第二部
師弟搬家
第一節 誰も過去しか見えない
その闇夜に、白目のない虚ろな双眸が、赤く瞳を灯していた。
「コージャン・リー(
場に集まった三人の
インの顔には、真一文字に両目を断ち切られた傷痕があり、生き延びたのが不思議なほどだった。その視力を補っているのが、〝
樹械の核・
かねてより都市の
各種
「……知っているぞ、この男。手強いなんてもんじゃない」
頭髪を徹底的に剃り上げた巨漢は、訳知り顔に言った。
渡された写真は十数年前、
「この仕事、三倍はもらわんと割りに合わんな」
剃髪の巨漢、ニウ(
「首を持ち帰れば、五倍でも払ってやる。腕一本だけでも、二倍は出そう」
インは動じない。あくまで目的を達成出来るなら、金に糸目はつけないのだろう。他の二人も、それで依頼に乗り気な様子を見せた。
妖花な柳腰の女、チャ(
「長らく行方がつかめなかったが、新しくここ、
「それは……面白い……」
含み笑うようにハーが言う。湿った石の下から聞こえるような、暗く淀んだ声音。示された標的・コージャンには彼も一度煮え湯を飲まされていた。
「モタモタすれば、始末する相手が際限なく増えそうだ」
チャはきびすを返して歩き出す。獲物を横取りする者がいれば、そいつごと殺す気だ。コージャンに恨みはないが、トドメは誰にも譲らない。
彼女にならい、他の二人も場を辞していく。その背を見送って、インは目の傷痕をそっと撫でた。今宵は静かな古傷も、触れれば受けた屈辱を思い出す。
あの日飲まされた憎悪の毒が、イン・キュアを別人のように変えた。
「……思い知れ、コージャン・リー」
弟子を得ようが過去を忘れようが、お前は自分自身がしたことを、
◆
晩夏も過ぎた青空を、銀の鱗をきらめかせて怪魚の群れが渡っていく。長い牙と尾を持った凶暴そうな顔で、海のもので言えばホウライエソに似ていた。
見た目の奇っ怪さにふさわしく、ギャアギャアとさんざめくのも、海の魚と空の魚の大きな違いだ。長い石段の下に立ち、少年はその様を物珍しげに見上げていた。
四つ
「なにやってんだ、ウー。置いていくぞ」
傍で聞く者がいれば、心臓をブチ抜かれそうにドスが利いた声だ。だがウー少年は動じず、むしろ朗らかに「すいません、
石段の上に立つ声の主は――おお、どこの地獄から現れたのか、その男!
脱走した亡者を追ってきた獄卒が、偽装のため人間の振りをしながら、隠しきれない威圧感で空間を軋ませているような
その名をコージャン・リー。見ての通り極めつけに悪い人相で苦労している。
血と溶岩をこね合わせたような逆立つ赤毛に、虎のごとく発達した犬歯。二
渓谷のごとく彫り深い顔立ちは、恐怖に耐える胆力があれば、男前と見られるかもしれない。だがほとんどの人間は、出会った端から食い殺されると思うだろう。
「でも見てくださいよ、あれ! 空に魚ですよ魚」
ウーは無邪気に上天を指さした。少年はコージャンに剣術を教わる弟子であり、顔が怖い程度でひるむような脆弱さとは無縁である。
「町中なのに、
「あァ、ありゃ
ちょいちょいとコージャンは手招きした。ウーは両手に大きな旅行かばんを提げているが、それを物ともせぬ全力疾走で、百段近くを一息に駆け上がる。
そして、頂上からの光景に歓声を上げた。
「うーみー!」
「前も見ただろ」
町の高台に位置するここからでは、港の様子がよく見える。近くで見ればゴミだらけだろう灰色の海に、箱を並べたような倉庫街。そして、乱立する煙突と、空に逆さのかさぶたを張るような黒煙。だが今のウーには、そんな物は目に入らない。
「汽車の時は夜だったじゃないですか。暗いのも得意ですけど、ほら、えーっと……蝶々みたいです、海は!」
「なんだそりゃ?」
「海の上のキラキラ、白い蝶々がたくさん集まってるみたいじゃないですか?」
「そりゃ文学的だな。日記でも書くか、どうせ学校に行くなら文具も揃えないといけねえし。ちと交通は不便だが、まあがんばれや」
「はい!」
そこまで話してから、ウーは灰魚のことを思い出した。
「それで、師父。煙いことと、あの魚になんの関係があるんですか?」
「おーし戻って来たな。あいつらはな、元々火山の近くで灰を食う生き物なんだよ。それを人間が捕まえて、町に放して、工場の煙を掃除させてんだと」
