いろいろな事の始まり…

 翌朝、高校へと向かう通学路を歩いている雪乃に、桂子が後ろから声をかけた。

 「雪乃ちゃん。おはよう!」

 「あっ、おはよう…」

 ゆっくりと振り返った雪乃は、少し気のない返事を返した。

 「珍しいわね。今日歩きぃ?」

 徒歩通学組の桂子がが、自転車通学組の雪乃と会うのは、自転車が使えない冬場以外では珍しいことだった。

 「うん、昨日チャリンコ壊しちゃって…」

 こう答える雪乃の声に、いつもの溌剌とした元気さがない。桂子は、そんな彼女の様子になんとなく違和感を覚え、並んで歩く雪乃のことをじっと見つめていたが、雪乃の外見にも、いつもと違う点があることに気付いた。

 「あっ眼鏡してる。これもまた珍しいわねぇ」

 「うん、そんときコンタクトも落っことしちゃったんだわ…」

 元気のない理由のひとつはその眼鏡だった。眼鏡は少し楕円がかった形の細いメタルフレームのもので、これといった特徴もないものなのだが、少し童顔の雪乃にはこの眼鏡はどうも似合っていないように感じていた。加えて、古い眼鏡で少し度が合っていないらしく、よく見ようとするとどうしても目つきが悪くなった。

 (桂子や瑞枝みたいに眼鏡が似合えばなあ)

 二人とも授業中たまに眼鏡をする事があるのだが、その姿は雪乃が見とれるくらい似合っているものだった。元々ボーイッシュで健康的美少女の瑞枝は、眼鏡をする事でキリッとした理知的な顔になり、まるでやり手のビジネスウーマンのように『カッコイイ』女性に。一方、医者の娘で育ちの良く、普段からおっとりとお嬢様然としたところがある桂子は、眼鏡をかけると時折見せる幼げな印象がすっかり影を潜め、すっと清楚な大人の女性に変わるのだ。雪乃も別段自分の容姿に対してコンプレックスを持っているわけではないのだが、二人に比べるといたって平凡に思えて仕方がない。いつも三人で過ごしている雪乃にとって、マイナス要素は少しでも減らしておきたいところなのだが、裸眼では普通の生活すらままならない以上、コンタクトがない状態では、眼鏡をかけないわけにはいかなかった。ユウウツのタネがまた一つ増えたなあと雪乃は思っていた。

 「眼鏡はあんまし(=あまり)好きじゃないんだけどさ。チャリはわや(注1)になっちゃったし、コンタクトもなくしちゃって…。で、親がね、チャリはすぐ買わないと通学とか困るから、コンタクトは暫く我慢しれって言うし…」

 「眼鏡もいいわよぉ。かわいいよぉ。めんこいよぉ」

 「そんな、お世辞にもなんないって」

 桂子は雪乃の眼鏡姿を本気で可愛いと思っていたのだが、自信を失っている雪乃には、嫌味にしか聞こえていなかった。桂子は困ったような表情を浮かべ、雪乃の後ろをついていった。

 「自転車もコンタクトもダメになっちゃうって、なにかあったのぉ」

雪乃は何か考え事をしている様子で、桂子の問いかけには答えず、そのままトボトボと歩いていた。桂子はその顔をしばらく覗き込むように見ていたが、突然何かを思い出し、立ち止まり言った。

 「あっ、思い出した!雪乃ちゃん、昨日トラックに轢かれそうになったんだって?」

 「えっ、なして知ってんの?」

 昨日の事件が、早くも桂子に伝わっていたことに、雪乃は驚いた。

 「昨日塾で聞いたのよぉ。ちょうど、その場で見てた子がいてねぇ」

 「うわ、恥ずい~。見られてた」

 思わず雪乃は赤くなった。

 「その子ね、そーとー危なかったって言ってたよぉ。ほんとケガなあい?」

 「ううん、なんも(注2)、大丈夫。大したことないさ」

 心配する桂子に、雪乃は恥ずかしそうに手を振って答えた。

 「なんでもぉ、赤信号で飛び出してったって言ってたよ。なんで、そんな危ないことになったのぉ」

 雪乃は、事故直前、振り返りざまに雪虫の群れに突っ込んでしまったことと、その直前目が合った、あの不思議な青年の少し驚いた表情を思い出していた。

 「いや、あんとき雪虫の群れに突っ込んじゃって、それでビックリして」

 「雪虫ぃ?あんな街ん中でぇ?」

 桂子に言われて気付いたが、雪虫は郊外の草原や木々の周り、住宅地でも所々残っている雑木林の近くとか見られ、ああゆう街のど真ん中で見られることはほとんどない。ましてや、群れだなんておかしな話だった。

