第三節 七つの死魂、八番目の剣痛
双子が悲鳴を上げる理由が分からなくて、ウーはとっさに動けなかった。彼が持つ燭台、その灯し火が照らす外へモノンとダイファムがすっ飛んでいく。
「なんで逃げるの!?」
一人残されたウーの問いは、月明かりと夜風に聞き流された。いかに幼児が身軽とはいえ、
「い、いきなり殺したのは駄目だったかなあ?」
「って、そう、じゃ、なくて! あの子たちを捕まえようとした奴が、まだ他にもいるかもしれないのに! ああ、これじゃ
襲ってきた奴は生かしておくべきだった。そうすれば、何のつもりでこんな真似をしたのか、他の仲間はどこにいるのか、色々聞き出せたのに。
考えながら足を動かし、双子が走っていった方へ向かうと、そこは
外へ、中庭へ、奥へ、二階へ、様々な方向へ廊下が伸びる。どこへ向かうべきか迷ったのは数秒、ウーは中庭を挟んだ通路に子供たちの姿を見つけた。
◆
――これは、いつの出来事だっただろうか。
夜食を作ってくれないか、と
コージャンは自分用に油漬けの魚肉と卵の炒飯を、狗琅真人には菜っ葉の
「だいぶ薄く作ったんだが卵、いるか」
「いや、これで充分。さて、君の料理はどんなものかな」
粥にレンゲを差し入れ、すくい、小さくすぼめた口で息を吹きかける。ほど良く冷ましたら、唇を開いてそっと流し入れる。喉が小さく動いて、粥を飲み込む。
狗琅真人の食べ方は、優雅なまでになめらかな仕草で、舞台の出し物に出来そうなくらいだった。どこか芝居じみている。日常を過ごす内に身に付けた動作ではなく、「人間はこのように食事する」という知識と技術の賜物。
「美味しいよ、ありがとう」
そう言って微笑む顔は、相変わらず日だまりで眠る猫のように、何不足なく穏やかだった。そいつぁどうも、と気のない返事をしながら、コージャンも満更ではない。
「仙人ってのは、食事制限があるんじゃなかったのか」
「
「三尸? なんだよ、その物騒なモンは」
炒飯を噛みながら、コージャンはぱたぱたと雨粒のような音を聞いた。
「ウン? 知らないのかい。
「あー、つまり、天の遣いかなんかか?」
雨の音がしつこく続く。この食堂は、こんなに外の音が届いただろうか。
「天というか、冥界かな。ただ、三尸がいなくなっても殺されれば死ぬし、老いもする。不老不死の出発点に過ぎないから、これだけだと無駄に生き長らえて辛いよ」
「そう簡単に美味い話はねえよな。しっかし、前にもの食ったのはいつだ? ずっと不思議だったんだが、なんで仙人ってのは、食うもの食わねえで平気なのかね」
ぼたり、と。水より重い何かが滴る。
「
言って、狗琅真人はもうひと匙、粥を口にした。
相変わらずどこかから、何かが滴り続ける音がする。これは本当に雨か?
