終節 間違いなく幸福だ
七つだったタイタイの父や母や兄姉も次々と倒れ、健康なのは彼一人。まだ小さいから、と多めに食事を与えられていたとはいえ、少し不思議な子供だった。
青みがかかった灰色の髪は、生まれついてのもの。先天的に
家族を病から救ってくれる者を探していたタイタイに、離天荒夢が眼をつけた理由がそれだった。
――お前の家族の病は治してやろう。その代わり、何でもするか?
――はい、ぼくにできることなら、よろこんで!
かの邪仙は、嘘はつかなかった。
家族は確かに治療したが、その後危害を加えぬとは言っていない。タイタイの体に一家の【魂】を埋め込んだから、彼と共に家族も何でもするのだ。と。
『
天を舞う極彩色の巨鳥――
羽毛の一つ一つは
空飛ぶ骨の大蛇と化していた狗琅真人は、浴びせられた呪を解析した。機序を把握し、術式の起点と終点を接続、無限円環処理に陥らせて無効化する。
そこで狗琅真人の霊的資源はほぼ底を尽いた。今の姿と飛行を維持することは出来るが、もう一度何かぶつけられたら、この分身を破棄するしか無い。
後には地底湖に鎮座する、無力な本体が残されるのみだ。
『カカッ。意外と持ち
羽毛を震わせて瑣慈は
所詮眼の前の相手は分身、こうして術比べをしていても埒が明かぬのは分かっている。全てはイン・キュアが、〝
コージャン・リーは、仮にも
七殺不死の未熟な武術では、コージャン・リーの力を正確に再現する〝
瑣慈のそうした目論見を、狗琅真人も当然把握していた。今この場で、数少ない戦力である分身を失うのは痛い。
(ウォン君一人で、瑣慈と
果たしてあの少年は、無事に作戦を遂行できただろうか?
その疑問に対する答えは、本体側からすぐ得られた。
狗琅真人が地下の様子を把握すると同時に、瑣慈も事態の急変を察知する。濃厚に漂う冥界の空気と
『……何が起きた?』
冥界に出入りすること自体は、ある程度力をつけた道士程度でも出来る。だが、短期間でも冥界の一部を現世に解放するのは、上級
『タイタイ……くそっ、いつの間に冥府に協力を取り付けて!』
『いやあ、当たり前じゃないか』
狗琅真人は、髑髏の中で燃える蒼い火をゆらゆらと揺らした。さも愉快そうに。
『一千近い【魂】を蓄えた外法重魂体と、真正面から戦う訳ないだろう?』
『
このまま逃げるにしても、赫煉利剣だけは回収せねばならない。瑣慈は
◆
「ぷはっぁ!」
水面から引きずり出され、ノイフェンは/
一体どういうことだろう、と彼女は自分の体を見下ろして戦慄した。忘れもしない虚ろな闇の色、
「は、離して!/離せ、離しなさい!」
「お蝶さん、落ち着いてください! あとチャ先生も!」
同時に叫ぶ姉妹をウーはなだめた。二人――体は一つだが――が声の方を見やると、そこには黒い触手を体から伸ばすウー少年がいる。
「なんだ、
「あっはい、お久しぶりです」
戸惑うように曖昧な微笑みでウーは頷いた。思えば、彼の前で姉妹同時にしゃべるのは初めてだから、戸惑っているのだろう。
ほんわかした表情のノイフェンから、きつい顔つきの白魂蝶へ地続きに変化するのだから、見ている側はさぞかし奇妙な気持ちになるに違いない。
「
「はい。チャ先生まで冥界に流されないよう、がんばりました!」
えっへんと胸をそらすウーに、ノイフェンは偉い偉いと拍手した。にょろりと捕喰肢が腰から外され、ウーの体内へ戻っていく。
実際、この作戦の懸念はそこだった。
キュアが喰らった【魂】を分離すれば、現世に門を開いた
捕喰された者たちも、冥界に渡れば家族に死亡の旨が通知される。行方不明で処理されていた人間も、それで反魂手続きが可能になるだろう。
しかし、それに姉妹が巻き込まれては困るのだ。白魂蝶は改めて、胸中で感謝した。ところで、当のイン・キュアはどうしたのか?