 「うん、確かに変ね…。でもね、目の前にぶあーっと…」

そのとき、すぐ前にある生垣の隙間から、突然猫が飛び出してきた。

 「あっ、ネコ」

 雪乃には、悪い癖のようなものがあって、一旦何かに興味をもったり、心が惹かれたりすると、そちらのほうに意識が集中して、一切周りが見えなくなってしまうようなところがあり、そのことは瑞枝によく注意されていた。動物好きで、とりわけ猫には目がない雪乃は、桂子と話していた事も、自分が今まで少し落ち込んでいたこともすっかり忘れて、出てきた猫にすっかり虜になってしまっていた。

 「ねーこちゃん」

 猫は白地に茶と黒のぶちが入った堂々とした風貌の三毛で、二人の目の前をゆったりと歩いていった。雪乃はその後ろから、ゆっくりそーっと近づいていき、その後で桂子が不思議そうに首をかしげながら、雪乃同様にそっとついていった。しかし、猫は、後ろから近づいて来る人間たちにすぐ気付いて、猫がギリギリ入れるような、小さな塀の隙間にさっと入って逃げた。

 「待って!」

 猫のことしか頭にない雪乃は、一緒にその小さな隙間に突進していくが、猫のように隙間を通り抜けられるはずもなく、『ごん!』大きな音をたて、塀に思い切り頭をぶつけてしまっていた。

 「あ、痛たたたぁー」

 「だ、大丈夫!雪乃ちゃん」

 頭を抱えて痛がる雪乃の元に、桂子が心配そうに駆け寄ってきた。この姿を瑞枝が見ていれば

呆れて文句の一つも言われたところだ。

 「ふえーっ」

 と気の抜けた声をあげ、頭を抑えながら雪乃が振り向くと、桂子の後ろの塀の上に猫が寝ていた。その猫は、白地に茶と黒のぶちの三毛で、ぶちの大きさや形からいって、どう見てもさっき逆方向へと逃げていった猫とまったく同じ猫にしか見えなかった。

 「あれ、さっきの…」

 雪乃が指差す方向を振り向いた桂子も、塀の上であくびをしている猫を見つけて

 「あれぇ、ホントだぁ」

 「いま、そっち行ったよね」

 雪乃は、今、猫がいる方とは正反対の、さっきの猫が逃げた方向を指差して桂子に尋ねた。

 「うん」

 二人は猫の行った方角と寝ている猫を交互に見つめた。そして顔を見合わせて言った。

 「わ、あ、ぷ(ワープ)?」

 「まさかね」


(注1)わや=『めちゃくちゃ』の意。派生して『どうしようもない』とかかなり広い意味で使われる。

(注2)なんも=『別に』『全然』。これもかなり広い意味合いで使われる言葉で、この場合『なんでもないよ』という意味で使われている。




 雪乃たちの通う高校は、市内では一番古い由緒ある高校で、市の中心地=地元の人間が『街』と呼ぶ一帯から程近い、商業地と住宅地の境目のようなところに位置していた。建物もその由緒同様古く、いかにも古色蒼然とした佇まいをしていて、高度成長期以降建てられた校舎によくあるような、四角い積み木を組み合わせたような無味乾燥の建物とは違い、階段の手すりや窓枠等のところどころに、簡素だが丁寧な装飾や意匠などが施されており、学び舎に相応しい威厳のようなものを持ち合わせていた。しかし、ある種文化財といえるような校舎も、実際中で過ごしている雪乃たちにとっては、使い勝手の悪い、ただのオンボロ校舎でしかない。