「へー」
近年普及し始めた
その主要都市の一つ、武海市はかつて西の大国・イムダレットの
当時の閻国官吏と
麻薬はおおっぴらに流通し、
しかし、そんな治安のザルさがコージャンには都合が良く、山育ちのウーは海が見える所ならどこでも良かった。かくて師弟は武海市最東端・
◆
大家のルア(
元はコージャン師弟と同門の
何でも四十代の頃に内臓を損傷し、
「思ったより立派な家で、ほんと申し訳ねえです」
珍しくかしこまった口調で、コージャンは礼を述べた。堅気の務め人みたいに
案内されたのは、高い壁の中、中庭を囲むように四つの家屋が並ぶ
東西南北「四」棟と「院」子と呼ばれる中庭を「合」わせて、
「なに、前に住んでいたルー(
ニコニコしながら、大家は簡単に家屋を説明した。
寝室があるのは北棟、厨房と風呂は南棟、西棟は空き部屋が三つ。電話線は引かれておらず、
「で、
ルアは中庭の中央に生える、背の高い木を指した。花もなければ葉もない、白銀のように白く金属的な樹木。要するに、発電所から電力を買ってない家なのだ。
「樹霊はまだ寝てるでな、起こすならそちらさんで道士を呼んでくれ」
「分かりやした」
発電樹を触って具合を確かめながら、コージャンは返事した。西棟に関しては、部屋の壁をぶち抜いて
ルアの息子夫婦は、最近新しく雑貨屋を始めたと言う。その用心棒代わりを務める約束と、同門のよしみで、家賃は破格の安さになっていた。
「あー、くそ! 領帯なんざ締めるもんじゃねえな!」
大家が帰ると、コージャンは母屋に入って首元を緩めた。師父のいつにないかしこまった態度に笑いをこらえていたウーは、とうとう吹き出してしまう。
その顔に、コージャンは上着を投げつけた。早着替えで、
「お前もとっとと用意しろ、ホコリまみれで寝たくなきゃ、掃除だ掃除!」
「はい、師父!」
師弟は三角巾をかぶり、
元がぼっちゃん育ちで、大掃除に慣れないウーは、苦労しながらもコージャンの指導のもとキビキビと動いた。これも新しい生活の準備と思うと、力が入る。
(学校に行ったり、友達が出来たり……普通の生活をするんだ)
コージャンと師弟関係になり一年半、義理の父子となってからはもうすぐ半年。春から夏いっぱいを放浪生活で過ごしたが、それもようやく終わりだ。
一つの土地に腰を落ち着け、家を持って暮らす。それが以前よりもっと、家族になった感じがして嬉しかった。旅だって楽しかったが、いつまでもとはいかない。
とはいえ、ウーにとって一番大事なのはコージャンの剣をすべて受け継ぐことだ。そのために、普通を捨てなくてはならないとしたら? 自分は喜んで捨てるだろう。
「ま、こんな所か」
弟子の胸中を知ってか知らずか、一通り水拭きし、空気を入れ替えた家の中を見て、コージャンは満足した。といっても、まだ一棟だけだが。
「ウー、飯食いに行くぞ。どうせ台所もまだ使えねえしな」
「はい! えっと、町も見に行っていいですか?」
「食い終わったらな。明日も明後日もやることが山積みだ」
師弟は気分良く新居を出た。周囲は、高い灰色の壁に囲まれた
密集する四合院は、老夫婦がひっそり暮らしている所、家族が賑やかに暮らしている所、集合住宅に改築されているもの、空き家と様々だが、壁の向こうのことなのでどれがどれとはよく分からない。
胡同を抜ければ、すぐに大通りが広がっていた。
町のそこかしこには小船が行き交う水路が走り、それに沿って黒い瓦を載せた白壁の家が軒を連ねる。水辺の石段では、特産品の絨毯を洗う人々の姿が見えた。海辺の日差しは秋とは思えないほど強く、家々の白黒をより鮮やかに際立たせている。
最近になって再開発されたここ
では建前の利かない所ではどうか?
「なあ、ウー。どう思う」
「はい、師父。一つぐらいです」
「ぐらい、じゃなくて言い切れ」
師弟は肌の感覚で、殺気を捉えていた。だがすぐ襲ってくる様子ではない。威嚇しているのか、隠しているつもりで漏れているのか、誘っているのか。
隣り合って歩きながら、二人は誘いに乗ることにした。
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