幕間 二百年前

――誰も聞いてはならぬ――

 その子供は、獣用の小さな檻に押し込められ、罵声や小石を投げつけられながら、泣きもせずに押し黙っていた。雪の夜に裸で、血と泥にまみれながらだ。


 嫌な光景だ、と黒衣姿のハン・ジャオティン(かん燎城りょうじょう)は唇を噛む。

 ひとたびまとえば影法師のごとく、個性を抹消する猟客りょうかくの衣装。本来、狩りに情を挟むなど許されないが、今宵の獲物は既に捕らえられているのだ。


 大閻だいえん帝国ていこく暦一〇八九年――首府玄都げんとから遠く離れた、東の辺境。


はちしゅうである! 〝ニング〟を引き受けに参った」


 彼が名乗りを上げると、檻を取り囲む群衆が静かになった。村人が手にする松明や、広場を照らすかがり火の中心、その子からは奇妙にうねる影が伸びている。

 それは、七頭の獣が複雑に絡み合うような、異様な形をしていた。影は【魂】の性質を示すものだ。確かに、この子供は人ならぬ【魂】の持ち主なのだろう。


「だが、ニングではないようだな」

「どういうことだ!?」


 いかにも血の気が多そうな若者が、ジャオティンに食ってかかる。目深に被った兜帽フードの下、冷たく周囲を見回しながら彼は説明した。


「日中無影。ニングは影を持たぬ、形こそ異様であるが、この子供は何か別のものだ。もし捕り物の最中に怪我をしたならば、その者はニングにはならん」


 群衆の中に、弛緩しかんした空気が波紋のように広がっていく。この子供を捕まえた時に、誰ぞ噛みつかれでもしたのだろう。

 ジャオティンとて、町中に出る時は像身ぞうしんこうで偽の影を造る。今彼の足元を確かめれば、月明かりにも炎にも、影を落とさないことが分かるはずだ。


 人間は神灵カミより三魂さんこん七魄しちはくたまわり、寿命半ばで死ぬことあらば、冥府より【魂】を返却されてよみがえることが出来た。これを諸国民の権利、反魂はんごんと言う。