 「寒い!外より絶対寒い」

 玄関前で雪乃たちと合流した瑞枝は、校舎に入るなり大声で不満を漏らした。

 「そおかなあ、そんな事はないと思うよぉ」

 桂子が瑞枝をとりなすように言ったが、彼女の不満が収まる気配はなかった。

 「いや、中のほうが外気温より絶対低いって!陽は入ってこないしさあ、隙間風はぴゅうぴゅう吹くしさあ、寒すぎるっしょこの学校」

 二人の会話を聞きながら、確かに瑞枝のいうとおりかもしれないと雪乃は思っていた。雪乃が通っていた中学校も、そこそこ古い建物ではあったが、その校舎と比べても、窓は非常に小さく、そのせいか日の光もあまり入ってこないので、いつも中は薄暗く、空気はヒンヤリとしている。朝、氷点下二十度以下にもなる冬は、暖房をしている教室内はまだマシだが、廊下に出るといつも凍えるような寒さに震えていた。

 雪乃はそんなことを頭の片隅でぼんやりと考えながら、そして他の頭の大部分を昨日から考えていることで一杯にしながら、ボーッとした感じで歩いていると、そんな雪乃の様子を見かねた瑞枝が話しかけてきた。

 「どうしたん、雪乃。今日はひどくおとなしいっしょ」

 「そうねぇ、さっきから元気がないっていうかぁ、ぼんやりしてるって言うかぁ。心ここにあらずって感じで…。何か気になることでもあるのぉ?」

 桂子も雪乃の様子を気にしていたらしく、こう訊ねてきた。桂子は、ぼんやりしているように見えて、そのくせ妙に鋭いところがある。彼女の言うように、『気になること』で頭が一杯で、まさに『心ここにあらず』という感じだった雪乃は、突然図星を指され、答える声は図らずも上擦ってしまっていた。

 「い、いや、なんも。なんもないって」

 「ふーん」

 様子のおかしい雪乃を、今度は瑞枝が怪訝そうな顔で見た。

 「だから、なんもないって…」

 三人は微妙な沈黙を抱えたまま廊下を歩き、一階の階段で桂子と別れた。

 「ちょっと職員室に寄っていくねぇ。先生にお渡ししないとならないものがあるからぁ」

 「わかった、先行ってる」

 瑞枝は手短にそう言うと、そそくさと階段を上っていった。その後をついて雪乃も階段を上り、教室のある三階につくと、

 「あたしもちょっとトイレ寄ってく。やっぱ寒くって」

と、瑞枝も雪乃と別れトイレのほうへと向かって走り出した。しかし、一、二歩進んだところで、ふと立ち止まり、くるっと踵を返して雪乃のところに戻ってきて言った。

 「いや、だからショックだったのは分かるけどさ」

 「え、なにを」

 「昨日の事故のことでしょ」

 瑞枝は、したり顔でそう言った。。

 「あんな危ない思いしたんだし、ショックでなかなか立ち直れんってのも分かるけどさ。でも、ホント奇跡的にかすり傷程度にすんだんだからさ、ラッキーだったんだって」

 「え…。あ、うん…」

 ”惜しい”というよりも、”残念な”思い違いしていることにまったく気づかず、的外れな慰めの言葉をを滔々と述べる瑞枝に、雪乃は戸惑い適当な相槌を返すしかなかった。

 「まあ、トラックの人とか、警察とかちょっと迷惑…、って言うか、大分迷惑かけちゃったけどさ、落ち込むような事ないって。だからさ、気持ち切り替えて元気出しなって」

 「う、うん、そーだね…」

 「じゃ、あたしちょっと行ってくるから、先、教室行ってな」

 言いたいことを言ってすっきりした様子の瑞枝は、くるりと元の方向へ振り返ると、「漏れちゃう、漏れちゃう」とおおよそ婦女子らしからぬ言葉を発しながら、トイレへと走っていった。そんな瑞枝を見て、雪乃はおもわず「はあ」とため息を漏らすと、一人教室へと向かった。

 確かに、傍から見て様子がおかしいと思われているだろうことは、雪乃も自覚していた。でも、それは瑞枝が言うように、事故でショックを受けたせいではなく、昨日、自分のことを助けてくれた青年の事をずっと考えていたからだった。

 (とにかく会いたい、会ってお礼が言いたい)

 (でも、名前もなにも、どこに住んで普段何をやっているのかも、とにかく顔以外は全くわからない。そんな人にどうすればもう一度会えるのかなあ…?)

