僕のかみさま - 4/4

 共同学舎の裏には、赤くなり始めた空に照らされて、二つの影が長く伸びている。


「『それに私は誰と通ずるつもりも、神掟をやぶるつもりもない』って、お師匠、言っとったき」

「はあ、そんな見え透いた嘘言わるんえね。雲奎はんがサンと通じ合ってないなんて言うつもりか」

 件の小姓は雲凛の手から半紙をひったくると、それと反対の手で凛をどついた。雲凛は数歩後ずさったが、今度は尻餅をつかずに済んだ。半紙の中には、猫のヒゲを数本入れ込んであった。小姓への台詞も含めて、雲快の入れ知恵だ。

 立ち去る小姓の背中を、凛は睨んだ。

 いずれ川平子になったら、兄さんらの手で髪を編んでもらえるくせに。その髪を優しく指で梳いてもらえるくせに。丹精込めて兄さんらが作りなさった簪を、そっと挿してもらえるくせに。それ以上、何を望むというのだ。


 白く繊細な指先が、長く伸びた黒髪を優しく梳り、瞬く間に編み込み、重ね、結い、そして無数の蝶を飾り、美しく命を与えていく──それは雲凛が、初めて雲奎の髪結いを覗き見たときの景色だ。食匣丁稚だった雲凛は、その日のうちに雲奎の髪結い部屋に押し掛け、弟子にしてくれとゴネたのであった。


「探したよ、凛。採集行く約束じゃろ」

あにさん」

 雲快が、立っていた。脇に蝶の採集に使う長い麻布を丸めて抱えた雲快は、火を起こす道具と薪を雲凛に差し出した。雲凛はそれを黙って受け取った。

 雲快はいつから見ていたのだろう、と雲凛は思った。音もなく出現するのは、雲快の癖なのかしらん、雲凛は時々、雲快を妖精の一種のように感じるときがある。

 二人は、蝶の採集を夜にかけて行うために、学舎の奥にある、小高い場所の雑木林に向かう。黙々と雑木林へ続く道を歩く二人の、沈黙を破ったのは意外にも雲快だった。


「ああいう穢れを髪結いの世界に持ってきてはいけないき」

「川平子たちも穢れてるの? 川平子はみんな、神様のお使いさんなんでしょ?」

 雲快は少しだけ狼狽して、それからやっと言葉を選んだ。


「……凛は、雲奎さまのようになりたかろ?」

「うん。でも、雲奎さまはサンとねんごろやて、こしょさん言うてた」

「雲奎さまは優しいだけじゃ、──かみさまみたいに」


 雲快が雲奎に弟子入りしたときのことや、その経緯を雲凛は知らない。だから、どうして雲快が雲奎をそこまで信仰しているのか、よくわからなかった。


「ねえ、兄さん、神様を信じてなくても、立派な髪結いになれるん?」

「なしてそがいなことを聞く?」



「だって、兄さん……兄さんは、ホントはちっとも神様を、尾白様を信じてないじゃろ? 兄さんは、雲奎さまを信じてるだけじゃろ?」


 足元を見ながら歩いていた雲凛は、突然立ち止まった雲快の背中にぶつかった。顔を上げると、呆気にとられた雲快の顔があった。雲快はそのまま雲凛と顔を少し見合わせ、そして困ったように笑った。


 雲凛が、物静かで聡明なこの兄丁稚の笑った顔を見たのは、後にも先にもこのときだけだ。雲快はすぐに前を向いて歩き始めてしまった。雲凛は頬が熱くなるのを感じながら、小走りで後を追った。

 雲凛は前を行く雲快の絹のような黒髪が、歩みに合わせて左右に揺れるのを見つめた。夕日を受けて、きらきらと光っている。髪結いの髪は、長さが十分になると切り取られ、川平子のためのかつらになる。自分の癖っ毛ではきっと綺麗な鬘は作れないだろう、と雲凛は思う。

 雑木林に出ると、雲快が脇に抱えていた白い麻布の二つの角を二人で持って、広げた。それぞれの角についた紐を、手頃な枝に結びつける。日がすっかりくれてしまう前に火をおこさなければ。あれきり黙ってしまった兄丁稚に、寂しくなった雲凛は声をかける。

「兄さん、僕、八十やそ編みの練習したい」

「応、あとでな」




 天燈町の日が暮れようとしている。空は血のように焼けていた。

 きたるべき祭祀が時事刻々と近づいていることに、皆の心がざわついていた秋の日。


 なぜだろう、雲凛はこの秋の日を、それからずっと忘れられない。

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川平子譚(かいらしたん)─天燈町の話─ りう(こぶ) @kobu1442

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