終節 いきはよいよい、かえりはあぶない

七殺しちさつ不死ふしの戸籍作成には、およそ百九十八万二百十四年一ヶ月と二日かかります」


 という嘆蝉たんぜん道人どうじんの説明を、狗琅くろう真人しんじんは右から左へ聞き流した。どうせ時差だ。

 戸籍手続きは冥界で行うが、実際に作るのは天界である。そして天界は常に、【未来】にしか存在しない。よってどこの国の冥界にも、時間移動のための門があった。


 閻国えんこく帝山たいざん冥府の場合は三時さんじ現世げんせい下院かいんというもので、これを大羅仙だいらせん遡龍公そりゅうこうが司っている。天界で何百万年かかろうと、こちら側の待ち時間は長くとも一時間かそこらだ。


 そして実際に受け取ったのも、きっかり一時間後だった。最初に嘆蝉道人がウーを検分した四阿あずまや、単なる書類の受け渡しだけなら窓口で済む。

 というのも、嘆蝉道人が話したがっているためだ。


「……あのような物を手駒にして、どうされるおつもりですか」

「【大事だいじもの】について、そう勘ぐられても」


 予想通りの話題を振られて、狗琅真人は肩をすくめる。あれから気持ちを落ち着けはしたものの、嘆蝉道人はいまだ不機嫌そうだった。

 彼女がいただく枝角は婚姻の証、亡き伴侶の形見でもある。余人に触れられることがないよう守りの呪をかけていたのに、それを存在しないもののように突破されたのだ。一通りそれについて愚痴った後、嘆蝉道人は付け加えた。


「あれはいずれ、貴道あなたも斬りますよ」

「それならもう斬られた。ご心配なく」


 そして、斬り殺されず生きている。狗琅真人は何を思いわずらうこともない、澄んだ秋空のように晴れやかな笑顔を見せた。


「私は異なる位相にまたがって、身を守っていたのにネ。けれど、リーくんにはそんなこと関係なかった。彼に斬れないものなど無いのですよ」


 だからこそ、自分は最初にコージャン・リーの命を拾った。ただ復讐の道具にするために。そのことを彼も快く思わなかったし、恩があるから従っていただけで、好意を持つには程遠かったはずだ。それがいつしか、変わっていった。