 (買物公園で待ち伏せ?そんなのいつ会えるか分からんしょ)

 (年の頃から言えば大学生かもしれないけど…)

 (どこの?医大に教育大、他に私立も二つあるし、門で待つっていっても、どこに行けば…。それに絶対に大学生だという保証もないし…)

 (とにかく、人に聞きまくる?でも、どーやって?写真とかあれば聞きようもあるんだけど…)

 (似顔絵?ダメ、あたし絵が下手だし…)

 (探偵でも雇う?いくらかかるか判らんし、そんなお金あるわけし)

 (そーいえば、バスで一緒になった人でもなんでも探してくれるテレビ番組とかあったよなあ。でも、番組終わっちゃったしなあ)

 (あーっ!どうすればいいの!やっぱり買物公園で…)

 ジャングルで迷って同じ道を何度もぐるぐる回っている兵隊のように、雪乃の思考も、解決策を見出せぬまま、同じようなところをぐるぐると回ってばかりいた。おかげで、昨日はほとんど寝ていない。


 教室につくと、はーっと大きな溜息をついてから、雪乃はガラガラと教室の引き戸を開けた。

 「おはよ…」

 そのとき、雪乃はクラスがいつもと違う重苦しい雰囲気に包まれているのに気付き、言いかけていた挨拶の言葉を飲み込んだ。

 いつもなら、そこかしこに四、五人ずつ輪になって他愛もない事を話したり、笑ったりしているところなのだが、今日に限ってそんな人間は誰もいなかった。誰もが押し黙り、下を向き、涙を流している者までいた。そして、なぜか窓際にある雪乃の机の周りだけ、何人も人が集まり、皆すすり上げるようにして泣いていた。その机には、綺麗な花を生けた大きな花瓶が置いてあり、その前には女の子が一人、机に突っ伏して泣いていた。

 雪乃は教室の入り口に立って、ただ呆然とその様子を眺めていた。すると、突っ伏して泣いていた女の子が、入り口に立っている雪乃のほうにゆっくりと顔を上げた。瑞枝だった。瑞枝は、雪乃と目が合うと、まん丸と目を見開き、やがてゆっくりと大きく口を開け、言葉を発した。


 「雪乃!」

 声がしたのは雪乃の背後からだった。振り返るとそこには、教室の中にいたはずの瑞枝が立っていた。

 「あんたなにやってるのさ、ぼーっと突っ立って!」

 「えっ、なに、いま、だって…」

 雪乃は驚いて再び教室のほうに振り返ると、花瓶も、泣いているクラスメイトたちも全て消え、騒々しいいつものクラスに戻っていた。それを見た雪乃は、瑞枝と教室を交互に指差しながら、アタフタと答えた。

 「いや…、だって…、その…」

 「だから、なにしてんの、あんた。そこじゃま。教室入るよ」

と、瑞枝は入り口の前で立っている雪乃を両手で押して、一緒に教室へと入っていった。

 「やだ、ちょっと、危ないって」

 押されて後ろ向きに歩きながら、雪乃は思った。

 (やっぱ、あたし、ちょっとオカシイかな)


 その日の放課後。雪乃が帰り支度をしているところに、瑞枝が話しかけてきた。

 「ユキノー。あんたまだ元気ないのかい?」

 「いや、そんな事もないけど…」

 「じゃあ、今日も『街』寄ってくしょ」

 学校帰りに『街』に寄っていくのは、二人の日課といえば日課だった。しかし今日は、寝不足でちょっとだるい感じもしていたし、朝、幻覚みたいなもの見たのも気になっていたので、今日はまっすぐ帰るつもりではいた。一方、例の青年の事については、一日中あれこれ考えていても、いい方法が何一つ思い浮かばず、フラストレーションが澱のように心の中に溜まっていたので、憂さ晴らしに遊びに行きたいという気持ちもあった。結局のところ、折角お誘いも来た事ではではあるし、やはり瑞枝と『街』にいくことに決めたが、行くには問題が一つ残っていた。

