全てが霞む世界の中

 二十五年前の秋。


 「ひゃあっ!」

 学校帰りに瑞枝と二人、当時、旭川随一の繁華街であった平和通り買物公園を自転車で走っていた雪乃は、不意に現れた雪虫の群れに頭から突っ込んでしまい、思わず大声を上げた。

 「ははは、雪乃、とろくさー。また突っ込んでるわ!」(とろくさ=とろくさい:とろい、まぬけ)

 運動神経のいい瑞枝は、突如目の前に現れた雪虫の一群にも、体勢を低くして上手くかわしていた。そして、そのまま群れの中に突っ込んでしまった雪乃の無様な様子を見て、大声で笑っていた。

 「ぺっ!ぺっ!口の中、入っちゃったよお」

 「ぼーっと口開けってっからさ!」

 「うーっ、きぼぢわるいよお」

 舌を出して嘆く雪乃の情けない顔を見て、瑞枝はまた大声で笑った。

 (だから、雪虫って嫌いなんだよなあ)

 雪乃が雪虫の群れに突っ込んでいくというのはよくあることで、近所の雑木林に現れる雪虫たちにもいつも悩まされていた。この時期になると、その雑木林の周辺に蚊柱のような雪虫の群れが発生していて、目のあまり良くない雪乃は、コンタクトを着けていても、その小さな虫たちは近くまで来ないと認識することができず、気が付いたときにはそのまま群れの中に突っ込んでしまうという失態を何度も繰り返していた。


 しばらくして、二人が『TOKUNO』と看板のあるデパートの横を通り過ぎたとき、雪乃は不意に誰かの視線を感じた。雪乃が視線の方向を向くと、ちょうど看板の真下辺りに立っている青年と目があった。その青年は、少し前に流行っていたくすんだ緑のフライトジャケットにニット帽といった出で立ちで、パッと見どこにでも居るような感じの男性だったが、その体つきは、少し高めの身長と比べるとひどく華奢で、手足も異様なほど長く感じられた。加えて、その肌は突き抜けるように白く(雪国育ちの雪乃が嫉妬するほど)、その細面の端整な顔立ちと相まって、まるで別世界から現れた王子様のように雪乃には思えた。青年は、目が合った瞬間少し驚いたように雪乃には見えた。

 (誰だろう、どこかで会ったことある人かなあ)

 雪乃は青年の横を通り過ぎながら、思わずその顔をぼーっと見つめていた。

 (でも、ちょっとカッコいいかな)


 「雪乃、余所見してると危ないよ!」

 急に掛けてきた瑞枝の声に、雪乃は”はっ”と我に返り前に向き直った。すると突然、目の前に雪虫の群れが再び現れ、雪乃はそのまま群れの中にまた突っ込んでしまっていた。

 「わっ!わっ!わっ!」

 驚いた雪乃は思わずバランスを崩してしまい、そのままふらふらと交差点の真ん中に出てしまっていた。

信号は『赤』。

 「きゃーあ!」

 大声で叫ぶ瑞枝の声が背後から聞こえたとき、雪乃は猛スピードで自分の方へ走ってくる一台のトラックを見ていた。足が竦んでしまった雪乃は、迫り来るそのトラックを見つめる事しか出来なかった。

 (あ、もうダメだ)

 諦めの言葉が脳裏をよぎり、雪乃はギュッと目を瞑った。その瞬間、誰かの手が雪乃の襟首を掴むと、自転車をその場に残したまま、身体だけがグイッと強い力で後ろへ引っ張られるのを雪乃は感じた。

 

 ガシャン!!

 足が自転車から離れると同時に、雪乃の耳にトラックと自転車がぶつかる大きな音が聞こえた。続いて、キーッという甲高いブレーキ音と、ギシギシと引きずられる自転車の不快な金属音があたりに響く中、弾かれるように後ろへと引っ張られた雪乃は、何者かに身体を抱きかかえられたまま、ゴロゴロと道路を転がっていった。


 ブレーキ音が止み、トラックが停止すると、辺り一帯はすっかり静まり返っていた。雪乃は、ゆっくり目を開けて、そっと自分の周辺を見回した。自分がまだ生きているという事だけはぼんやりと理解できたが、何故か視界が霞んで靄がかかったようになってしまっていて、周りの状況や自分がどうなっているのかを把握することは出来なかった。どうやらコンタクトを落としてしまったらしい。

 すると、雪乃のことを覆いかぶさるように抱きかかえていた何者かが、抱えていた手を離し、少し体を起こすと、窺うように雪乃の顔を覗き込んだ。それは最初、半透明の影のようにぼんやりとしか雪乃には見えなかったが、まばたきを繰り返すうち、その影は次第に実態を持ち始め、全てが霞む世界の中で、彼の姿だけがはっきりとした像を結んでいた。

 半透明の影に見えたのは、その肌の白さのせいだった。雪乃の顔をのぞきこんでいたのは、さっき『TOKUNO』の看板の下で立っていたあの青年だった。たった今、死にかけていたという事もすっかり忘れて、その端整な顔立ちと、どこか現実離れしたその風貌を、雪乃はただ見とれていた。

 

 「雪乃!」

 自分の名前を呼ぶ大きな声に、雪乃は再び我に返ると、ぼんやりとしか見えていないが、多くの影が幾重にも重なって二人を取り囲んでいることにようやく気づいた。すると、その中をなんとなく見慣れたシルエットが周りを取り囲む影をぐいっと掻き分けるようにして出てくるのが見えた。そして、そのシルエットが雪乃のほうに駆け寄ってくると、入れ替わるように青年は立ち上がり、霞の中へと消えていった。

 「ね、大丈夫!大丈夫!雪乃!」

 駆け寄ってきたシルエットが雪乃の身体を抱きかかえると、切羽詰った様子で顔を覗き込み言った。瑞枝だった。目の前に来たおかげではっきりと見えるようになったその瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。

 大丈夫?大丈夫?と何度も訊ねながら、瑞枝は雪乃を抱きしめ、ゆっくりとその体を起こすと、心配そうにじっと雪乃の顔をじっと見つめていた。しかし、雪乃はそんな瑞枝のことを気にかける様子もなく、キョロキョロとあたりを見回し、ポツリと一言もらした。

 「コ、コンタクト」

 「なに?」

 瑞枝は雪乃が言っていることの意味がわからず聞き返した。

 「コンタクト、落としちゃった…」


 その暢気にすら思える雪乃の言葉に、瑞枝は思わず怒鳴り声をあげた。

 「バカ!なに言ってるのさ!もうダメかと思ったんだよ!あんた…。あんたね、死ぬとこ…。死んじゃうとこだっだんだよ!」

 そう言って、雪乃を更にギュッと抱きしめると、瑞枝は大声を上げて泣き出した。

 ただ、そんな親友を尻目に、雪乃は相変わらずキョロキョロと周りを見回し、しきりに青年の姿を探していたが、彼は人混みの中に消えてしまっていて、ついに見つける事は出来かった。

 辺りはいつの間にか夕暮れの赤い光に包まれようとしていた。


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