 その権利を失ったのがニングだ。生きる限り存在が希釈され続け、死ねば【魂】ごと肉体が消滅する、はかなき定めの半幽霊。


 少しでも己の寿命を伸ばすため、野良のニングは人を襲い、【魂】を奪う。被害者の運命は死か、同じくニングになるかだ。

 それを退治し、時に保護するのが「ニングを狩るニング」八朶宗と、その猟客の役目。彼らの仕事には、稀に出現する〝特異魂魄者〟の扱いも含んでいた。


 村の顔役とおぼしき老人が「後は八朶宗に任せよう」と解散を告げる。人波がはけていく中、ジャオティンは檻の鍵を顔役から受け取った。


「なぜわざわざ裸に?」

「最初から着ていなかったんだ。化け物の考えなんざ知るか」


 顔役に対するジャオティンの関心は、その返事までで終わりだった。相手の吐き捨てるような口調も、嫌悪と侮蔑の表情も、ニングである身には飽き飽きだ。


 近くで見ると、子供の髪は青みがかかった灰色で奇妙だった。何の汚水をかけられたのやら。皮を張った骸骨のように痩せていて、歳のころも定かではない。

 傷だらけの男の子は、檻から引っ張りだされる間も、手足のいましめを切る間も、されるがままだった。浅く積もった雪の上、ぼんやりと座り込む。


「もう大丈夫だ、迎えに来た。茶、飲むか。歳はいくつだ? 名前は言えるか?」


 体についた雪を払い、毛布を羽織らせながら、ジャオティンは強いて優しげな声を絞り出した。怒りで胸がはち切れそうだ。


「きみを助けたい。おれは、きみみたいな、世の中から化け物って言われるような連中で助け合っている所から来たんだ。もう怖がらなくていい」


 ジャオティンの言葉にも、差し出された水筒にも、子供はまるで反応しなかった。無視しているというよりも、その存在に気付いていないように見える。

 仕方がないので、ジャオティンは直接、子供の口に茶を注ぎ込んだ。


 初めはこくり、こくりと、不安になるほど小さな動き。だがたちまち激しく喉を鳴らすと、水筒を奪って飲み干した。ジャオティンは安堵して、口元をやわらげる。


「少しは温まっただろ。俺はハン・ジャオティンだ、そら、きみの名前は?」

「……タイタイ……」


 ようやく、か細い声がそう答えた。

 もう一度「今いくつだ?」と尋ねると、タイタイは指を二本立てて見せる。二歳にしては大きいので、おそらく七歳ぐらいのはずだ。


「タイタイ、おまえは我ら八朶宗が引き受ける。食べるものも、寝るところも、着るものもあるぞ。その代わり、たくさん勉強をして、働きなさい。そして――」


 少年の顔や体を拭き、手当をしながら、ジャオティンはあることに気付いて顔をこわばらせた。タイタイの二の腕に、文字のようなものがある。


 これは入れ墨や、ましてや塗料ではない。惨たらしくも、で刻まれた物だ。〝廢棄はいき 肆拾〟、〝靈錯躰れいさくたい 重魂じゅうこん人蠱じんこ 〟と。

 霊錯体などという専門用語が、こんな寒村で知られているとは考えがたい。どこぞの左道使いか邪仙かが、この子を実験体にした、その名残なのだろう。


 そこで、彼の節制は限界を迎えた。


「何が……何があったんだ? おまえは誰に、何をされたんだ!?」


 タイタイは、狼狽したジャオティンの問いに答えない。燃え尽きた炭のように、暗い瞳でただ無言。けれど、それはこの夜に限った話ではなく……。


 三年が経ち、五年が過ぎ、十年を越えても、この時の問いに答えは返らなかった。


                 ◆


「まさか、寝床で死ねるとは思わなんだよ。これでは戦友に申し訳が立たん」


 八朶宗総本山・逢露ほうろきゅう内に与えられた居室で、老いたジャオティンはつぶやく。髪もヒゲも白くなり、精悍だった顔つきは血色もせて、しわしわにしなびていた。

 彼はまだ五十代だが、【魂】を欠いたニングは寿命が短い。


「そのお言葉、この世で最高の贅沢ですな」


 寝台の傍ら、眠り猫を思わせる笑顔で言うのは、青年に成長したタイタイだ。奇妙に青みがかかった灰色の髪を長く伸ばし、道士のまげを結っている。

 勉学に励みすぎて寝食を忘れがちなので、ガリガリに痩せ、顔色が悪く、目の下のクマは濃い。衰弱したジャオティンと、どちらが病人か分からないほどだった。


「ならば次善の贅沢は?」

「不老長生。不死の蟠桃ばんとうとはいきませんが、今日は栖丹茶せいたんちゃせんじました」


 タイタイことソー・ウェイタイ(かつ飛来ひらい)は、八朶宗で道士として修業し、医学薬学を修めている。今出したのも、彼自ら調合した薬茶だ。

 ほの黄色い水面から立ち上がる、馥郁ふくいくたる香りは、薄荷はっか柑橘かんきつに似ている。

 飲めば体に広がる熱さは、骨の髄まで染み付いたよどみを和らげてくれるようだ。ジャオティンは薬茶に感謝しながらも、少しばかり愚痴をこぼした。


「おれはおまえが心配で、おちおち死んでもいられんのだが」

「失礼な。もう線香をかじったり……とか、しませんよ。ええ」

「その他にも色々やったであろう。今はマシになったが……」


 ウェイタイは、彼を知る者たちの間では〝瘋子ふうしかつ〟と不名誉なあだ名で呼ばれている。「あいつは頭がおかしい」、と。

 それも無理なからぬことで、幼少期に起きた何らかの過酷な体験が、その精神に消えない傷痕を残しているようだった。


 誰かと話しているような独り言を繰り返す、夜中に奇声を上げて走り回る、かと思えば自分の体に釘を打ち込む……。それを憐れんだジャオティンが後見を申し出なければ、役立たずの烙印を押され、生き人形に変えられていただろう。


「まあ、おまえなら神仙にもなれるやもしれん。倒れるまで書物にかじりつくのは感心せんが、施療処せりょうじょではよく働いていると聞くぞ。道術の腕前も抜きん出ている」


 ジャオティンは、ウェイタイを瘋子呼ばわりしない数少ない人物だ。幼い頃から気にかけていて、ある意味息子のようなものと言っていい。


「……なあ、タイタイ」


 だから、死を間近に控えて、彼はどうしても尋ねずにはいられなかった。


「おまえは、おれと出逢う前に、何があったんだ? 一体誰に、あんな惨い真似をされたのだ? この十数年、おまえが苦しみ続けたのは、そのためであろう」

「そのような話、去りゆく方にお聞かせ出来るようなものではありません。老伯おじさまが私を案じて下さること、心胆に染みて理解しております。しかし、それだけは、決して。……決して言えぬのです、お許しください」


 短く「そうか」とだけ言って、ジャオティンは小さく口元を歪めた。訊くべきではなかった、と後悔が胸に去来する。この青年を責めたい訳ではないのだ。


 いつだったか、貴重な薬草を間違えて破棄してしまった時、ウェイタイは罰として二十回のむち打ちを受けたが、まるで堪えた様子もなくヘラヘラしていたと言う。

 痛みと苦しみの頂点を、この子は知っているのだ。それも、あんな幼い時分に。そんな傷を抱えた青年を、このまま放置してかねばならないのが、心残りだった。


「ならば聞かせてくれ、タイタイ。おまえは、生きてやりたいことがあるか? いつもいつも、自分の体を粗末に扱って。夢や希望はあるのか?」

「自分のことは、大事にしているつもりなのですが」


 ウェイタイは本気でびっくりしたようで、細い作りの目をまるまると見開いた。


「足らん。寝食はきちんと取れ。不老長生を目指すなら、食事の自己管理は最低限の課題だぞ。まったく……それで、どうなのだ」

「夢ですか。希望ですか。分かりません、でも私はまだ死ねない。ただ……少し、〝仕返し〟をしたいのです。そのためだけに無限の寿命が欲しい」

「まあ、及第点、か」


 誰に何を仕返したいのかなど、訊くまでもない。それよりももっと、残り少ない時間で尽くすべき言葉があった。ジャオティンは短く目を閉じて、口を開く。


「タイタイ……、心からの友を見つけろ。お前の痛みを分かち合えるような、だがしがみついて、すがって、重みを押し付ける相手ではない、そういう……友を」


 もし、復讐をやり遂げて、何の目的もなくなったならば。その先を考えられるように、と。ジャオティンは途切れ途切れに、細くなった息を紡いで、懸命に伝えた。


「それが、私の望みだ。……よく生きろよ」


 いつの間にかつながっていた互いの手は、ジャオティンが握ったのか、伸ばされたそれをウェイタイが取ったのか。


「分かりました、ハン老伯」


 その会話を最期に、日没から数時間後、ハン・ジャオティンは息を引き取った。ソー・ウェイタイが逢露宮から姿を消したのは、彼の葬儀が終わった翌日だ。


 それから数年の間を置いて、ウェイタイはどこの師にも仕えず、一人で得道し、昇仙し、道号を〝狗琅くろう真人しんじん〟とした。


 彼の「報復」が始まるのは、これより二百年後のことである。

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