ラーメンとマフラー

 夕方、二人はラーメン店に来ていた。その店は買物公園の一角、市内で一番大きなレコード店の地下にあり、食事をするには中途半間な時間であるにもかかわらず、十四、五人程度座れるカウンターと、五卓ある四人がけのテーブル席のほとんどが埋まっていた。雪乃と冬哉は、たまたま空いていたテーブル席に、向かい合わせに座った。椅子に座るなり雪乃は、すこしはしゃいだ様子で冬哉に話しかけていた。

 「ここ『雷光軒』って凄く有名なお店なんですよ。私、ここと郊外にある『ほしの』ってお店が好きなんですけど、『ほしの』は学校からだとちょっと遠いし。『街』だとここが一番おいしいかなあ」

 雪乃の言うように、ここは結構な有名店らしく、壁一面に有名人のサインが貼ってあった。冬哉は入る前から少し落ち着かない様子だったが、こうゆう店に来るのは珍しいのか、しきりに店の中を見回して、壁のサインやら、カウンターで調理をしているオヤジさんの様子やらを、熱心に見ていた。

 暫くすると、店員がラーメンを持ってきた。

 「はい、お待たせしました!こちら、しょうゆと」

 まず、店員が冬哉の前にしょうゆラーメンを置き、

 「こちらはみそです」

 続けて雪乃の前には味噌ラーメンを置いた。

 「あたしはみそが好きなんだけど、ここ、しょうゆが有名なんで、松田さんはしょうゆにしましたね」

 そう言って雪乃が冬哉の方を見ると、冬哉は雪乃の話には一切反応せず、暫くじっとラーメンを見ていた。それから、今度は蓮華を手に取ると、まるで初めて見たもののように、裏返したり、横にしたりしながら、しげしげと見つめていた。そして、蓮華を置くと、またラーメンをじっと見ていた。

 雪乃も冬哉の様子を暫く眺めていたが、冬哉が一向に食べだす気配を見せないので、そっと声をかけてみた。

 「松田さん…」

 しかし、冬哉の方は呼ばれたことに気づかない様子で、そのままラーメンを見ていた。

 「マ・ツ・ダさん」

 大きな声で呼びかけてきた雪乃の声に気づいた冬哉は、ようやく顔をあげて雪乃を見るが、それって俺のこと?とでも言いたげに、首を傾げながら自分のほうを指差した。

 「そうですよ、どうしたんですか?自分の名前なのに忘れちゃったんですか?」

 雪乃は少し呆れ気味に言うと、冬哉は

 「いや、ホントに苗字で呼ばれることって滅多に無いから、周りもみんな名前で呼ぶし」

 「そうなんですか?」

 「だから、君も名前で呼んでよ。冬哉って」

 「えっ!そんな、失礼じゃないですか、名前でなんて」

 さすがに雪乃は、知り合ったばかりで名前で呼ぶことは憚られたのだが、それは、冬哉にとって意外なことだったらしく

 「なんで、そんなこと気にするの?こっちもそのほうが慣れてるから」

 そういうことなら…、と雪乃は、冬哉も気にしていないようだし、そうすることで冬哉との距離感を縮められるようにも思えたので、思い切って名前で呼んで見ることにした。

 「じゃあ、あの、とうや…さ…ん」

 しかし、いざとなると恥ずかしく、だんだんと小さく蚊の鳴くような声になってしまっていた。そして、それとは逆にだんだんと頬が紅潮して熱くなっていくのを、雪乃ははっきりと感じていた。

 「どうしたの?顔真っ赤だよ」

 「ど、どうしたのかな、ちょっと暖房が効いているのかな。さ、さ、早くしないと冷めちゃいますよ。食べましょ」

 雪乃はごまかすように早口でそういうと、気持ちを落ち着かせるため、軽く咳払いをしてから、箸を持って手を合わせ、

 「いたーだきます」

 と言ってから、慣れた手つきでラーメンを一口頬張った。

 「うーん、おいしい!」

 この一連の動作をじっと見ていた冬哉は、同じ様に箸を持ったまま両手を合わせ、

 「いただきます…」と小さな声で言うと、箸でゆっくり麺をとり、じっとそのまま麺を見つめていた。雪乃もその異様な行動に思わず箸を止めて、冬哉の様子をまじまじと見つめていた。