「だからこの食事も、純然たる気まぐれだ」
「そうかい」
ぱたり、ぱたりと卓を叩く。ふっと鼻先を鉄さびの臭いがかすめ、コージャンはその異常を見た。白い粥に咲く、真っ赤な血の花を。
炒飯をすくっていたレンゲは剣に変じ、狗琅真人を肩口から脇腹へ斜めに斬り裂いている。卓も椅子も消失し、あたりは血の雨が降る荒野が広がっていた。
「寂しいネ、リーくん。君はこんな風に、温かいものを作れるのに。ずっと、それだけで生きていきたいと思っていたはずなのに。いつも自分で壊してしまうんだ」
狗琅真人は顎を、半身をべっとりと血で濡らしている。先ほどまでコージャンの手料理を舌に乗せていた口が、いびつに
「でも当然だよネ、君に斬れないものはないし、私もそれを望んだ。なのに今さら、何よりも優れた剣であることを捨てて、人間でいようとしている。父親だなんてやめなよ、不死の怪物だって、君はいつか殺し尽くすのに」
剣は狗琅真人の腹に呑まれたままだ。握り込んだ柄に伝わる手応えは生々しく、血の臭いが鼻孔にこびりつき、喉へ降りていく。
「てめえ、誰だ。狗琅じゃねえ、俺が作った幻でもねえ」
これはコージャン自身の悪夢ではない、何らかの
手に力を込めるが、コージャンは剣を引くことも脇腹から抜くことも出来ない。体が自分の物ではないように、言うことを聞かなかった。だが口は動く。
「どこの妖怪か
「カカッ」
狗琅真人の顔をした何かは、獲物を定めた猫のように笑った。
「仙人の知り合いがいるとは奇特な御仁だ。もう少し強めの薬にすべきだったかな」
「あいにく、一服盛られるのはその仙人のおかげで慣れていてな」
とはいえ、それも昔の話。生半可な薬物は無意識に排出できるようにはなったが、完全に無害化できるとは限らない。その上、食事に仕込まれたことに気が付かなかった。このままでは、ウーやエンギン、幼い甥姪が危ない。
「遅い、遅いよ。ワタシはもう入り込んだ。キミはもう鍵の開いた家だ!」
気がつけば、荒野だと思っていた場所は血の海になっていた。比喩ではなく、くるぶしまで浸す一面の血液。そこに、死体が浮かび上がってくる。どれも知った顔が。
軍に入って戦争で殺したソキヤ人、用心棒時代に殺した
どいつもこいつも、惨めなものだ。死んで残るのは、処理を途中で放棄された食肉のような、赤黒く汚れた腐敗物。ぷかぷかと汚水で浮き沈みしながら、蝿をかぶる。
だがそれがどうした、とコージャンは思う。やらなければこちらがやられていた。お互い承知の上での殺し合い、今さら悔やむことなど何もない。
「嘘をついちゃいけないなあ。いや、半分は本気でそう思っているか」
血の水面に、狗琅真人だった何者かが立っていた。その姿は民族衣装を着た女性のものに変わっているが、話しぶりからそいつだと分かる。
けれど、肩をはだけた衣服が妙に不安をかき立てた。乱れた赤毛の頭がゆっくりと持ち上がると、目の上に青あざを作った、――母の顔だ。
「
「お前な、苦しんで死にたいならよそで探せよ。メンドくせえ」
気だるげなコージャンの声は、しかし本人が思った以上にうめき声に近い。耳によみがえる「
守ろうとした母から言われたのが、恐怖に染まった罵りだ。村の連中も、自分を遠巻きにしながら、ひそひそと同じ言葉を囁いた。
自分が悪魔だと言うならば、それは母に呼ばれた時からだろう。でなければ、母を守ろうと刃を握った時からか。どちらにせよ誤差だ。
手の中には血まみれの包丁。いつもは羊を料理するのに使っていたそれは、強盗を始末するために自分で用意した。コージャンの姿は六歳当時のものに縮んでいる。
「
幼い頃のコージャンは、故郷で住んでいた家の中に立っていた。白い壁に反響して、祖母の悲鳴が聞こえる。それに、知らない男の怒鳴り声と、母の泣き声。
――
◆
都市部では近年、
ウーは燭台を捨てて走り回っていた。
(いた、モノンとダイファムだ!)
長い長い廊下を走りながら、ようやく双子の姿を見つけ出す。声を出すと、こちらを狙っている連中の注意を引いてしまうかもしれない。素早く近付こう。
(でも、変だな。この宿ってこんなに広かったっけ?)