「そんなことを誇らしげに言ってどうしますか」


 嘆蝉道人は深々とためいきを吐く。


「あの方、せめてはいないのですか。剣ならば付き物でしょう」

「鞘……」


 気づきの一滴が狗琅真人の琴線を揺らした。


「そう、鞘」

「……鞘!」


 波紋のように表情をわななかせ、狗琅真人は細い目を見開いた。


「ええ、鞘」

「鞘、そう鞘!」


 互いに語彙力を投げ捨てながら、二仙は目と仕草で暗黙のやり取りを交わし、結果、狗琅真人は満足行く答えを得て足早に去っていく。

 鞘もない〝なんでも斬れる剣〟など愚の骨頂。そこに気が付かないとは、狗琅真人はやはりまだまだ若い。嘆蝉道人は少し、溜飲が下がる思いがした。


                 ◆


 ウーが目を覚ました時には、待ち合い室でコージャン師父しふと二人っきりだった。


「狗琅真人は……」

「書類の提出と最終確認だ。問題なけりゃ、やっと戸籍が取れる。ったく、お前が寝てる間、俺たち大変だったんだからな」


 そう語る師父の、ただでさえ凶悪な面構えは、げっそりとした憔悴しょうすいの色で呪われた鬼瓦か何かのようだった。すいません、と謝りながら身を起こす。


「師父、そういえば角の仙人さんってなんだったんですか」


 ヒマを持て余して、ウーは気にかかっていたことを切り出した。狗琅真人が戻ってくるまでしばらくかかる。何だかんだ流されて忘れる所だった。


「大事なものがどうとか、危険とかなんとか、あとそれから」


 思い返せば、狗琅真人とコージャン師父の出会った経緯についてもよく分からないことが多い。そもそもあの仙人は、何の役に立てようと思って彼を拾ったのか。


「落ち着け、ウー。そういっぺんに訊くなよ」

「はい」


 コージャンはどこから話したものかと、しばし腕を組んで考え込んだ。


「まず最初にな、あいつら仙人は人間じゃねえんだ。そりゃそうだって顔すんなよ、お前、あいつらがどれぐらい人間離れしてるか、分かってねえだろ」

「わっかりますよ! 不老不死で、色んな術を使って」

「そこじゃねえよ、ウー。仙人はな、んだ」


 意味を取りかねて、少年は卵を割るように目を見開いた。ぱかりと目蓋がひっぱられ、目玉がこぼれ落ちそうな。


「仙人は怒りもしなきゃ、悲しみもしねえ。内面の陰陽を操って、常に自分の気分を心地よく設定して生き続けられる。俺たちみてえな武術家も、道士も、平常心を保つべしって修業してるだろ。仙人の心は、それが行きついた果ての果てだな」


 これを〝七情六欲を律す〟と言う。

 喜び、憂い、悲しみ、驚き、怒り、思い(雑念)、恐れの七情。

 食欲、色欲、財欲、丁欲(職業)、権欲(権力)、貴欲(地位)の六欲。

 定義には諸説あるが、コージャンが聞いているものはこうだ。


「仙人に欲がないって言われてんのは、そのせいだ。ただ、情も欲も完全に消しちまうと、生きる理由もなくなっちまう。だから、あいつらは【大事之物】を感情の起点スイッチに持つんだよ。自分で『これを好きになろう』と決めたら、好きなものは百年経っても好きなまま。憎いものなら、千年経っても憎いまま」

「ま、待って。待ってください」


 薄ら寒いものを覚えて、ウーはばたばたと両手を振った。気味の悪い蜘蛛の糸が、少しずつ自分の周りにはりめぐらされた気分だ。


「なんか、それ、すごく変です。心って、そういうものじゃないですよね?」

「人間の心はな。俺たちからすりゃ、全員狂ってるようなモンだが、仙人ってのはそれが正気まともなんだよ。人間じゃねえってのは、そういうことだ」


 ヒトの寿命を超えた生は、常に己を定義し続ける戦いだ。どうしても捨てたくない感情、執着、それらを固定化してくさびとして己自身に打ち込む。

 それを怠れば自我がほころび、痴呆化や発狂、邪仙堕ちに至るもの……楔無くして万年を生きられるのは、もはや宇宙と一体化した神仙だけだ。


「それでも、狗琅真人は師父の友達ですか?」

「おう」


 迷いなくコージャンは肯定した。


「人間の友情とは違うが、それはそれで、嘘じゃねえ。あいつはあいつなりに、俺に対して誠実だし情もある。俺はそれを信じているから、記憶をいじるだの消すだのやらかしても、あいつなりの言い分ってモンがあるだろって思うのさ」


 その時、ウーが狗琅真人に対してそれまで抱いていた印象が変わった。けれど、まだ幼い彼には、その新たな印象を何と呼ぶのか知らない。


 後年、振り返って見るならば、それは少しの憐れみと淡い哀しみだったろう。

 あれは、自分が思っていた以上に奇妙で、救いがなくて、けれどまっしぐらに狂奔きょうほんの道を辿る、流れ星のような生き物だとこの日知った。


                 ◆


 冥界から現世への帰り道は、思っていた以上に慌ただしい。


「どけどけ亡者ども! 生者さまのお通りだ!」


 二公尺メートル半の長柄が風を巻いて唸り、先端に取り付けられた刃が群がる亡者たちをなぎ倒す。鬼郷の住人は、現世の人間より頑丈だ。

 外套の背中に黒遁こくとんで収納していた青龍せいりゅう堰月刀えんげつとうを取り出し、コージャンは絶え間なく襲ってくる人波を押し返していた。


「ああもう! 来ないでくださいよ、これ使いたくないんですよ!」


 ウーは伸びてくる手を払い、足を踏み、どれが尿だったか血だったか餅米だったかも忘れて、持ってきた竹筒の中身を片っ端からぶちまけた。

 冥府には郵送などという気の利いた制度サービスはなく、出来上がった戸籍は自分たちで持って帰るしかない。もちろん、三つのお約束「冥界のものを持ち帰らない」に抵触し、死者を装う術が解けてしまう。するとどうなるか。


