第三節 僕は稲妻を見逃さない
「そんなに妹に会いたいか」
剣で
「お蝶さん!」
ウーが叫ぶ間に、女
後には、熱を奪われた空気が、ひやりと少年の頬を撫でるだけ。
「
「そうだな」
瑣慈がその場で足を踏み鳴らすと、大地が放射線状に裂けて二人を呑み込んだ。かと思えば、後には平らな中庭の地面が残されている。
ウーは瑣慈の立っていた場所を確かめようとした。一歩踏み出せば、そこは温水地底湖に変わっている。眼の前には、もはや笑みを浮かべぬ
「……
「知っているよ。彼女には保険もかけておいたから、心配しなくて良い」
辺りには、
「どのみち、連中はこちらへやって来るんだ。我々だけで迎撃するしかない」
「今だけは頼りにしてますよ、狗琅真人!」
地底湖の水面にさざなみが走り、中庭から下の階層へ移動した瑣慈たちを映し出す。その姿を睨みつけながら、ウーは悔しさに耐えて唇を噛んだ。
◆
瞼を開きかけたコージャンが動きを止めたのを見て、ノイフェンは首を傾げた。肩でも叩いて呼びかけたい所だが、それはかなり危険に思える。
今のコージャンは、幾千幾万の刃物から刃だけ折り集めて形作ったような、剣呑な金属の座像と化しているのだ。怪我をしないよう、これに触るのは難しいだろう。
「困ったわねえ……」
はふ、とため息して自分の頬を撫でる。何とか脱出したいのだが、一人でこの明るい場所を離れて、一寸先も見えない闇の中へ戻るのは嫌だった。
どくり、と動悸が己の体を震わす。
腹の底にどろりと流れる、どこか粘性の奇妙な鼓動だった。なぜこんなものが? ノイフェンは訝しみながら背後を振り返った。なぜか、振り返ったのだ。
そこに、自分と同じ顔をした女の影が横たわっている。眼の前ではなく、遥か遠い闇の先に。鼻を触る手すら見えない暗闇の中なのに、はっきりとそれが分かる。
「――姉さん?」
ノイフェンはコージャンに背を向けると、白魂蝶の元へ走り出した。
◆
キュアと瑣慈は、
下を通るだけで昏倒する旗飾り、金属製の人食い甲虫、道順を混乱させる幻術、隠し通路、動く壁に吊り天井。急ごしらえで頑張った方だろう。
「どんどん破られていきますね」
湖面に映る映像でその様を眺めながら、ウーは眉をしかめた。
「これで連中が倒せるとは、君も思っていないだろう?」
「まあそうですけど」
狗琅真人は罠の専門家ではないが、伊達に自給自足が基本の仙人を二百年やっていない。一通りの
湖の岸に立つ二人の周囲では、智能人形が武器を運んだりそれぞれの位置についたり、忙しなく動き回っている。
「これであなた自身、まともに戦えれば良かったんですけどね」
「山を動かす怪力、目にも止まらぬ俊敏な動き、素晴らしいネェー。でも私の場合、五十年ばかり修行してもまったく身につかなくてネ。才能がないんだよ」
「よく今まで生きてこれましたね!? なんでそこまで運動神経ないんですか!」
「君は私を罵倒するためならば、道理を無視する癖を改めた方がいいよ」
話しながら、二人は地底湖に背を向け、正面の赤い大扉を見た。ウーは岸辺に突き立てられた剣の一つを抜き、空いた手で剣指を結んで構えを取る。
「来たネ。覚悟を決めようか」
「やってやりますよ」
仙人と少年が言葉を交わすと同時、扉が打ち破られた。
長い白髪と黒い着物の邪仙・瑣慈と、
「イン・キュア! お前のしけた骨壷みたいな顔も、これで見納めにしてやる!」
「意気がっちゃって、可愛いね」
瑣慈の投げ
「ここまで来たら、奴は始末出来るな? 俺は紛い物を片付けるぞ」
「いいよ、適当に遊んでおいで」
ウーの方へ向かう男を横目に、瑣慈は狗琅真人へ向き直る。若仙の前では、智能人形たちが陣形を組んで守りを固めていた。
智能人形は
そしてこれは瑣慈も知っている情報だ。一番外側を固めている乙三体を倒せば、後はものの数ではない。問題は、狗琅真人本体の神樹だ。
(
じっと〝第三の目〟でそれとなく樹の様子を伺いながら、瑣慈は智能人形を潰しにかかった。腕の一振りで
狗琅真人は歯を噛み合わせ、ガチンと音を立ててそれを
「
曲げた四指に親指をくっつけて拳を作る
落雷の轟きと閃光を横に、ウーはキュアと対峙する。
狗琅真人から告げられたウーの残機は二十五
ウーは
(これは、
その
斬りかかろう、と剣を握る手首が斬り落とされた。機先を制す〝
瞬く間に二度の死、予想以上の実力差にウーは戦慄した。
(あと二十四……まるで勝ち筋が見えない!)