もう客棧全体を外から見た時の倍近く、走っている気がする。時折、小鬼のような何かが飛び出してきたが、ウーは問答無用でそれを打ち払い、蹴り払った。
蹴り飛ばした小鬼の一匹が、廊下に飾られていた壺を砕く。軽身功を駆使して足音すら消していたが、ついに双子が背後に迫る追手に気づいてしまった。
「
「だから、なんで逃げるのさ!?」
どちらがダイファムでどちらがモノンなのかは区別がつかないが、とにかく片方が片方の手を引っ張って大急ぎで角を曲がった。そして、全力で戻ってきた。
急転回の理由は明白、角の向こうから
だが彼は武器を持っていない。途中で箒などを拾うことも出来たが、それで双子に怖がられても困る。何より、武器とは素手で強いヤツが使う物なのだ。
はたして相手はウーを視認し、まずそちらを排除しようと切り替えた。大刀を振りかぶり、切り下ろす。武術を
だから、ウーは呆気にとられて
ざくりと、肩から胸が切り裂かれる。しぶく血、それ以上にほとばしる――怒り!
「見苦しいぞ粗暴者ッ!!」
ウーは伸び切った相手の腕を捕まえ、鮮やかにへし折った。そのまま畳むように胸へ引き寄せ、胴を、腹を、細く尖らせた捕喰肢で貫く。悲鳴は上がっただろうか?
相手が何を言おうと、今の自分には耳に入らない。入れる気はない。こいつのことは欠片も残さず拒絶してやる、否定してやる。それほどに、〝醜い〟と感じた。
「大雑把! 無様! 非合理! 不効率! 構えも
ウーは暴力が嫌いだ、乱暴者が嫌いだ。道理もわきまえずに力を振るうことは、この世で最も
〝武〟と暴力が一線を画すのは、それが〝道〟だからだ。武術は理路整然たる力学であり、心技体の運用法も鍛錬法も、その背景には奥深い哲学が存在する。
初めは肩と腰を、肘と膝を、手と足を合わせ掌握。
ここまでが武器を扱う前提だ。刀剣弓槍いずれも手の延長、体の各部を連結させた人間が、次は武器と融合する。いわば一つの精密機械だが、まだ終わりではない。
次は心と意識、意識と気、気と力、……内陰と外陽の合一。究極的には宇宙との一体化でもあり、思想的には突き詰めると仙道のそれにも通じる。
その鍛錬には厳密な順序があり、最初を誤れば修得は難しい。
「あ、いけない」
気がつけば眼の前の男はズタズタになっていた。穴だらけで、ちょっと変な感じに手足やら首やら曲がっている。師父以外の人間を相手にすると、本当に脆い。
もったいないので死体を自分の「中」へ回収する。捕喰肢を伸ばし、底知れぬ自分の影の中へ。狗琅真人は
「二人とも、もう大丈夫だよ」
にぱっと笑顔を向け、ウーは腰をかがめてモノンとダイファムに手を伸ばす。さっきまで二人そろっていたはずなのだが、片方が見えない。
どうしたのかな? そう思った矢先、脇腹にずくり、と何か入ってくる感触がした。いや、これは入るのではなく刺さっているのだ。だが何故?
「
ああ、可哀想に。モノンか、ダイファムか、多分ダイファムの方だろうか。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ぶるぶる震えながら、それでも歯を噛み締めて――男が落とした大刀をウーに突き立てている。
そんなに怖いくせに、勇気を振り絞って。偉い子だ。
狗琅真人が開発した
血が流れる。ひんやりした、心細い、さびしくなる感覚。ウーはすっかりそれに慣れたと思っていたのに、今夜のそれは妙に好きになれなかった。
きっと、ようやく理解したからだろう……頭ではなく、心の底から。
自分は人間じゃないのだ。人を殺して、人を喰べるような奴は、どうあっても「人間の敵」でしかない。全ての人間の敵、つまり化け物だ。簡単なことだった。
「カーナ。なんだろうね、化け物って言ってるのかな」
コージャン師父の剣を思い出す。生き返ったばかりの自分を斬り殺した、まっすぐに走る雪色の稲妻を。あの剣に近づくためなら、化け物になっていいとも思った。
だが、これは、違うのではないか。
――僕は神魁流の門弟です。殺すなら剣を使う。
(そっか、見苦しいのは僕じゃないか。横着なんてせずに、神魁流で戦って、殺して、その上で捕喰肢で食べないと。それは僕がなってもいいと思った化け物じゃない、神魁流の門弟としてあるべき姿じゃない!)
