第二節 月も蝶も魂も――割れる

 塾経営に燃えるチャ・ノイフェンは、一つの体に二つの【魂】を持っている。一介の教師である彼女自身とは別に、無慈悲な殺師ころしや白魂はっこんちょう〟の人格を。

 肉体を共有するは、これまで互いの生活を使い分け、まあまあ上手く暮らしてきた。しかしこの二ヶ月、殺師稼業は休業状態となっている。

……それと言うのも。


(げっ、コージャンじゃない!? あいつらも駅に用があんの?!)


 元凶である師弟の姿を見つけて、白魂蝶はその場から逃げ出したくなった。汽車が来るまでの暇つぶしに、駅前広場をうろついていたのが仇となったか。

 初め、白魂蝶は手練れと名高いコージャン・リー抹殺の依頼を「面白い」と思って請け負った。ところが、一緒に居た弟子とやらが、不死身の化け物だったのだ。


――自分の仕事は殺せば死ぬ人間相手であって、その範疇から外れた仙人だの化け物だのを相手にする気はない!


 白魂蝶は依頼をすっぽかし、ほとぼりが冷めるのを待っている――という訳である。塾経営に専念出来て、ノイフェンは大喜びだ。

 こうして駅に来ているのも、新規顧客開拓を狙って、営業活動へ出かけるためである。ただでさえウンザリしていた白魂蝶は、回れ右しようとした。


 だが。


(待ってお蝶、なんか一緒にいるあれ、あの人見て!)


 止めに入るはノイフェンその人。【魂】同士の会話なので、周囲には馬尾弁子ポニーテールと眼鏡の女性が一人、少し考え事しているようにしか見えない。

 そして同じ肉体なので、見てと言われたらよほど力いっぱい抵抗しない限り、白魂蝶も妹が示す方を見てしまうのだ。


「……誰、あの人……」


 嗚呼ああ、かぁん、と煩悩の鐘が鳴る。頭の中から響くその音に、姉妹はくらくらした。ぽえーっと思わずこぼしたのは、白魂蝶あねノイフェンいもうとか。


 玲瓏れいろうと澄み渡って、目が洗われるような端正。すべすべと艷やかな月長石の彫像が、柔らかな肉感を閉じ込めて動き出したみたいだ。それでいて、触ればとろりと形を失って、逃げ出してしまいそうな得体の知れなさがある。

 彫像は例え動き出しても、生きた人間とは別のものだ。そうした断絶を感じる、まさに「住む世界が違う」高嶺の花といった風情。


 二人は一瞬で狗琅くろう真人しんじんに釘付けになった。


(ノイノイ、男の人と付き合うのはもう懲り懲りって言ったわよね?)

(お蝶こそ、男は殺すに限るって言ったじゃない)

(ええ、滅多刺しにしたくなる色男! ……ま、あいつらの知り合いらしいから、我慢しておくけどね)

(ぜひそうして頂戴……)


 色男はしばらく師弟と話し込むと、喫茶『娯湖ごこ茶房さぼう』へ入っていった。

 ふらふらと誘蛾灯に引き寄せられるがごとく、彼女たちもその後に続く。今日の一件式洋装ワンピース外套コート、変じゃないかしら、なんて気にしながら。

 きん、と冷えた冬の空気を背に、ふわっとした店内の暖気が姉妹を迎える。


「あらあ、コージャンさん、ウォンくん、こんな所でぇ!」


 語尾の抑揚トーンがやや不自然なことを無視して、姉妹は最大限の笑顔を作った。店員が「知り合いなのね」という顔で下がっていくのを横目に、するりと三人へ近づく。


 ウォンことウーが入塾して早二ヶ月。コージャン・リーの弟子であり養子であり不死身の化け物で、白魂蝶にしてみれば最大限関わりたくない生徒だ。

 だが新しい生徒=塾の利益! に目がくらんだノイフェンは、鉄面皮でウーに読み書きそろばんその他を教えてきた。白魂蝶の存在は、まだ師弟に悟られていない。

 だから、ちょっとぐらいあの色男に近づいても、大丈夫ではないか?