闇雲にウーは前へ出る。突き刺しの予備動作に剣先を上げる、その僅かな起こりをキュアの剣が押さえた。剣身にぐっと力をかけられ、手首が持っていかれそうになるのを堪える、その小さな力の移動を足払いに崩された。
頭を斬り飛ばされ、何の業を使われたかも分からない。
(あと二十二……ああ、分かってる、分かってるんだ!)
痛いと思う間もなく、嵐のような剣舞が、星のような閃きが、一つ一つ丁寧にウーから【魂】を奪っていく。一連の殺戮は、けれどどこか懐かしい音楽にも似て。
それもそのはずだ、自分は全て知っている。イン・キュアが繰り出す業は、
(あの業も、この
コージャン師父はあくまで「教える者」で、「殺す者」になろうとはしなかった。ウーに対して常に手加減し、技を見せ、説明し、鍛錬させた。それは正しい。
彼がウーを殺してくれたのは、山に居た時と、実父から捨てられたあの時だけ。
(僕は、あの時の稲妻がまた見たかったんだ)
こいつは師父じゃない、師父の意志で揮われない業は、本気の一撃と言えない。けれど、限りなくそれに近い。だから、とても楽しい。
いつか自分が強くなって、コージャン師父を殺す気で襲いかかったら、あの人はきっと僕を殺す気で迎え撃ってくれるだろう。それを制して初めて、コージャン・ウォンは
「あああああっ!」
掌を貫いた剣先を、不死の少年は握り込んで捕らえた。一瞬の驚きは刹那の
「追いつき、ました」
師父、僕は。半歩だけでもあなたに近づきましたよ。
「粋がるな、小僧。俺が十二回殺して、やっとお前は一撃だ。次は六回に一度か、三回に一度か、それとも俺が一度殺すまでに、十二回殺せるか?」
うぞうぞと、キュアの傷口が闇に染まり、粘つく糸を垂らしながら互いに絡み合うと、たちまち骨肉を繋ぎ合わせて修復していった。
「諦めろ、コージャン・ウォン。お前の勝機は万に一つもない」
「万に一つが、一万回目に来るなんて誰が言いました?」
万が一でも億が一でも、勝機を一度目に引き寄せればそれで勝ちと言うものだ。
自分がそこにたどり着くのに、後何度死ねばいいかは分からない。それでも、ウーは【魂】尽きぬ限り、戦う覚悟をとっくに決めていた。
◆
「……さん、姉さん!」
妹に呼ばれて、ふ、と白魂蝶は薄目を開けたが、何も見えなかった。なんだかやたらと眠くて、寒くて、けれど目を覚まさなくてはいけない気がする。
「ああ、良かった! 姉さ……お蝶、私よ、ノイフェンよ!」
「ノイノイ? そうか、
目をしっかりと見開いて、白魂蝶は自分が妹に膝枕されていることを確認した。多少見えづらくとも、互いの動きはなぜだかよく分かる。
「明るい所に行きましょ、お蝶。あっちにコージャンさんもいるの」
ノイフェンは立ち上がって姉の手を引いた。言われて白魂蝶が示された方を見ると、確かに明かりが見える。けれど、そこにいるのは。
「……なにあれ。コージャンじゃなくて、なんか鉄の像じゃない」
「ううん、コージャンさんよ。少ししゃべって、瞼もちょっと動いたの」
「あ、そっか。あの人生きた剣にされたから、中身もおかしくなってんだわ」
「え、なにそれ怖い」
逆に白魂蝶がノイフェンを引っ張る格好で、姉妹はコージャンの前へ戻った。
「コージャン・リー、白魂蝶よ、分かる? 狗琅真人から伝言。えーっと」
白魂蝶は深呼吸すると、光り輝く文字列を吐息と共にコージャンへ吹きかけた。事前に狗琅真人によって飲まされた符、その呪だ。
符呪が金属像と化したコージャンに貼り付き、ぼんやりと白い燐光を灯す。これが彼を目覚めさせることを、狗琅真人は期待していた。
「後は、ウォンと狗琅に任せるしかないってワケ」
「なら、安心ね。お蝶もここに居てくれるし」
「あんた、臆病なようで能天気よね」
ふふっと笑うノイフェンの声は、野遊びする少女のように緊張感がなかった。
◆
仙人の術比べは、互いが見ている世界の押し付け合いだ。それぞれの主観で相手を上書きし、己の世界に取り込んだ側が勝者となる。
狗琅真人は火だるまになりながら、声もなく
これは運動量を摩擦熱に変換する
狗琅真人は痛覚を最低感度に落としつつ、自発的に呼吸をも停止していた。息をしなくとも、しばらくは問題なく動けるのが仙人というものである。
当然、焼け死ぬのをのんびり待つ瑣慈ではない。雷法を仕掛けるが、ここに来て智能人形・甲が全機能を解放、三体がかりで結界を展開して受け止めた。
