5. 君の為の賛美歌

「行くのか」

 なんとか原型を留めている、そう形容せざるを得ない階段を降りていくミザリーの背中に、声をかける。彼女はくるりと半身を捻って答えた。

「ああ。最初からそのつもりだったからね。アンタは行かないのかい?」

「俺は存外、ここが気に入っていてね」

 アンセムはお決まりのように肩をすくめてみせる。その所作を見てミザリーはケタケタと笑った。彼女がこんなふうに笑うところを見るのは、これが最初で最後だった。

「私がいないと寂しいだろう」

「オムライスにパセリが添えられていなかったときくらいには」

「アンタなんか嫌いだよ」

「今日は人生で最も素晴らしい日だ。なんせ、俺もアンタが嫌いだからな」

 やはり俺たちはこうでなくっちゃ。そんなふうに、口の端を上げてニヒルに笑うふたりは、悪友のように見えた。

 アンセムは階段の下でこちらを見上げるミザリーの顔を、丁寧に視認した。シャンパンブロンドの髪は、一部三つ編みにされている。編み込まれた三束はそれぞれ太さもバラバラで、その上ボサボサだ。プロのやったようなそれとは程遠いが、彼女は存外気に入った様子でそれをほどかなかった。自分の知らぬ間に、どうやらエコーと仲良くしてくれたらしい。

「おねーさん!」

 エコーがアンセムの横をすり抜けて、階段を駆け下り、勢いそのままにミザリーの腹へ突っ込む。エコーの突進にややバランスを崩したミザリーは、少女をしかと抱きとめた。エコーはミザリーに抱きついて離れない。

「おねーさん、行っちゃうの?」

「ああ。お嬢ちゃんも一緒に来るかい?」

「ううん。ぼくはアンセムと一緒にいる」

 一瞬の逡巡さえなく、エコーはアンセムと居ることを選んだ。それにミザリーは驚くことなく、寧ろどこか安心したように笑う。短い時間であったが、アンセムとエコーの間に固く結ばれた絆を見た気がした彼女は、野暮なことだと分かっていながら、すこし試してみたかったのだ。

 答えは予想通りのものであった。きっといつまでだって、どこでだって、彼らは一緒に生きていくのだろう。そんな予感さえ起こさせた。

 エコーは寂しそうに顔を上げると、一際強くミザリーにしがみついた。

「おねーさん、また会えるかな?」

「会えるさ。お嬢ちゃんが歌ってくれれば、それを道しるべに辿り着ける」

「ほんとっ?」

 ああ。たしかに頷くと、ミザリーにしては珍しく、柔らかい微笑みを見せた。そんな顔が出来るなら、はじめからそうしていれば良いのに。きゃらきゃらと楽しそうに笑うエコーに免じて、無言でふたりを見守るアンセムは、そのことを口に出さなかった。代わりに、「もう一度名前を聞いても?」と。

 ミザリーは最初こそ口をつぐんだが、意味のないことだと判断したのか、ひょっとしたら心を許したのかもしれなかった。

「……グロリア。グロリア・ハート」

「ははあ。ハート家は未だに教育方法を間違えているらしい」

「知ってるのか?」

「すこしね」

 遠い昔の箱庭での暮らしでは、ハート家の令嬢はいつだって行儀と教養がなっていなかったと記憶している。であれば没落したのにも頷けるというものだ。

 彼はあれ以来、有翼人を目の敵にするようなことはなかったが、ミザリーがもし驕り高ぶった種類の人間であったなら、早々に追い返すつもりだった。そうしなかったのは、彼女が自分たちを見下すことなく、平等に接してくれたからに他ならない。その点を考慮するのであれば、ハート家の教育の甘さに、小指の爪一枚分くらいの感謝はしてやってもいいだろうと、アンセムは思った。

「また来たなら、ホットミルクくらいは出してやろう」

「勘弁してくれ。しばらくミルクは見たくない」

 ただの嗜好品か、あるいはそれしか飲むものがないのか。腹が膨れるほど飲まされたものだから、勘繰って尋ねた彼女を面喰らわせたのは、「賞味期限が近いから」というアンセムの言葉だったのは記憶に新しい。