 現世に未練がある者、中元節ちゅうげんせつ反魂はんごんを待ちきれない者が集い、生きた温かい体を奪って、よみがえろうと殺到してくるのだ。


「くれぐれも捕喰ほしょくは使わないでおくれよ。彼らはむき出しの【魂】だから、触るだけでごっそり消し飛んでしまう。そうなると冥吏めいりが許さない」

「分かってますよ! 手伝って下さいよ!」

「駄目だよ。私が乱暴を働いても怒られる」


 そう言う狗琅真人だけは、師弟に群がる亡者たちの外側で、一人悠々としていた。


「師父、なんで、クソ仙人はっ、見逃されっ、てるんですかっ?」

「そりゃ亡者が奪ったって、仙人の体は使いこなせねえからだよ。住み処にするにゃ、でかすぎるし、重すぎる。とても保ちゃしねえ」


 ウーが必死で一人二人と蹴り飛ばし、殴り倒ししている間に、コージャン師父はひと薙ぎごとに数人まとめて吹っ飛ばす。ちぎっては投げとはこのことだ。

 宿場街を抜け、真っ暗闇の森の中を、先導する狗琅真人の提灯を目印に駆け抜ける。森を超えて花畑へ出ると、妙なる調べが聴こえてきた。


「あれ。師父、海岸が賑やかじゃないですか?」

「現世の【魂】を出迎える楽隊だな」


 一音ごとに空気が澄むような弦の震え、背筋が伸びるような太鼓の律動リズム、見るものがキラキラと輝いて感じられる涼やかな笛の音色。

 気がつけば、山ほど追いすがっていた亡者たちは、森のあたりで諦めたのか、もういなくなっていた。ウーは夢見るような心地で近づき、楽隊の姿を目にする。


「来る時こんな人たち、いませんでしたよね?」


 楽隊は、身長三、四公尺メートルものノッポや、頭がまるごと一つの目玉になっている者、カマドウマのような脚を持つ犬ほどの大きさのトカゲなど、異形の集団だった。

 それを率いているのは、大きな二対四枚の翼を持つ、僧侶の格好をした長い黒髪の男。その顔も伸びた前髪で隠され、うかがい知ることは出来ない。


「いや、俺たちが来た時も、こいつらは居たぞ」

「えっ」


 ずかずかと楽隊の傍を横切り、空中を蹴ってコージャンは桟橋へ乗った。空中浮揚で狗琅真人もそれに続く。ウーは捕喰肢を伸ばして、岸から桟橋へと自分を運んだ。


「君も冥界を経験して、〝霊識れいしき〟が豊かになったということだよ。重畳重畳」

「どういう意味ですか」と師父を見て問う。

「こっち側を知って、眼が良くなったってこった。ほら、見てみろ」


 コージャンが指差す現世への道に視線を向け、ウーはあっと声を上げた。

 星空を光の玉が絶え間なく横切っていく。綿毛のようにふわふわと、あるいは光線のように素早く。光玉の跡には淡く虹色の軌跡が残され、それが小さく火花を立てながら夜に溶ける様は、花火みたいに綺麗だった。


 あたりを見回せば、海の上にも、水の中にも、同じように光が流れていく。それは全て、岸辺の楽隊の元へ集まると、提灯持ちに先導されて鬼郷きごうへと連れて行かれた。

 こんな光景に気がつかなかったなんて。そして、師父も狗琅真人もこれを見ていたなんて。今同じものを見えることを喜べばいいのか、見えなかったことに腹を立てればいいのか、ウーはよく分からないままぽかんと口を開けていた。


「霊識を高め太極に近づけば、ディが開かれる。君には黒い道が、リーくんには赤い道が、私には青い道が」


 また狗琅真人が何か言っている。ウーはよく分からないものの、どこか訊き返す気にはなれなくて、しばらく冥界の景色に見入っていた。


                 ◆


「なんか拍子抜けだな、戸籍のことじゃなくてな。お前があっさり、俺にウーを預けることを認めたのが、意外でよ」


 守墓人しゅぼじんどうの書庫で、コージャンは不思議そうに言う。

 耿月山こうげつざんに三人が戻って一週間が過ぎていた。戸籍は出来たものの、冥界のような特殊な環境下で再び【魂】がバラバラになることは避けねばならない。それを考慮した上で、諸々の処置を狗琅真人はようやく完了したのだ。