白魂蝶が首を巡らすと、そう離れていない場所で、剣を握りしめたままうずくまる男の姿があった。 生きているのは確かだが、動き出す様子がない。
「じゃ、トドメ、よろしく……」
へたりと白魂蝶はその場に寝転がった。
筋肉を引き締めて無理やり傷口を塞いでいるが、脇腹には刺し傷が残ったままなのだ。そうでなければ、キュアの骨を全身折り尽くしてやりたい。
「お蝶さん」
「手当てなら自分で出来る。ほら、行きなって」
ウーは少し迷ったようだが、改めてキュアの方へ向き直る。
イン・キュアには一千近くの【魂】が蓄えられ、ウーとの間に絶対的な戦力差を生み出していた。【魂】から引き出される
単純な数の暴力……その上、確実に始末するには八百回近く彼を殺す必要がある。他の仙人が加勢してくれるならばまだしも、ウーたち三人では無理な話だ。
なればこその、鬼仙の力を借りた賭けの一手だった。
作戦は功を奏し、ウーの勝利宣言を受けてから、イン・キュアは動きを止めている。ぼんやりと虚空を見つめる表情は、自分自身に帰りきれない迷子のようだった。
あるいは、誰のものとも分からぬ野ざらしのしゃれこうべ。
(――俺は誰だ?――)
実際、彼の中からは既に、自己認識が欠落していた。
その代わり、瑣慈によって被せられた偽装も剥がれ落ち、おぞましい記憶がよみがえった。ぎこぎこと
――どうして! どうして、せっかくしんでいたのに。
――煩いなあ、後でもう少し頭のネジを弄って上げるよ。いいかい? お前がこんな目に遭うのは、タイタイと、コージャン・リーって奴らのせいなのさ。
――そんなのしらない。ぼくは、もういきていたくない!
苦痛と恥辱の汚泥を、キュアは自らの腹わたから見出だし、それにすがる。
元より複数の【魂】を無理矢理混ぜ合わせ、
(あのおんなが、にくい)
自分自身を見失いながら、その憎悪と、もう静かに眠りたいという思いだけが一つ星のように確かだった。その星が鳴くのか、誰かがそっと、だが重々しく囁く。
――安心しな。今度はきちんと、死なせてやるよ。
と。
「あと何回ぐらいやれば死ぬんですかね、あなた」
再び剣を向けるウーにも、キュアは反応しなかった。
無抵抗の相手を斬り刻むのはさすがに気が引けるが、いっそ殺さず手足を落とした方が良いのかもしれない。頑張れば一撃で落とせるかな、とウーは楽観視した。
剣を構えた、その時。
『キュア!
地底湖の空間に、朗々と瑣慈の声が響き渡る。その余韻も消えぬうちから、天井をすり抜けて極彩色の巨鳥が姿を現した。赤青黄緑と目に痛いくらいの色彩が束になり、くるくると
キュアが顔を上げ、剣を持って走り出した。あっと声を上げてウーもそれを追うが、先程まで腑抜けていたとは思えない俊敏さに出遅れる。
『撤退するよ、タイタイの始末は次の機会に――』
赤い龍が描かれた大剣が、振り上げられ、振り下ろされた。
「黙れよクソ女」
キュアの口から発せられたその言葉を、瑣慈は右の肩口から左脇腹まで、一刀両断にされながら聞く。え、と彼以外の全員が、異口同音に声を漏らした。
「おぼっ……!?」
瑣慈は口から、傷から、ばたばたと血の奔流で石畳を叩き、それに引っ張られる形でへたり込んだ。キュアを見上げる表情から、みるみる気力や活力が蒸発していく。
天井をすり抜けて、今度は空飛ぶ骨の大蛇が現れた。それはぎゅるりと捻れて狗琅真人の姿を取ると、あでやかなほど喜色を頬に浮かべる。
「リーくん、お帰り!」
「えっ、師父!?」
ようやく理解したウーに、今やキュアの体を乗っ取ったコージャン・リーは片手を上げて応えた。顔は赤く虚ろな義眼の男、だが、中身は確かに彼なのだ。
外法重魂体・万神万死。そう名付けられた小さな子供の最期は、自らが注ぎ続けた内力を逆流させての内部破壊だった。