 すっかり見慣れてしまった彼女の仏頂面を一瞥して、アンセムは再び口を開いた。

「……最後にもうひとつ聞くが、アンタ、星籠は好きだったか」

「星籠? 嫌いじゃないがね。退屈なところだった。行儀よく座ってなきゃいけないし、姿勢よく歩かなきゃならない。喋るときと笑うときは慎ましやかに、だ」

「アンタには似合わないな」

「全くの同意見だ。次は花籠で生きていくさ」

 花籠。ついぞ見ることの叶わなかった、花の溢れる通りは、きっと甘い香りがするのだろう。ブルーアイの彼女も、花の香りがふわふわと漂っていて心地がよかったのだから。

「……花籠か。あそこでは年に一度、花祭りがあるらしいな。まあ上手くやれよ」

「そんなことまで知ってるのか」

「ああ。天使が教えてくれた」

 出た、と胡散臭い天使の存在を胸中で毒付いて、ミザリーは鼻頭に皺を寄せた。

「その博学な天使様は、口の利き方までは教えてくれなかったようだね」

「こいつは感心した。ハート家は礼のひとつも教えていないらしい」

 最後まで憎まれ口たっぷりに、ミザリーはアンセムの家を後にした。ヒビの入ったコンクリートを打つブーツが地面を踏みしめて数歩、背後から柔らかなアレグロが聴こえてきた。応援しているつもりなのだろう。相も変わらずうつくしい歌を、言葉の代わりに送ってくれているのが分かる。

 教えられた方角を目指し、途中で物盗りに遭わないようにと配慮してくれた裏道へ入る。

 やっぱり奴は小憎たらしい。ミザリーは口角を緩ませ、振り返らずにしっかりとした足取りで歩いた。


「行っちゃった……」

 ミザリーの姿が見えなくなるまで繰り返し紡いだ歌が終われば、エコーは捨てられた犬を連想させる顔をして、窓枠に顎を引っ付けた。きっと彼女が犬だったなら、耳は垂れ、尻尾も可哀想なくらい萎えてしまっているに違いない。アンセムは一笑した。

「構いやしないさ、あんな野蛮な女。もっと気高くうつくしく、おしとやかだったなら大歓迎だがな」

「アンセムだって寂しいくせにー」

「いんや? 俺はオムライスにパセリなんかなくたっていい」


 屑籠には何でもある。

 自転車も車も、家も服も粗末な食べ残しも。運が良ければテレビだって冷蔵庫だってある。どれも大抵は壊れて使えないものばかりだが、味気のない生活を彩るオブジェとして一役買ってくれていた。

 そして何より、ここでしか聴けない歌があった。甘ったるい鼻唄のように、どこからともなく聴こえてくる。

 この屑籠で一等うつくしい、誰かの為のアンセムが。


 名をなんと言っただろうか――ここでその名を覚えていてくれるひとは、ひとりしかいなかった。


「グラナート」

 真四角に切り取られた空を背景に、窓辺に佇む少女が、こちらを仰いで笑う。たまに思い出したようにその名を呼ぶ彼女の、いたずらな笑み。

 ついにアンセムは、目の前の我が子に、父親だと名乗ることは出来なかった。その資格がないような気がして、この屑籠で偶然出逢い、育ててきたことにした。たくさんのおとぎ話を聞かせてやった。歌を教えた。母親と父親から受け継いだ天使のようなその声で、パパやお父さんと呼ばれることはなかった。

 それは、まだ夢を見ていた頃の、自分の愚かしさへの罰なのであった。

 だけれど、それでもよかった。

 彼女さえ失ってしまっていたら、アンセムはとうに己の命を粗末に扱って投げ打っていただろう。

 彼女が生きている。だから、生きる。父親と呼ばれなくてもいい。彼女の頭のてっぺんから注いだ愛は、紛れもない、親から子への愛情であった。


「歌って?」

 エコーは薔薇色の頰を持ち上げ、穏やかな湖面のようなめだまに期待を寄せている。

 眩しいと、思った。今でも心の中で眠る、愛しきブルーの瞳と重なる。

 このときほど、胸が苦しくなることはない。アンセムは咥えたキャンディーを噛み砕く。

「……特別にくれてやる」


 彼は吐く為の息を深く吸い込んだ。

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