急に涙が出てきて、ウーは座り込んだ体が傾ぐのを感じた。
浅いとはいえ、脇腹に刺さったままの切っ先が、更に傷をえぐる。背筋に力を入れるが、なんだか疲れてしまった。自分は何をしていたのだろう?
「
「
がたついていた胸の内が、温かい声に持ち直す。ダイファムが手を放すと、大刀はがらんと虚しい音を立てて床を転がった。その上にまた血が滴る。
双子たちは祖父の胸に飛び込んで、わんわん泣き出した。エンギンは孫の体を一通り触って、怪我がないか確認する。
「モノンもダイファムも無事じゃな。お前さんはどう――」
双子は、エンギンの服の袖をひっぱり、この場から離れるよう必死の形相で促していた。ウーを指さして、しきりにカーナ、ニアウアトと言っている。
「やれやれ。どうも怖がられとるのう……その怪我は?」
「ここの従業員です、厨房で見たやつに襲われて。僕は平気です」
「……落ち着いて手当できる場所を探したいが」
エンギンは、ぎゃんぎゃんと喚く双子を左右両脇に抱えて歩き出した。
「どうも建物の構造が変わっとる、バラバラになってはいかん。カイムのやつを探しにいくから、ちゃんとついてくるんじゃぞ」
「は、はい」
なんやかんやと喚いていた双子は、エンギンに言い聞かせられて納得したのか、それとも疲れ切ったのか、やがて静かになった。
それでも、ウーはあまり怖がらせてはいけないと思って、三人から少し離れてついていく。自分はもっと、色んなことをわきまえるべきなのだろう、と。
ウーが双子を追った時は、ほとんど真っ直ぐに走ってきたはずだった。
しかし、エンギンと共に来た道を戻ると、さっきはなかった曲がり角どころか、階段があり、回廊があり、知らない部屋がある。
やがて広間へ出ると、そこは大きな吹き抜けがあり、上にも下にも果てが見えない闇が広がっていた。洞窟のようにびゅうびゅうと風の音さえする。
「この宿は、すっかり異世界と化しとるみたいだの。たまに妙な
「オロー。
祖父と孫たちは、しばしぐるぐるとあたりを見回した。
「…
風に紛れたコージャンの声に、四人は一斉に振り返る。ウーたちがいる広間の西端のちょうど逆方向、二十
その手もとでは、抜身の
「師父! この宿の連中、モノンたちを襲ったんです。建物もおかしいし、早く逃げましょう。もう二人殺したけれど、まだ残っているかも」
「いや、
エンギンに肩を掴まれた時には、ウーも気がついた。コージャンの目つきが、寝ぼけてるどころではなく、虚ろだ。それに、精彩を欠いた表情。
「
「師父?」
おそるおそる、ウーは身構えながら近付こうとした。だが遅い、彼が構えた時には、目の前からコージャンの姿が消えている。
「
ばきんと音を立てて床が陥没し、空気が弾け飛び、鼻が触れそうな距離に師父の顔が迫る。実際はそこまで近くはないが、ウーは完全に殺戮圏内に捕らえられた。
だが、それでも信じられない。だから反応できない。
コージャンの手が鞘を払い、剣を振りかぶって、それを自分の弟子に叩きつけるなど。そうされる理由などなく、それ以上に……、ああ、なんてことだろう。
その一閃は、ウーが知る美しさなど、欠片も持ち合わせていなかった。
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