 冬哉は暫く麺をじっと見てから目を瞑り、恐る恐るといった様子でゆっくり麺を口に入れた。次の瞬間、冬哉は驚いたように大きく目を見開いた。

 「ね、おいしいっしょ」

 その様子を固唾を呑んでみていた雪乃が話しかけたが、雪乃の言葉に冬哉は一切反応を見せず、ズッズズーッと大きな音を立てながら、一気に麺をすすりだした。

 ズズーッ、ズズズーッと麺をすする音が響く中、あまりにも一心不乱にラーメンをすする冬哉の姿に、雪乃は半ばあっけにとられ、ラーメンの湯気で眼鏡が曇るのも気にせず、その姿を暫く眺めていた。

 あっと言う間につゆまでキレイに飲み干した冬哉がようやく顔を上げた時、自分のことをじっと見ている雪乃と目が合った。そして、凍り付いた様に、丼を持ったまま冬哉は動きを止めた。

 「いやー。こーんなにおいしそうにラーメン食べる人、初めて見ました」

 雪乃は嬉しそうにそう言って笑顔を見せた。冬哉ゆっくりと丼を置いて、恥ずかしそうに言った。

 「実は、ラーメン食べるの初めてで…」

 「えーっ、ウソ」

 いまどきラーメンを食べたことが無い人がいるとは、雪乃は信じられなかった。すると、冬哉は、興奮気味に突然わけの分からないことを話し出した。

 「いや、汁っていうか、液体と固形物が一緒になってるって、ちょっと信じられないし、ましてや、それを一緒に食べるってのが、もうありえないって言うか…。それに、俺の頃にはもう無くなってて…」

 そこまで話したところで、冬哉がふと我に還り、ハッとした表情を浮かべた。

 「いやいや、ウチの近所にラーメン屋がなぜか無くなっちゃってて。ハハハ」

 そう言って作り笑いを浮かべる冬哉の顔を、雪乃は首を傾げて見ていた。その視線に耐えられず、冬哉は思わず目をそらした。

 「本当に初めてですか…」

 「うん初めて初めて」

 怪訝そうに訊ねてきた雪乃に、冬哉は何故か目を合わせることが出来ない様子で、あらぬ方向を見たまま答えた。

 「じゃあ、こっちも一口食べてみてください!」

 雪乃は満面の笑顔を浮かべて、自分のラーメンを差し出した。

 「えっ、いいの?」

 「はい!また違った味でおいしいですよ」

 冬哉は少し悩んでいたが、雪乃が差し出してきたラーメンの誘惑には勝てず、それをそっと自分の手元に引き寄せ、ゆっくりと一口食べた。すると、また目を丸くしたと思うと、そのまま一心不乱に食べ始めた。雪乃は自分が薦めたものを、冬哉が喜んで食べてくれたことがとにかく嬉しく、彼の食べる姿をニコニコと笑顔を浮かべながら、ずっと眺めていた。冬哉が見せたおかしな態度や発言のことは、雪乃の頭からすっかり消えてしまっていた。


 「ありがとうございました!」

 店員の声が響く中、二人はラーメン屋から出て、一階の出口へ向かって階段を上っていた。

 「ごめん、君の分もほとんど食っちゃったけど…」

 少しばつが悪そうに冬哉が言った。

 「いや、なんもなんも。気にする事ないですよ。第一あたしお金払ってないし」

 ラーメン代は全て冬哉が払っていた。

 「案内してもらったんだもの。当然だよ」

 「でも、こないだのケーキの分。チャラになっちゃったなあ…」

 話しながら二人は外に出た。辺りはもうすっかり暗くなり、空気も凛と冷えていた。

 「うーっ、寒ぶ」

 突然吹いてきた風に煽られ、冬哉は思わず声を上げた。寒そうにしている冬哉の様子に、雪乃は改めて彼の服装を見た。フライトジャケットは着ているものの、中は薄手の長袖シャツ一枚で、冬を目前にしたこの時期、夜歩き回るには傍から見ても寒そうな格好に見えた。

 「ダメですよ、こんな薄着じゃ。これからもっと冷えますよ」

 「でも、この時期ってよくわかんないんだよね。冬用のセーターとかあるんだけど、かっちりしたヤツだからちょっと時期は早そうだし、あまり着込んじゃうとみっともないし」

 確かに、この時期は日に日に寒さが厳しくなってはいるものの、冬というにはまだ早いし、その上一日の気温差も激しい。冬哉はここに長期滞在している様ではあるものの、旅先では持っている服も限られる。この時期着るのにちょうどいい服装というのは持ち合わせてはいないだろう。それなら、と雪乃は冬哉に言った。