(今度こそ静かに眠れよ、イン・キュア)
狗琅真人が仕込んだ符呪に頼るまでもなく、ノイフェンと白魂蝶姉妹の呼びかけによって、コージャンは剣にされながらも意識を取り戻していた。
キュアが大量の【魂】を引き剥がされたことで、それまで自身を抑えつけていた内力も無くなり、ようやく復活した次第である。
「あァ……
めまいを覚えたように、キュア=コージャンは手のひらで自分の額を押さえる。
「ま、こいつの首を落としゃ、スッキリすんだろ。それとも、後はお前がやるか?」
コージャンが振り返った時には、傍らに狗琅真人が立っていた。
「ウン、後は任せて欲しいな。君の体のことも、私が何とかするから」
「あいよ」
きびすを返し、手を振りながらウーの方へ向かおうとすると、先んじて少年が迎えに走る。抱きつきたいが、どうしようかなとその場で足踏みを始めた。
「師父! ええっと、姿は違いますけど、おかえりなさい!」
「おう。まあ、なんつうか、酷い目に遭ったな、お互い」
「へいきです!」
「無理はすんなよ。それより、――お前も強くなったな」
ぐっと言葉が詰まって、言葉を押し上げようとする気持ちが胸中で膨らんで、じゅわーっと両目から溢れる。ウーはなすすべ無く、熱いものが流れるに任せた。
泣くなよと言いかけて、あえてコージャンは見ない振りをする。好きなだけ泣けばいいのだ、こういう時は。だから、彼はしばらくは何も言わないことにした。
◆
「がっ……ぼ、うぅ……っ!」
失血でガタガタと震えながら、瑣慈はその場から逃げることも出来ない。残っていた智能人形から霊的資源の供給を受け、狗琅真人が彼女に金縛りをかけていた。
ある程度の仙人には当たり前の防護方法だが、コージャンは異なる位相すら突き抜けて瑣慈を一刀両断、斬り捨てた。化け物め――化け物め!
今や赫煉利剣はあちらの手にあり、目の前には艶然たる笑みの狗琅真人がいる。
「嗚呼、嗚呼、うらやましいな。君は幸せだよ、瑣慈
笑み、笑み、亀裂のような、ぽっかりと開いた深淵のような。
「私たちはみんな、何の理由もなく、ただあの時あの場で離天荒夢に出遭った。それだけの偶然で、奴の研究だとか実験だとか私たちには無関係な理由で、焼き殺され、殴り殺され、凍て殺され、刻み殺され、溺れ殺され、絞め殺され、食い殺された」
歌うような狗琅真人の語りは、瑣慈の耳には鼓膜を硝子片でこするように響いた。今すぐ逃げなければと思うのに、もはや指一本たりとも動かせない。
「私はね、その時のことを一つ一つ、ちゃあんと覚えてるんだ。自分の脂が焼けてあふれるのも、君が私の目をえぐって遊んだことも、許しを乞いながらじわじわと寸刻みにされたことも、首に食い込んだ縄の感触まで残らず」
笑うその眼は、糸のように細長く、鋭く、刃物に似ていた。たっぷりと憎悪の毒が塗られ、愉悦に照り輝く、触れたものをやわに焼き切る復讐の刃。
「分かるかな? 伝わるかな? ただの偶然で降りかかる地獄と、きちんとした因果の辻褄で突き落とされる地獄なら、そっちの方がどんなに幸せなのか。嗚呼、瑣慈太夫、君は間違いなく幸福だ。
万雷の拍手の幻聴を、瑣慈ははっきりと聞いた。震えながら問う。
「ワタシに何をするつもりだい?」
「もちろん説明するよ、その方が君も怖がってくれるよネ? 私はね、七回殺された記憶を大事に大事に、劣化しないよう細心の注意で保存していたんだ。いつ開いても、生々しく追体験できるように。たっぷりの容量をそのためだけに割いて」
その意味を理解して、瑣慈の顔色が紙のように白くなった。
「だから、これからそれを君に転送し、固定する。私は嫌な思い出を消せて嬉しい、君は、私たちの苦しみを永遠に追体験して発狂する。本当は離天荒夢への取って置きだったけど、あの時はそんな余裕もなかったしネ。だから君がいてくれて嬉しい」
