素晴らしき哉…
その喫茶店は買物公園から少し入った路地にあり、中には西洋アンティーク風の家具とそれに合わせた内装が施され、大きな出窓には花も飾られた、洒落て落ち着いた雰囲気の良いお店だった。
そのカウンターの中に設えられたキッチンで、この店のマスターは、ケーキセットを用意しながら、それを注文したカップルをちらと横目で見ていた。というのも、注文をしたきり一向に話し出す気配もなく黙ったままである二人の様子が気になって仕方がなかったからだ。
女の子のほうは、今日は珍しく眼鏡をかけていたので最初は分からなかったが、友達とたまにこの店に来ることがあって、その少し童顔のかわいらしい風貌はよく覚えていた。どうやらその子が相手の青年を連れてきたらしい。下をむいたまま、膝の上に置いたハンカチを両手で仕切りと弄り回している。一方、青年のほうは線が細く、色の白いのが印象的な青年で、初めて見る顔だ。
どうやらここに連れて来られたのが本意ではない様子で、そわそわと、そして少し不機嫌そうな表情で、店の中を見たり窓の外を眺めたりして、決して女の子のことを見ようとしない。女の子のほうは、なんとか青年に話しかけようと、時折ハンカチを弄る手を止め、チラリと上目遣いで青年の様子を窺っているが、青年のほうが取り付く島もない様子なので、話しかけるのを躊躇しているようだ。
マスターはこの様子を見て、女の子のほうに肩入れしたい気持ちにはなっていたが、お客様のプライベートに立ち入るような事はしないというのが、こうゆう店を営む上でのマナーと考えていたので、努めて干渉しないようにし、無関心を装うことにしていた。たから、いよいよ女の子が話し出そうとしているのを見て、思わずそちらに顔を向けそうになったが、(おっ、いかんいかん)と自分を諌めて目の前の作業に集中した。
「あのう…」
雪乃は、思い切って声を出した。拝み倒して、どうにかこうにか、この喫茶店までつれてくる事は出来たものの、青年の不機嫌そうな態度に、なんとなく話が切り出せないでいたのだ。しかし、道の真ん中で、あんな恥ずかしい思いまでして呼び止めたのに、このまま黙っていては意味がないと、勇気を振り絞って話しかけたのだ。
「なに」
そう答えた青年の明らかに不機嫌そうな態度に、雪乃は少し怯みながらも続けた。
「ほ、本当にありがとうございます。あの時助けてくれなかったら、今頃・・」
「あれは、たまたま、ね。運が良かったっていうか…」
青年が、相変わらず不貞腐れた感じのまま、ほんの少し照れくさそうに答えると、喫茶店のマスターが、ケーキセットを二つ運んできた。
「すみません、私、今、あんましお金もってなくって…。こんなものしか用意出来ないんですけど…」
「あ、全然気にしないで。甘いもん嫌いじゃないし」
青年のぶっきらぼうな言葉の中に、雪乃に対する気遣いを少しだけ感じ取って、雪乃の表情が和らいだ。
「よかったあ。ここ、美味しいって評判なんですよ。どうぞ、食べてください」
「そう。じゃ、遠慮なく」
雪乃の薦めに従い、青年はスプーンを手に取った。
「あのう…」
雪乃が再び恐る恐る声をかけたのは、青年のスプーンがまさにケーキに触れようとしたときだった。青年は思わず手を止め、雪乃のほうを見た。
「じ、自己紹介まだでしたね。私、雪乃って言います。橘雪乃。『ゆき』は…、降る『雪』に、『の』は漢字の『乃』…、『及ぶ』のはらいのない、あれです」
雪乃は相変わらず緊張した面持ちだったが、一生懸命身振り手振りを加えながら、自分の名前を説明した。
「いい名前だね」
雪乃の一生懸命さとは対照的に、全く素っ気無い態度で相槌を打った青年は、再びケーキに手を伸ばした。
「あのう…」
また、様子を伺うように話しかけてきた雪乃の言葉に、青年は再び手を止めた。
「お名前聞いていいですか」
「トウヤ」
青年はそそくさと答え、ケーキに手を伸ばそうとするが、その動作を遮るようにして、また雪乃が話しかけた。
「洞爺湖のトウヤ?」
「そんな名前な訳ないじゃん」
手を止めて青年は答えた。
「アハ、そうですね」
照れて笑う雪乃。
「『冬』って漢字に、『哉』は…。あれ、古い映画だけど『素晴らしき哉、人生』って映画知ってる?」
「名前だけは…」
「その『哉』ってとこ」
雪乃はその漢字を空中に指でなぞりながら思い出していた。冬哉は、その様子を見て、またケーキに手を伸ばした。すると、また遮るように雪乃は話した。
「じゃ、上の名前は」
「上の?」
また手を止めて答える冬哉。上の名前と言われピンときていない様子だった。雪乃は言い方を変えてみた。
「上のっていうか、苗字です」
「苗字?」
「はい、苗字」
「苗字ねえ」
青年はそうつぶやくとゆっくり辺りを見回し、ちょうど視線の先にあるテレビの画面に目を留めた。
「まつだ…」
青年はポツリと言った。
「まつだ…さん」
テレビは、雪乃の真後ろの壁際においてあって、探偵もののアクションドラマの再放送をやっているところだった。だから、『松田』と言う名前が、その画面に写っている、ソフト帽にグラサン、黒のスーツに、原色のカラーシャツとネクタイといった派手な格好で、颯爽と白いべスパに乗っている主人公を演じている俳優と同じ名前という事に、雪乃は全く気付いていなかった。
「そ、そう、松田」
「松田…冬哉さん」