 「じゃあ、マフラー買いに行きましょうよ。こないだのお礼にプレゼントしますから」

 「いや、お礼って、ケーキおごってもらったじゃない」

 「そんなの、今のでチャラです。そもそも、命を助けてもらったのに、ケーキで済まそうなんて失礼な話です」

 「でも、あの時も、そんなに持ってないからって…」

 「あの時はたまたま手持ちがなかっただけです。今ならお小遣い入ったばかりだし、お年玉使わず残しておいた分もあるし…」

 「でも、そんな、悪いって…」

 マフラーとは言えども、そこそこの値段はする。さすがに高校生にプレゼントしてもらうのは気が引けるらしく、冬哉は遠慮したが、雪乃は全く意に介さない様子で、一緒に買いに行くことを勝手に決めてしまっていた。

 「今度、買いに行きましょう!いつなら都合がいいですか?そう、連絡先教えてくださいよ」

 (よし!自然な流れ)雪乃は上手く冬哉の連絡先に話が持って行けたことに、一人満足していた。しかし、雪乃の思惑通りに事は運ばなかった。

 「連絡先って言ってもなあ」

 冬哉は困った表情を浮かべ、連絡先を教えるのを渋った。

 「だめですか?」

 「だめって言うか…、そう、人のとこなんで勝手に教えるわけにはなあ…」

 「人のとこ?」

 「知人のところに居候してるんだ。だから、勝手に教えるのも…」

 「じゃあ、待ち合わせするのはどうです?明日とか?明後日とか?」

 「つっても、予定決まってないし…」

 のらりくらりとかわす冬哉に、雪乃はすこし弱気になった。しかし、今朝の占いを思い出し、(積極的、積極的)と心の中でつぶやき、自分を鼓舞した。

 「分かりました!それじゃあ、私、これから毎日放課後、あの喫茶店にいますから!」

 「あの喫茶店って?」

 「あの、ケーキ食べた喫茶店です」

 「こないだ行った?」

 「そう!そこです。私、そこに居ますから、暇なとき来て下さい。したら、会えるでしょ」

 自分でも随分とんでもないことを言っていると言う自覚はあった。そして、こういうことを言ってのける自分自身に驚いていた。しかし、雪乃はここは強引に押し切ることにした。だって、占いでああ言っていたから。ただ、驚いているのは冬哉も同じだった。

 「えっ、でも、俺、いつ行けるかわかんないぜ」

 「大丈夫です!こっちは毎日居ますから、時間があるときだけ来て下さい」

 「毎日?」

 「そ、毎日!」

 「それじゃあ君が…」

 「どうせウチ帰ってもやることないし、宿題やったり、本読んだりして時間つぶしてますから、大丈夫です!来れるときだけ来てもらえばいいです」

 最後に、雪乃はにっこりと微笑んで言った。

 「じゃあ、今日は帰りますね。また!」

 雪乃は、冬哉が戸惑ってあたふたしているうちに帰ることにした。そうすれば、少なくとも今ここで断られる事はない。

 「お、おい、ちょっと…」

 いきなり帰ろうとする雪乃を、冬哉は引きとめようとしたが、雪乃はその言葉を振り切って走りだした。そして、少し離れたところまで来ると、振り返って冬哉に向かって大きく手を振り、大きな声で言った。

 「トウヤさん、いつでもいいですからね!また、会いましょう!」

 (わっ!トウヤさんって言っちゃった!)大きな声で名前を呼んだことに雪乃は驚き、恥じらいながら、自然に出てきたその言葉に、冬哉と大分近づけたなあと実感した。雪乃は冬哉にもう一度にっこり微笑んでから、そのままくるりと踵を返し走り去っていった。残された冬哉はその姿を困惑した顔で見つめていた。


 そのとき突然、ピーピーと呼び出し音がした。冬哉はズボンのポケットから、その音がするものをとりだした。それは、名刺より少し大きなサイズの箱状のもので、当時ポケットベルと呼ばれてきた機械に良く似ていた。しかし、その時代のものにしては画面が大きく、それを操作するボタンのようなものが一切ないのも不思議だった。その機械は、冬哉がポケットから取り出した途端、自然と音が鳴り止んでいた。冬哉はそれを持って近くの建物の陰に隠れると、そっとその画面に触れた。すると、ぼーっと画面が光りだし、冬哉の顔を青白く薄い光で照らし出した。冬哉は暫くその画面を見つめると、チッと軽く舌打ちをしてから、そのままどこかへと歩き出した。