狗琅真人は瑣慈の顎を掴むと、細く白い指をずぶりと邪仙女の額にもぐりこませた。悲鳴と共にえぐり出されたのは、青く輝く石のような器官。第三の眼だ。
小指の爪ほどしかないこの部位は、仙人の様々な超常力を司る。狗琅真人の額もまた縦に裂けると、同じく光る眼が現れた。
無理やり露出された瑣慈の眼に、狗琅真人は己の眼を重ね合わせる。それは、全身を雷で串刺しにされる衝撃だったに違いない。
自らの喉も舌も、千々に引き裂かんばかりの悲鳴がほとばしった。
◆
「うーわー」
姉妹の傷の様子を確認していたウーは、迷惑そうに耳を塞いだ。ぎゃあ、ともひい、とも違う。ぴいいいい、とか、みいいいいい、とか。何とも形容できない声。
「派手にやってんなー」
満足そうな顔でこちらにやって来る狗琅真人に、コージャンはのんびり所感を述べた。あの邪仙女に何が起きたのか、聞きたくもないという心境だ。
「ちょっと、あれいつまで続くの?」
やや顔色の良くなった白魂蝶は口を尖らせた。じっと座って気を巡らせ、傷を癒やしている最中にこれは勘弁して欲しい。
「さあな。仙人だから、百年だってこのまま叫んでるかもしれねえぞ」
「なんか想像したくないですねえ」
師弟の意見を受けて、狗琅真人は「ふーむ」と考え込むと、瑣慈の所へ戻った。もはや彼女は外界に反応しない様子で、されるがままである。
喉のあたりに触れると、ぴたりと悲鳴が聞こえなくなった。
「よし、止まった。さすがにうるさいしネ」
「へえ、気持ちいい音だ~って
ウーが意外そうな顔をすると、狗琅真人は「こら」と笑った。
「私をどんな音痴だと思ってるんだネ。こんなものは、もうただの不協和音だよ」
「でもご機嫌って感じですよね」
「それは認めるよ」
指示を受けた智能人形が動き、どこからか持ってきた担架に姉妹を乗せる。彼女たちは、上へ連れて行って治療しなくてはならない。
コージャンが狗琅真人に剣を渡すと、キュアの体はその場に崩れ落ちた。
「師父、元に戻るんですか」
「無理だネ」
「えーっ!?」
話が違う! ウーは地団駄を踏もうとしたが、狗琅真人は「剣を手に入れろ」と言っただけで、ちゃんと戻せるとは約束していないな、と思い出した。
するとコージャン師父は、これからずっとキュアの体を使うのか? それは……ちょっと嫌かもしれない……でも師父が生きてて嬉しい……。
ぐるぐると頭を抱えて悩むウーに対し、狗琅真人はあっけらかんとしたものだ。
「なに、大したことじゃないさ。人間の姿なんて、変化術ですぐ手に入る。後は本人の意識次第だけれど、前より少し、人間より剣の変化妖怪に近くなるねネ」
若仙は祭壇へ行くと、丁重に剣を横たえた。片手で印を組み、何やら口訣を唱え、帝鐘を振り鳴らすことしばし。
やがて、剣が白熱したように光を発し、ぐにゃりと形を変えて地面へ降りると、すっくと立ち上がって人の形になる。
光が収まると、そこに居るのはコージャン・リーその人だった。
裸の人間というものは情けない存在だが、筋肉で
そして、おお、その制御不能なまでに凶悪な顔つきときたら!
火山から生まれて溶岩をそのまま被ったような逆立つ赤毛。やけに発達の良い犬歯と鋭い四白眼は、野獣のような悪性を印象づける。
黙って立っているだけで、嵐の前の静けさと勝手に思わされる威圧感は、ほとんどの人間が尻込みしてしまうだろう。
けれど、彼の一番弟子で息子であるコージャン・ウォンには関係ない。
「おとーさん!!」
ウーは今度こそ、ようやく帰ってきた父の胸に飛び込んだ。ああ、自分は今、間違いなく幸福だな、と思いながら。
【赫煉理之剣 終】
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