「そう、松田冬哉、松田冬哉」
これで名前についての話は終了とでも言いたげに、冬哉はおざなりにこう答えると、ケーキに手を伸ばした。
「あのう…」
またもや、冬哉が食べるのを邪魔するようなタイミングで話しかけてくる雪乃に、冬哉は少しだけ顔をしかめながらも、律儀に手を止め、雪乃の方に顔を向けた。
「旭川に住んでらっしゃるんですか」
「いや」
冬哉は簡単に答えて、ケーキに手を伸ばした。
「じゃあ、こちらには観光で」
また、離しかけてくる雪乃に、冬哉は手を止めて答えた。
「いや」
「じゃ、お仕事」
「そんなようなもん」
「じゃあ、しばらくこちらに」
「いるね」
「よかったあ」
「なんで?」
「いや、そのう…」
雪乃は恥ずかしそうに下を向いた。そんな雪乃の様子を怪訝そうに見ながら、冬哉はまたケーキに手を伸ばした。
「お、お仕事ってなんです?」
再び顔を上げて訊ねてくる雪乃に、冬哉も手を止めて答えた。
「言ってもわかんないと思うよ」
と言って冬哉がケーキに手を伸ばすと、また、間髪入れず雪乃が質問をしてきた。
「会社員じゃないですよね」
「じゃないね」
「写真家さん?」
「違うね」
「画家さんとか」
「違う」
「小説家」
「そうゆう系統じゃない」
「じゃあ、探偵さん」
「もしかすると、近い…かな?」
「じゃ、じゃあ事件を追ってここまで来たとか」
次々と繰り出される雪乃の質問に、冬哉はその都度ケーキを食べようとする手を止め答えていた。しかし、いい加減に辟易してしまっていた冬哉は、不意に雪乃の顔をじっと見つめて言った。
「あのさ」
「はい!」
いきなり顔を見つめられた雪乃は、思わず飛び上がりそうになりながら、上ずった声で返事し、冬哉の事を見つめたまま、顔を赤らめ固まってしまっていた。そんな雪乃に、冬哉はゆっくりと一言言った。
「食べていい?」
雪乃は何を言われたのか一瞬わからなかったが、一口も手をつけられていない冬哉のケーキを見てようやく気づいた。自分のせいで冬哉がケーキを食べられないでいることに。
「ご、ごめんなさい!」
雪乃は更に顔を真っ赤にして俯くと、下を向いたまま手を伸ばし、
「どぞ、どぞ。あの、食べてください」
と勧めた。ここで、ようやく冬哉はケーキに手をつけた。
その冬哉の食べる姿を上目遣いで見ていた雪乃は、自分も下を向き一口二口ケーキを食べた。そして、ちょっと間を置いてから、また伺うような目で冬哉を見て、おずおずと遠慮がちに話し出した。
「あのう…」
「なに」
手を止め、今度はあからさまに機嫌悪そうに冬哉は答えた。その態度に雪乃は少しビクッと震えながらも続けた。
「あ、あ、食べながらでいいです。時間とか大丈夫です?」
「まあ、夕方は空いているしね」
と、言われたとおり食べながら答える冬哉。
「それって、今日だけじゃなくて?」
「まあ、結構時間あるよ」
「それじゃあ…。あ、でもなあ」
話を切り出しながら雪乃はちょっと躊躇した。その思わせぶりに見える態度に、冬哉は怪訝そうに訊ねた。
「なに?」
「いや。折角来たんだから、どっか、遊びに行ったり、しないのかなあって」
ちょっと言いにくそうにもじもじしながら雪乃は言った。
「いいよ別に。観光に来たわけじゃないし」
冬哉はまたもそっけなく答えた。
「でもでも、もったいないですよ。いいところも一杯あるし…」
ここで縁を切りたくはない雪乃は、ここはなんとしても次に会うきっかけを作りたいと、しつこく食い下がった。そして、何か冬哉の興味を引きそうなことはないかと必死に考えた。ただ、恋愛とか人一倍興味はあっても、経験自体は全くなく、この後、どう話を持っていけばよいのか全く思いつかなかった雪乃が、必死の思いでたどり着いたものは、おおよそ恋愛とかそうゆうロマンチックな雰囲気にはそぐわないものだった。
「せめておいしいものでも…。そう!ラーメンとか。旭川のラーメンって結構有名なんですよ」
(ああ、ラーメンって!なしてこんなものしか、私、思いつかないんだろう)
雪乃は言ってから後悔した。
「ラーメンかあ…」
しかし、意外と冬哉の反応は悪くなかった。
「じゃあ、今度行きましょうよ!おいしいとこ、いっぱい知ってるから案内します!」
「うん、そーだな」
「行きましょ、行きましょ!たっくさん、あるんですよ。どこがいいかなあ」
浮かれて話す雪乃を尻目に、ケーキを食べ終わった冬哉はおもむろに立ち上がり、
「じゃあ、今度会った時行くから考えておいて。ご馳走様、おいしかったよ。また、機会があればね」
とそのまま席を離れ、さっさと歩き出してしまった。
「あの!待ち合わせとか、連絡先とか…」
慌てた雪乃は、立ち上がって冬哉を引き止めようとするが、冬哉は背中を向けたまま手を振って、さっさと出て行ってしまった。カランカランとドアについていたカウベルの音だけが喫茶店の中に寂しげに響いた。
「待っ…」
雪乃はそう言って、立ったまま冬哉が去っていくのを呆然と見送った。そして、冬哉が見えなくなると、「ふーっ」大きくため息をつき、席に座って暫く動かなかった。
一方、そのまま立ち去ってしまったはずの冬哉は、雪乃には死角となる電柱の影に隠れ、雪乃の姿をそっと見ていた。
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