「あっ、チャ先生!」

「ありゃ、また会ったな」


 ウーもコージャンも、思わぬ場所で知り合いに会ったな、ぐらいの軽い反応だ。少年に至っては、ノイフェンがやって来たことを歓迎している節がある。


「狗琅、こっち、手紙に書いた学習塾の先生だ」


 と、コージャンが狗琅真人に説明する様を、ノイフェンは目の端で確認した。

 強面を極めに極め、その恐ろしさだけで人を戦慄ショックに至らしめられそうなコージャンとは真逆に、儚いまでに線の細い容色ようしょく

 青みがかかった灰色の髪だとか、細すぎて癖のある目の形だとかは、一般的な美男子と言うには偏っているが、そこもまた味があって良い。


「クロウさんですか。私、チャ・ノイフェンと申します」

「へえ。珍しいネ」


 そんなに変わった自己紹介だっただろうか? 姉妹たちが訝しんだ時、狗琅真人はノイフェンの眉間に指を突き立てると、その体を左右真っ二つにした。


                 ◆


「何やってるんですか!?」


 椅子を蹴って立ち上がったウーは、店内の空気が静寂に固まっていることに気付いた。幻術かなにかを使って、自分たちを目立たないようにしているらしい。

 狗琅真人は、ノイフェンの眉間があった場所から指を引いた。


「ちょっと試しに開いてみただけさ。これはネ、一般的な【魂】が刀子ナイフなら、さしずめはさみみたいに、もともと二つに分かれているんだ」


 当のノイフェンは、満面の笑みを浮かべたまま、時間が止まったように凍りついている。ただその体は正中線で左右に分かたれ、指一本分ほどの隙間が出来ていた。


「こういう霊錯れいさくたい剪式せんしき魂魄こんぱくと言ってネ。どこかの仙人が適当にいじって、放り出して、今まで生きてきたんだろう。まあ、たまにあることさ」

「く、クソ仙人族……人の【魂】を何だと思ってんですか!」

は活用するものじゃないか」

「うるさーい! この仙畜生!」


 ウーはこの世に、人間の在り方を変えることを屁とも思わぬ超越者がのさばっていることを嘆き、地団駄してうなった。どうどうとコージャンは弟子の背をさする。


「しっかし、その【魂】が二つってのはどういう状態なんだよ? 三魂七魄が六魂七魄にでもなってんのか」

「ああ、リーくんの理解はかなり正しいネ。簡単に言えば〝二重人格〟、二魂一体かな。どれ、ついでにちょっと記憶をのぞいてみようか」


 ウーはクソ仙人に「ひざカックン」を食らわせようとして、ぬるっと避けられた。


「古典的な嫌がらせだネェー」


 眠り猫の笑顔を崩すこともなく、狗琅真人の手は左側のノイフェンに触れている。遠慮なく頭をわし掴んで数秒、若仙じゃくせんの顔から笑みが消えた。


「ふむ。リーくん、こっちひだりの方は殺したほうが良いんじゃないかな」

「えっ」

「説明しろ」

「彼女は殺師〝白魂蝶〟。二ヶ月前、イン・キュアという男から君を殺すように依頼されている。右の彼女は、武術の心得もないただの教師のようだけど」

「イン・キュアなあ……ぴんと来ねえや」


 何かと恨みを買っているコージャンとしては、その種の心当たりはありすぎて困る。それに、閻国えんこくは姓の種類が少ないため、同姓も非常に多い。

 狗琅真人は引き続き、掴んだままのノイフェンの左半身――白魂蝶の記憶にずかずかと踏み込んでいった。傍のウォンは、女教師の赤い断面図に目を伏せる。


「うーん……どうやら、ウォン君の不死性に依頼を投げ捨てて、潜伏していたみたいだネ。正しいが、この町から早く逃げるべきだったよ」

師父しふ……先生、殺しちゃうんですか?」