 「いいけど、今日チャリないよ」

 いつもなら、瑞枝と二人、自転車で行くところだが、今日、雪乃は歩きだ。

 「そんなん大丈夫だって、行くよ!」

 そう言うと、瑞枝は雪乃の手をつかんで、教室を飛び出した。

 「ちょ、待って、引っ張んないでって」

 雪乃も引きずられるようにして、その後をついていった。


 『街』と呼ばれる市の中心地にあたる平和通買物公園は、駅からまっすぐ北東に伸びる平和通りに作られた、約一キロの長さの商店街で、車を一切通さない恒久的な歩行者天国を日本で始めて作ったことでも知られている。雪乃たちの高校からその平和通りまでは、高校の前の道をまっすぐ歩いて六百メートルほどで、大した距離ではないのだが、そこは平和通でもかなり端っこのほうで、大きな店もなく少こし寂れている。一番栄えているのは、そこから更に六百メートルほど進んだところの、百貨店が立ち並ぶ駅前から一条通りといわれる辺りで、そこまでいくとなると、雪乃たちの高校から歩いていくには少々面倒な距離となる。いつもなら雪乃は、瑞枝と二人並んでお話しながら、ゆっくりと自転車で行くのだが、その日は瑞枝の自転車に二人乗りして『街』に向かっていた。

 いつもなら、雪乃のペースにあわせ、ゆっくりと自転車を漕いでいる瑞枝なのだが、普段の鬱憤を晴らすかのように、結構なスピードを出して漕いでいた。後ろで必死にしがみついている雪乃は、そのスピードに思わず声を出していた。

 「み、瑞枝。は、早い、早いよ!」

 「え、なに」

 「だから、早い!」

 「何言ってんの、こんなの大丈夫っしょ!」

 瑞枝は、そうゆうと更にスピードを上げて漕いだ。そして、『街』に近づくにつれ、人通りが増えてくると、それをジグザグに交わしながら、スピード落とすことなく進んでいった。後ろに乗っていた雪乃は、振り落とされないよう更に必死にしがみつきながら、怖さのあまり早口でまくし立てた。

 「ハヤイコワイハヤイコワイハヤイコワイ!」

 怖がって必死に叫ぶ雪乃を、瑞枝は明らかに面白がっていた。

 「ハハハ、なに怖がってんのさ!」

 「だ、だって昨日あんな怖い目にあってるし!」

 「あ、そっか」

 確かに、昨日のことを思うと無神経な振る舞いではあった。瑞枝は少し反省して、スピードを緩めた。それでも、普段より大分速めのスピードではあったが…。

 「こ、これなら何とか」

 雪乃は、ほっとして、しがみついていた腕を少し緩めた。

 「ごめんね。雪乃があんまし怖がるからさ、面白くなっちゃって」

 「ひ、ひどいよ~」

 瑞枝は平和通りに入ると、そのまま商店街を駅に向かって進んだ。二人を乗せた自転車は人を縫うようにして縦横無尽に走っていった。


 暫く走っていると、雪乃の目に”緑のフライトジャケット”の映像ががすれ違いざまに飛び込んできた。もしや、と思った雪乃は、振り返りその姿を目で追った。後姿ではあったが、華奢な体つきと特徴的な長い手足はあの青年に間違いなかった。

 「あっ!」

 と叫んだ雪乃は、そのまま自転車から飛び降りた。

 「ちょっ!なに!」

 雪乃が飛び降りてしまったため、急に後ろが軽くなった自転車は、途端にバランスを崩していた。一方飛び降りた雪乃も、飛び出した勢いでバランスを崩し、よろけて転びそうになりながらも、まるでケンケンでもするように、片足のまま数歩飛び跳ねていた。

 「と、と、と…」

 転びそうになるところを何とかこらえて体制を立て直した雪乃は、そのまま一目散に青年を追いかけて走り出した。一方、バランスを崩した瑞枝のほうも、後輪をドリフトさせるようすべらせて、傍目には颯爽と自転車を止めた。そして、振り返りざま雪乃を怒鳴りつけた。