瑣慈はち、と舌打ち。人形が術まで扱うなど、コージャンも知らなかった隠し玉だ。六角形の光盾型結界、
その間に狗琅真人は解呪に成功。体表面に出来た重度の熱傷ごと、被せられた呪詛の
無傷で復帰した狗琅真人は、口から呪詛を組み換えた蒼い焔を吐き出し、瑣慈を火だるまに仕返した。だが同じ運動量・摩擦熱変換の式が
「
瑣慈の哄笑と共に、
ここは火山ではないが、千里先の人里からはそう見えた、と当時の記録は伝えている。実際には、山の中腹が爆発し、噴煙の柱と共に一組の異形が飛び出したのだ。
それは極彩色の羽根を持つ巨鳥と、骨で出来た空飛ぶ大蛇であった。蛇の頭部はしゃれこうべで、虚ろな内部にめらめらと燃える蒼い火を湛えている。
その正体は術比べが次の段階へ進み、変化術を駆使し始めた仙人たちだ。今やどちらが狗琅真人で、どちらが瑣慈か、ウーには見当もつかない。
キュアの手で殺され続けながら、不死の少年は透徹した瞳で嵐を見つめている。
そう、ウーには見えるのだ、人が生涯ただ一度
なぜならウーは、ずっとそれを見つめ続けてきた。
なぜならその稲妻は、かつてウーのためのものだった。
彼の人は父であり師であり、その剣を授けると約束したのだ。
(見える、見える、見える。そうだ、僕はこの稲妻を見逃さない)
もう何度殺されたかもどうでも良い。ウーには今や、キュアの動きが指先一つからつま先の重心まで、余さず捉えることが出来た。
その気になれば、いつまででも彼の剣舞を鑑賞していられるだろう。代償は自分の命。だが、その前に決着をつけねばならない。約束していた合図を叫ぶ。
「
その叫びをキュアは理解しなかった。それ以上に理解しがたいことが起こった。
見よう見まねの
武術の修練においては未熟だが、ウーには直接業を受け、学習する時間が与えられていた。何百何千倍と引き伸ばした体感時間の中で、分析することが出来た。
ウーの剣が、イン・キュアの胴を断ち斬る。まごうことなき致命傷。
外法重魂体の再生力がそれを押し止めようとするが、同じ傷口に刺突を喰らわせ、ウーは速やかな死を与えた。どろりとキュアが形を失い、闇の塊と化す。
その時だ。
地底湖が目もくらむ光を放ち、湖面を割って巨大な水柱が立ち上がった。瞬間、それは大蛇のようにうねって岸辺に胴を叩きつけ、二人の剣士を呑み込んで決壊する。
広大な地下はたちまち浸水した。
それが一体どうした、とキュアは思う。水と言うより心地よい温度の湯、こんなものに足を取られて、自分がどうにかなるとでも?
実体を取り戻した彼は、体勢を立て直そうとした。だが我が身が奇妙に軽く、体の中ががらんどうになったような心細さがある。その正体は何か。
腰まで上がった水位の中、見覚えのある顔が浮かんでいる。それも一つではなく複数、皆同じ顔をしていた。白骨のように乾いた肌と、乾いてパサつく髪。
何より、赤く輝くその義眼――何人ものイン・キュアが、水に浮かび、押し流されていく。それは水底から、いや、キュア自身の体から、一人また一人と分かたれては、ぷかりと水面に浮いて、湖に向かって吸い込まれていくのだ。
「なん、だ、これは――なんだ、これは!?」
「一回で、良かったんだ」
ささやくような少年の声が、キュアの鼓膜をはっきりと震わせた。
「外法重魂体は、死んで復活するまでの間が一番無防備なんだ。そんな時に、冥界の水に放り込まれたらどうなると思う?」
ウーはかつて冥界に赴いて、【魂】がバラバラになったことがある。
大人たちが事務手続きをする横で、八歳児だった彼は居眠りをして、それが良くなかったらしい。生きた人間でも、稀に寝ている間に【魂】が抜け出すことがあるが、それがいわんや冥界、しかも特殊な魂魄を持つ身の上なのだ。
単に冥界の空気を当てるだけでは、起きて活動しているイン・キュアの【魂】を分離させることなど出来ないだろう。製造者の
そして、もっとも肉体と霊魂を引き離すのに向いた、冥界の水。
無論、ウーとて無事では済まない。だから事前に符を飲み、体に呪を書き付けて対策していた。それもあまり長くは持たないが、キュアの弱体化には充分。
またたく間に何十何百というキュアの【魂】が、湖に吸い込まれていった。その先は湖底ではなく冥界につながっている。これが
「諦めろ、イン・キュア。お前の【魂】も勝機も、もう無くなった!」
剣の切っ先を突きつけ、ウーは勝利を宣言した。
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