 弾かれたように顔を上げ、ウーは喉から声を絞り出した。


「私はその方が良いと思うよ。生かす理由、あるかい」

「でもお前。俺を殺すって依頼自体は本人、諦めてんじゃねえのか」

「そうだネ」

「なら、ほっとけほっとけ。それより、ウーの勉強を見てもらわにゃならん」


 コージャンは不機嫌そうに腕を組み、ひとまずそう結論した。ウーは安堵して深々と息を吐く。しかし、狗琅真人は納得いかなさげに首を捻っていた。


「仮にも君を殺そうとしたんだ、私としてはすぐ処分してしまいたいんだがネ。万が一ということもあるし……あ、そうだ」


 ぱっと何かを思いついて笑う優男に、ウーは嫌な予感がした。


「ウォン君、ちょうど分解したんだ、左の彼女だけべてくれないかな。そうすれば君の先生は死なないし、危険もない」

「えぇ!? 嫌ですよ、この仙道バカ!」

「お前、まさか片割れが居た記憶も、まるごと消そうってんじゃねえだろうな」


「そうするつもりですが何か?」とでも言いたげな狗琅真人の真顔を前に、コージャンは嘆息した。ウーはとうとう拳を構え、殴りかかる用意を始める。


「とにかくよ、一旦先生を元に戻してくれ、狗琅。イン・キュアってのが誰なのかも、聞き出さないとならねえからな」

「それなら収穫はないよ。不気味な義眼の男、ということぐらいしか」

「いいから戻せ。俺が殺さなくていいって決めたんだ」


 ずいっとコージャンは十年来の友人に詰め寄った。この仙人は、自我の楔である【大事だいじもの】の一つにコージャンを選んでいるためか、たまに過保護で暴走する。


 狗琅真人は、一つ小さく息を吐いて、それから両手を打ち鳴らした。

 ぱん、という音と共に統合されたノイフェンが瞬きする。カリッとした細身と、しなやかな筋肉が、独楽コマのように優美な回転を描いた。

 身を翻した女の手には、黒く光る鉄爪じみた武器。


「近寄……」

「お目覚めかい、白魂蝶サンよ」


 武装した白魂蝶を、既にコージャンの擒拿きんなが捉えていた。按爪あんそう折腕せつわん、掌で包むように両手首を内に折り曲げる。

 痛みこそないが、しっかりと力をかけられ、白魂蝶は動きを封じられた。このまま肩に向けて手を押し込まれていけば、肘を破壊されるだろう。


「アンタ、自分の立場は分かってンな?」

「……あたしを殺したら、気弱でダサくて仕事熱心が取り柄の、罪もない妹が死ぬよ」

「俺もそうしたくねえ。イン・キュアって男について知ってること、話してもらおうか。出来たら、チャ先生とは仲良くやっていきてえんだが」

「僕たちは二人とも殺す気はないです!」


 ハラハラと見守りながら、ウーは精いっぱい敵意がないと示した。


「ですよね、狗琅真人?」

「まあとりあえず、しばらくは寿命を全うしてもらう予定だよ」


 話を振られた仙人は、どうでも良さそうに答える。思い通りに行かなかったことは業腹ごうはらであろうが、この場は引き下がる構えだ。


「知ってることって言われてもね……金払いがやけに良くて、気味が悪くて、あんたを凄く恨んでるらしい、ってことぐらいしか。見た目は、文殊もんじゅ杏花きょうかの義眼で、凄い傷痕があったよ。目の辺りを一回、まるごと切り飛ばされたんじゃないかって感じ」


 不意に白魂蝶は言葉を切り、息を飲んだ。店内のある一点を見つめて硬直する様に、コージャンら三人も目を向ける。


 そこに、白魂蝶が語った特徴と一致する男が席に着いていた。傍らには長い白髪を持つ妖艶な女。ウーが目を引かれたのは男の方だ。


(なんだろう……すごく、やな感じが、する)