外法げほう重魂体じゅうこんたいは、これから第二第三と開発していく予定だからね。外界で様々な出来事に触れていくほうが、あの子の成長にも有意義だろうし」


 不眠不休で働いていたはずだが、若仙じゃくせんが見せる微笑みは、相変わらず日だまりで眠る猫のように穏やかだった。書架の森に囲まれて、その姿は泰然自若そのもの。


「忙しいよなあ、オメーは」


 次の外法重魂体ということは、狗琅真人はまた死んで、親に反魂されることなく見捨てられた子供の遺体を貰い受けるのだろうか。そして何十人という贄。また同じことが起きるが、その子らまで面倒を見るわけにはいかない。

 だから。コージャンはここ数日考えていたことを口にした。


「なあ、狗琅。お前、ウーのこと【大事】に思ってやれねえか」

「……あの子を、君の代わりにしろと?」


 眠り猫の笑みが消える。友人と言うより、感情のない仙人の表情。


「俺はもう三十年生きてんだ、いつくたばってもおかしくねえ。でも、ウーはまだ若いし、ただの人間より長生きするかもしれねえんだろ。その方が色々と安心だ」

「君を殺すかもしれないのに?」


 ぎしりと、心の軋みが聞こえるような声だった。ただ感情がない仙人の声よりも、かえって非人間的に思えるほど硬い声音。


「いつか君のわざを継ぐために、君を超えるために、殺してもいとわない。そんな悪童を、愛しく思いたくはない。殺さないでいるのは、君が大事にしているからで、私にとっても研究成果として価値があるからに過ぎないんだよ?」


 いつにない早口は、呼吸を求める魚のあえぎに似ている。


「へえ。なら、俺を殺そうとしたら、あいつが死ぬ仕掛けとかねえだろうな?」

「まさか、そんな。もったいない」


 狗琅真人の目も鼻も口も抑揚も、コージャンにはその瞬間真っ平らになって感じられた。常日頃演じている、人間の振りを全て剥がされた挙動。

 人差し指と中指をそろえ、コージャンは結んだ剣指けんしで自分の首筋を叩いた。


「言えよ。俺に卑怯な真似をやらせるな」

「その予告だけで充分、君は卑怯だ」


 仙人に拷問は無意味だ。言いくるめて口を割らせようにも、一筋縄ではいくまい。だからコージャンは、その弱点――すなわち、【大事之物】を容赦なく突いた。

 我ながら悪辣だとは思うが、息子を守るためなら手段は選ばない。ただの脅しではなく、狗琅真人が強情を張るなら、実際に自分の体を刺しても良かった。


「あるさ……ある、君にかけたように、致死の呪いを」

「なら、ここを出ていく前にきっちり解いてもらおうか」


 案の定これだ。コージャンもしばしば、知らない間に色んな爆弾を狗琅真人に仕掛けられたものである。わりと性根が腐っているが、お互い様ではあった。


「君に死んで欲しくない。短い人生なら、なぜ死に急ぐのかネ」

「やりたいようにやってるだけだ。でなきゃ、生きた感じがしねえよ」


 ぺし、とコージャンは平手で狗琅真人の後頭部をはたいた。


「分かった、分かったよ。じゃあ一つ、私の頼みを聞いてくれるかな」

「なんだよ」


 自分の体を盾にしたことは、正直済まないと思っている。今なら多少のことは聞いてやろうとコージャンは思っていた。


「君ができるだけ健全な社会生活を営み、息子を育て、子孫繁栄し、幸福な老後を送れるよう長生きをするためには、対になる鞘があるべきだ」

「またそりゃ直截ストレートな物言いだな」

「別に性的な比喩だけでもない。君はその、異能の才を十全に発揮していると、刃がボロボロに欠けて、結果的に早逝しかねない」

「……つまり?」


 嫌な予感がして、コージャンは書庫の出入り口を意識しだした。


「うむ、今すぐという訳じゃない。候補を探すのにまずは一年かな。先の話として覚えておいてくれればいいんだが。お見合い、しないかネ!」


 その瞬間、コージャンは何か文句を言おうとしたはずだ。バカヤロウとか、冗談だろうとか、あるいは聞かなかった振りをするだとか。だがそうした反応のことごとくは、心の腰がスコンと抜かされて一つも発揮できなかった。

 目玉が飛び出るどころではない、目も鼻も口もまるごと落ちた気分だ。結果的に、彼は身についた反射的な癖に頼って、どうにか異議を表現した。


「――あァ?――」


 と。


【従冥入冥 終】

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