 次の日の放課後。ホームルームが終わると同時に、急いで帰り支度を始めた雪乃に、瑞枝が声をかけた。

 「ゆき…」

 しかし、雪乃はその声に全く気付かない様子で、席を立つと瑞枝の前を横切り、バタバタと教室を出ていった。雪乃を黙って見送るしかなかった瑞枝は、同じ様にその様子を見ていた桂子と目を合わせ、映画に出てくる外人のように、かなり大げさな身振りで肩をすくめた。


 学校を出た雪乃は、それこそ一目散に『街』へと、そして約束した喫茶店へと向かった。

 喫茶店の前までくると、ドアの前で一旦立ち止まり、そこで息を整えた。それから、ドアの横のショーケースの前に立ち、そこに写った自分の姿を確認して、髪の毛や制服の乱れを整えた。

 念入りに身なりを整えた雪乃は、「よし」と小さくつぶやくと、喫茶店のドアに手をかけ、開けようとした。すると、ショーケースの隅に置いてあるテディベアのぬいぐるみがふと視界に入った。それは、高さ五十センチほどもある割と大きなもので、愛くるしい表情がとても印象的なぬいぐるみだった。雪乃はそのぬいぐるみに微笑みかけると、もう一度ドアの前で姿勢を正し、胸に手をあて、ゆっくり息を整えて、勢いよくドアを開けた。

 ドアにかけられたカウベルの音が大きく響くと、カウンターにいるマスターがその音に気づき、ドアのほうを一瞥した。雪乃はそのまま中に入り、喫茶店の中を見回すが、中には奥のほうで本を読んでいる人が一人いるだけで、その人以外は誰もいなかった。

 雪乃は、窓側のいくつか並んだテーブルのうち、入り口から数えて2番目のテーブル、冬哉と初めて来たときと同じテーブルに入り口の方を向いて座った。ここなら、入り口から入ってきた人のことがすぐわかる。席に着くとすぐに、マスターが水を持ってきて雪乃の前に静かにおいた。雪乃は小さく礼をしてマフラーやコートを脱ぎながら、もう一度喫茶店の中を見回したが、やはり、奥のほうに座っている人以外、人がいないことを確認すると、軽くため息をついて、目の前に置かれた水を飲んだ。そして、入り口のほうを見つめながら、冬哉が来るのをじっと待っていた。


 それから暫くたって…。

 秋も終わりになると、北にある旭川は日が暮れるのも早く、四時を過ぎる頃にはもうすっかり日が翳ってしまい、喫茶店の窓から入り込んだ夕方の光は、店内をオレンジ色に染め上げていた。その光の中で本を読んでいた雪乃は、ふと顔を上げると、その細い手首に巻いてある時計で時間を確かめた。そして、ふーっと大きなため息をつくと、再び、読んでいた本に目を落とした。


 更に時間がたって…。

 辺りはすっかり暗くなり、喫茶店の中の小さなシャンデリアにも灯が入れられていた。その仄かで柔らかい光に照らされた店内で、雪乃はノートと教科書を広げ、静かに勉強をしていたが、ふと顔を上げて窓の外に視線を移し、日も暮れてしまった夜の街を人々が通り過ぎていくのを見ていた。そして、暫くそれを眺めていた雪乃は、改めてノートへと目を落とすと、再び勉強を始めた。


 また、更に時間がたって…

 雪乃の目の前においてあるウォークマンが、カチャリといって止まった。雪乃はヘッドホンを耳からはずすと、もう外を歩いている人も疎らになってしまっていた外の景色を見た。時刻は8時を少し回っていた。雪乃はふぅと今日何度ついてしまったか分からないため息をついて、前にあるアイスティーのストローを取った。そして、ストローでコップの中をクルクルとまわし、アイスティーと一緒に回る氷をぼーっと眺めていた。その姿を喫茶店のマスターがカウンターの中で作業をしながら、時折気にするように見ていた。


 すると、来客を知らせるカウベルの音がして、喫茶店のドアが開いた。音に気づいて雪乃が顔を上げると、冬哉が店に入ってくるのが見えた。雪乃の表情が一気に明るくなった。冬哉はそのまま雪乃の向かいに座ると、無愛想な表情のまま話しだした。

 「コーヒーのみに来ただけだから」

 雪乃は、少しがっかりした顔をして、下を向きコクリと頷いた。水とお絞りを置きにきたマスターに、冬哉は一言「ホット」と注文を告げると、お絞りで手を拭きながら、雪乃に話しかけた。

 「今日はもう店も閉まっているしな。買いに行くなら明日だ」

 雪乃はそれを聞くと満面の笑みを浮かべ、コクコクと何度も頷いた。そして、目の前のアイスティーをとってストローに口をつけ、上目遣いに冬哉を見つめていた。

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