 これを「人間」の顔と言っていいものか? 執念深い狂人が、呪いの言葉を綴った紙を何十何百と貼り重ねて肉付けしたしゃれこうべのような、不吉な顔つき。

 ぞっとして、ウーは生唾を飲み込んだ。


「あいつか、イン・キュアってのは」

「そうだよ。そして私は瑣慈さじ、よろしくね? コージャン・リーくん」


 白魂蝶に確認を取るコージャンに、女は馴れ馴れしく話しかけた。見境なく色香を振りまく、取り留めのない刹那的な愛想。


「それに、タ~イタイ♪ 久しぶりだねえ」

「――静静閉嘴だまれ!!――」


 狗琅真人の怒声が、雷鳴のようにくうをつんざいた。

 声にぜた空気がばらばらになって、頭の上に降り注ぐような余韻を残す。ウーは思いのほか激しい反応に戸惑って、コージャンと顔を見合わせようとした。

 その師もまた、目が、鼻筋が、口元が、触れれば切れそうな刃の険しさで表情を引き締めている。状況についていけないのは、ウーだけのようだ。


 冷え冷えとした怒気と、焼け付く殺気がぶつかり合い、稲妻となって狗琅真人の五体にまとわり付いていた。細い目を限界まで見開き、瑣慈と名乗った女を睨む。


閉嘴だまれ閉嘴だまれ閉嘴だまれ静静閉嘴だまれえぇっ!! 私をタイタイと呼んで良いのは、家族だけだ! お前が……貴様が……どの口でッ!」


 それは、もはや玲瓏と澄み渡った月長石の彫像ではなかった。血と汚物にまみれて打ち捨てられた、灰色の石像だ。

 涼やかだった面には無残なひびが入り、その中で毒虫が蠢いているようなおぞましささえあった。虫は外側へこぼれだし、頬や目元を痙攣させる。


 ウーは見たこともなければ、想像したことすらない狗琅真人の表情に呆然としながらも、ようやく悟った。あれはこの世にいくつか居る、決して見逃してはいけないたぐいの〝敵〟である、と。正体は分からない、だが何かとても悪いものだ。


「その呼び方、てめえら、離天りてん荒夢こうむの弟子だな」


 コージャンは既に雁翅がんしとうを抜き放っていた。店に入った時は佩刀はいとうしていなかったが、我流の次元収納方術・黒遁こくとんによって袖にしまわれていたものだ。


 客も、店員も、この騒ぎには無関心だった。仙人たちが施した幻術と幻術を重ねられ、二組の客がそれぞれ静かに茶を楽しんでいると思っている。

 それは幸運だと言えた。彼らは日常が地続きのまま、少しの寒気を覚えた後は、何も知らずに【魂】を飲まれたのだから。


――暗転――上も下も右も左もつかない、漆黒の虚無。


「こいつ……!」


 何が起きたのか、ウーは必死で理解しようとした。最初の兆候は、イン・キュアという男から放射状に広がった亀裂だ。

 ひび割れた断片から世界は反転し、冥界の闇にも似た深い深い奈落を露わにして、人々はなすすべ無くそこへ落ちていった。


「あいつ……外法げほう重魂じゅうこんたいなんですね? 僕の前の、原型オリジナルの! 狗琅真人!」


 無事に床が見えているのは、ウーが捕喰ほしょくで遮った小さな「島」だけ。彼は咄嗟に周囲を囲むよう円陣を描いて、皆を守った。

 そこにはコージャンと狗琅真人が立っているが、姉妹は片足を闇に踏み入れていた。彼女は……ノイフェンは、内功も外功も知らない、「ただの女」だ。


「――あ――」


 ぱきん、と硝子のような音を立てて、姉妹の体は再び真っ二つになる。

 白魂蝶側が踏んでいたのは、ウーが作った安全地帯だ。そしてひと角の武術家である彼女は、確かな功夫で持って、【魂】を喰らう力に抵抗していた。


「ノイノイ!」


 右半身だけになったノイフェンがとぷり、と闇に沈むと、残された白魂蝶は失われたはずの半身を取り戻して、五体満足の姿に戻っていた。だが、【魂】は一つだ。


「やれやれ、やはり〝共喰い〟は難しいな」


 床はおろか壁も窓も天井も自らの闇で覆い尽くし、イン・キュアは物足らなさげに顎を撫でた。その肩から二の腕を、女の指がつつ……となぞる。


「焦ることないじゃないか。もうここは、キミの胃袋みたいなものさ」

「そうだな、瑣慈」


 樹械きかいのはずの赤い義眼が、ぎらぎらと輝きを増した。彼は舞台に立つ役者のように、堂々と胸をそらして宣言する。


「この時を待っていたぞ、コージャン・リー! 狗琅真人! そしてまがい物! 我が父、離天りてん帝君ていくんを殺した罪、貴様らの命と【魂】と苦痛であがなってもらう!」

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