってください。ついでに本買ってく」

 雪乃は読んでいた本を置いて別の本をとろうとすると、冬哉がその手を掴んで、強引に引っ張る。

 「いいから行くぞ!」

 雪乃の手を引きながら、SUVがバックしてくる様子を、冬哉はガラス越しにじっと見ていた。

 「ちょ、ちょっと!痛い!」

 冬哉は雪乃の手を思い切り引っぱった。その手の痛さに雪乃は大声を上げ、その声に周りの人たちが驚き二人のほうを向いた。そして、冬哉が外に出ようとドアに手をかけたそのとき、大きなエンジン音と、ガラスが割れる甲高い音がして、SUVがものすごい勢いで店の中に飛び込んできた。その瞬間、物凄い力で冬哉の方に引き寄せられた雪乃は、紙一重でSUVを交わし、そのまま冬哉の懐へと飛び込んだ。冬哉は飛び込んできた雪乃を守るように抱きかかえ、その場でうずくまった。ガラスを割り、雪乃がさっきまでその前にいた本棚をなぎ倒したSUVは、ガラガラと辺りのものを引き倒す大きな音を立てながら、その奥の棚も次々なぎ倒し、最後にガシャンともう一度大きな音を立て、飲料の入ったガラスのショーケースに突っ込んでようやく止まった。辺り一面にはもうもうと埃が舞い上がり、ガラスの破片がバラバラと落ちてきていた。続いてガラガラと何かが崩れ落ちる音して、少し離れたところで女の人が叫ぶ悲鳴があたりに響いた。

 暫くして土煙が少しずつ晴れてくると、雪乃は冬哉の胸からゆっくりと顔を上げ、辺りを見回した。そこはもうすでに逃げ惑う人や車のほうに駆け寄っていく店員たちやらで大騒ぎになっていた。

 「大丈夫?」

 冬哉が雪乃の顔を覗き込み、心配そうに声をかけると、雪乃はゆっくりと頷いた。

 「ちょっと、出よう」

 本来なら、警察や救急車が来るのを待って、色々証言したり、手当てをしてもらったりしなければいけないのだろう。しかし、幸いにも雪乃がした怪我は、ほんのかすり傷程度だったし、このあと事情聴取やらなんやらで、時間を取られるのは嫌だった。とにかく今は、家に帰って休みたかった。

 冬哉が雪乃の肩を抱いたまま、その場を二人でゆっくりと離れた。そして、少し離れたところで雪乃は立ち止まり、コンビニのほうを振り返った。見ると雪乃がいた辺りは滅茶苦茶に壊され、雪乃が見ていた本棚は完全にSUVの下敷きになっていた。その様子を雪乃は呆然と見つめていた。

 「今日は、帰ったほうがいい」

 後ろから話しかける冬哉の声に、雪乃は黙ったまま頷いた。そして、冬哉に引かれるまま歩き出すが、顔だけは現場の方に向け、暫くは目が離せないでいた。パトカーのサイレンが近づいてきていた。


 コンビニから離れると、冬哉に手を引かれたまま歩いていた雪乃は、冬哉の首回りがいつもと違っている事に気付いた。

 (今日、マフラーしてないんだ…)

 雪乃は少しだけ違和感を感じたが、それ以上は何も考える事も出来ず、そのまま歩いていた。そうして暫く歩くと、雪乃の家の近く、昨日二人が別れた場所にまで来ていた。そこで二人は立ち止まった。

 「ここで…。いい…」

 と、雪乃は冬哉からゆっくりと離れた。

 「大丈夫。歩ける?」

 「うん…。大丈夫…」

 雪乃はゆっくり二,三歩歩いた。そして、ふと立ち止まり冬哉に訊ねた。

 「そう言えば…、話したいことって?」

 冬哉は少し笑顔を浮かべ、答えた。

 「ああ。もういいんだ…」

 「そう…」

 そのまま、ゆっくりと雪乃は家に向かった。冬哉は黙ってそれを見守った。そして、雪乃が家に入るまで見届けると、ゆっくりと来た方向を戻っていった。

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