 「雪乃!あぶないっしょ」

 しかし、雪乃は走ったまま振り返り、瑞枝に一言言った。

 「用事出来た!ごめんね~」

 「なにさ、それ」

 瑞枝は半分呆れ顔で、走り去る雪乃を見送りながら、一言ポツリとぼやいた。


 一方、雪乃は瑞枝の方を振り返っている間に、青年の事を見失ってしまい。走りながら辺りを必死に探していた。すると、少し走ったところで青年を再び見つけ、急いでその後を追った。そして、もう少しで青年に追いつくところまできたところで、何故か青年は突然振り返りもせず走り出した。まるで追ってくる雪乃に気付いて逃げ出したように、雪乃には見えた。

 「ま、待って!」

 雪乃は思わず叫んだが、青年はあっという間に雪乃と距離を空け、そのまま交差点の角を曲がって見えなくなった。雪乃も交差点まで走り、青年が向かった方角を見たが、もうそのとき青年の姿はどこにもなかった。

 「えっ、なんで?どこいっちゃったの」

 雪乃は息を切らしながらそうつぶやくと、暫く辺りをキョロキョロと見回した。そして、少し息が整ったところで、もう一度青年がいなくなった方向へ向かって走り出そうとしたそのとき、ドンと後ろから誰かがぶつかってきた。

 「きゃっ」

 「わっ」

 雪乃は振り返りぶつかってきた人をみて驚いた。あの青年だ。確か、雪乃が今行こうとした方向に行ったはずなのに、全く逆の方から現れたのだから。青年もここに雪乃がいるとは思っていなかったらしく、かなり驚いている様子だ。

 雪乃は驚きのあまり何も言えず、立ちすくんでいた。青年のほうは下を向いて、いかにもばつが悪そうに、しきりに首の後ろを掻いていた。

 そのまま、暫く時間が過ぎた。

 「ごめん」

 すると突然、青年はそう言って、踵を返し走り去ろうとした。雪乃はその後姿にあわてて声をかけた。

 「待って!」

 その声に青年は思わず立ち止まった。

 「昨日助けてくれた人ですよね!」

 雪乃は立ちすくんでいる青年の背中に語りかけた。

 「トラックに轢かれそうになったとき、引っ張って抱きかかえてくれて」

 必死に訴える雪乃の声に、青年はすっかり気押されてしまった様子で、後ろを向いたまま首の後ろをしきりに掻いていた。

 「三条の本通のトクノの前の!」

 「いや、だから」

 ついにたまらず青年は振り返り言った。

 「見覚えないです?あれ私です!轢かれそうになったの!」

 「いや、ね」

 青年は何か言い返そうとしたが、じっとこちらを見る雪乃の強いまなざしに、思わず青年はドキリとしてしまい、少し恥ずかしそうに視線をそらすと、そのまま黙り込んでしまった。

 雪乃も青年が言いかけた言葉が気になり、次の言葉を出せず黙り込んでいたが、何かに気づいたように「あっ」と小さくつぶやくと、眼鏡をはずして言った。

 「昨日コンタクトだったから、眼鏡してたんでわかんなかったかもしれないけど、あれ、あたしなんです!この顔なんです!分かります?」

 雪乃は青年の方に駆け寄って、必死に顔を近づけた。

 「うん、いや、その、分かる…けどね…」

 青年は恥ずかしがってキョロキョロと周りを見ながら、小さくぼそぼそと答えた。

 「あの、お礼がしたいんです。助けていただいたお礼。どうしてもしたいんです!一緒に!一緒に来て下さい!お願いします!」

 雪乃は一歩後ろに下がって青年から離れると、そのまま青年に向かって深々とお辞儀をした。いつの間にか、二人を遠巻きに囲んだ人垣ができていて、その様子をじっと見ていた。

 「いや、分かったから、その、顔上げてね」

 雪乃の思わぬ行動と、集まってきた野次馬に、青年もすっかり戸惑ってしまい、何とかその場を何とか取り繕おうと必死に雪乃をなだめたが、その当人はただただ必死に頭を下げるばかりだった。

 「お願いします!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る