4. グラナート・アナー Ⅱ

 オネスティとの薔薇園での逢瀬から数日後。麗らかな昼時の日差しが、遮光カーテンからオーロラのように透ける。ちちちと鳴く小鳥も、風にそよぐ花も、なにもかもがいつも通りであった。

 なんの前触れも、予感さえもない。誰が予想出来ようか、この後に待つ平和の崩壊を。

 それは唐突にやってきた。

 グラナートの自室に大きく響いた音に、彼はびっくりして、あとちょっとで紅茶を零すところだった。何事かと音のしたほうへ顔を向ければ、扉を開けた鬼のような形相の母と、数人の兵。それから、膝をついて肩で息をするオネスティだった。

 彼女のその姿といったら、実に惨いものであった。

 丁寧に編み込まれていたはずのプラチナブロンドの絹髪はぐしゃぐしゃに乱され、顔は傷だらけで、ちょうど白い薔薇が血を啜って赤く染まったようなものであった。蹲る彼女の細い腕を、兵が乱暴に引っ張り部屋へと投げ入れた。

 状況が飲み込めないグラナートは、パニック寸前によろよろと席を立つ。

「オネスティ……⁉︎」

「グラナート。この女に誑かされたのね」

「母様! いったい何を……‼︎」

「身の程も弁えず我が息子に言い寄るなんて……賤しい女」

 穢らわしいものを見るような視線を送るグラナートの母の、その腕には赤ん坊が抱かれており、オネスティの腹にこの前までの膨らみはなかった。

 グラナートは瞬時に理解した。その赤ん坊こそが、自分の子だと。駆け寄り、オネスティの肩を抱いたグラナートの額に血管が浮く。どんな酷いことをされたのか想像するだけで、腹の虫が突き破って出てきてしまいそうだった。

「どうせ財産目当てだったのでしょう。今ここで正直に白状すれば命までは取りません」

 実の母親の、愛するひとに向けられた心無い言葉の数々に、胸が焼けるような怒りを感じた。彼は穏やかな人間であったから、こんなに激しい感情に突き動かされたことはなかった。オネスティがグラナートの手を握るのがあと一秒でも遅かったら、彼は実の母親に拳のひとつでもくれてやっていたかもしれない。

「……わたくしめは――」

 息をするのだってやっとのことであろうに、オネスティは床に頭を擦り付け、その上しっかりとした淀みのない口調で続けた。

「――グラナート様を、愛しております」

 それは紛れもない、愛の告白であった。面を上げた、衆目を集める彼女のブルーの瞳は、我が子を守らんとする母親のそれであった。

 しかし、その一言がグラナートの母の癇癪玉を割ってしまう。

「お黙り! この期に及んでまだそんなことを……恥を知りなさい!」

 雷よりも鋭い剣幕で、グラナートの母はオネスティの頭を蹴り飛ばした。彼女の身体は人形のように傾き、地に伏せ、そして動かなくなった。小指がぴくりと動いたことからまだ死んではいないようだったが、いつ何時その命が終わってしまうか分からない。彼女を救うための、最善の方法は――グラナートの頭の中はもはや、冷静さを欠いていた。こんなときに落ち着いてなんかいられなかった。とにかく自分の母親を、説得しなければ。彼はオネスティの肢体を庇うように抱きとめると、必死になって叫んだ。

「母様‼︎ 母様、聞いてくれ! 俺はこの女性を――オネスティを心から愛している!」

 ぎろり。まさか、信じられなかった。愛息子を見るような目ではなかった。怒りに狂った炎を瞳の奥で燃やしていた。

 途端、怒りの矛先はグラナートにも向けられる。骨ばった平手が彼の頬を打った。

「あなたは誇り高きアナー家の跡取りなのよ! なにを莫迦なことを言っているの! この女を牢に繋いでおきなさい! 赤ん坊は始末して!」

 そのときグラナートはたしかに、時が止まるような、背筋の凍るおぞましさを感じた。熱を持っていた身体から血の気が引いて、寒ささえ感じさせた。

 ――アナー家。身寄りのない子どもを攫い、労働を強い、愛する相手も選ばせてくれない。たしかにここにはなんでもある。欲しいものはなんだって手に入る。なに不自由ない贅沢な暮らし。

 だのに、彼が望む自由は、どこを探したってありはしなかった。

 母の怒号などもはや耳に入ってこない。頭の真っ白になったグラナートは、躊躇いなく兵が腰に提げていた短剣を引き抜いた。これで、誰を傷付けるというのだろう。母親か、兵か。自害なんてする気はさらさらなかった。我が子を守らないといけないんだ、なにより俺は、痛いのはまっぴら御免だ。そんなことを言う余裕もない。

 彼は背中まで伸びた、己の完熟した柘榴の髪を一纏めにして、短剣を高く振りかざす。部屋に充満した空気は、太陽の暖かさを溜め込んで、穏やかそのものだった。刃の切っ先が、きらりと鈍く光る。ただの短剣と侮ることなかれ。これはアナー家特注の、意匠の凝らされた造形美を誇りながら、切れ味は抜群に鋭い。

 彼は短剣を振り下ろす。

 ばっさり切り落とされた柘榴の髪を見て、母親は驚愕に目を見開いた。

「なんてことを!」

 彼女がここまで大袈裟になるのには理由わけがあった。ただうつくしいからではない。髪を伸ばすことを義務付けていたわけでもない。

 赤い髪は、アナー家の血筋だけに現れる誇りの証だった。

 そしてその――ガーネットの瞳も。

「――やめなさい‼︎」

 間に合うはずがない。止めようとする兵の手も、母親の制止の叫びも。

 グラナートの右目は激痛とともに、その視力を失った。


「ああ、オネスティ……オネスティ……」

 グラナートは命からがら逃げ出して、赤ん坊とオネスティを馬に乗せた。本来であればふたりを抱えて飛ぶことくらい朝飯前であったが、今は右目が痛くて仕方なかった。オネスティは息も絶え絶えに、だが我が子を離すまいと、腕の中でぐずる真新しい命をしかと抱いていた。

 ――これが最善だったかなんて分からない。

 グラナートは想像さえしなかったこの異常な光景に、心の中でくすぶる慟哭を吐露する気にもなれなかった。

 ただひとつ、誇りを捨てたのは正解だったに違いない。もう要らなかったのだ。栄光も、誉れも。たったふたり、この世で一番大事な人が生きていてくれるならば。グラナートはそれ以上を望むほど強欲な男ではなかった。

 彼は片手で綱を握って、もう片方の腕で後ろから彼女を抱き締める。血の失せた彼女の身体は徐々にその冷たさを増してゆき、乾いた鉄の匂いが鼻腔に嫌な刺激を与えた。

「君をこんな目に遭わせるなんて……ああ頼む、死なないでくれ、頼む、オネスティ、死ぬな……」

 延々と繰り返される懇願に、彼女の唇がわずかに開いた。それはか細く、注意していないと聞き逃してしまいそうなほど小さな声で。

「――グラ、ナート……」

「! オネスティ……オネスティ!」

「……グラナート……うた、って……」

 歌って。聞き間違えるはずもない。

 それは耳慣れた彼女の口癖だった。


『グラナート。歌って?』

 ふたりきりの部屋で、彼女はいつもグラナートに強請った。

 長方形にくり抜かれた窓はよく磨かれていて、窓辺に腰掛ける彼女は白い光を纏っていた。さながら舞い降りた天使のように可憐で、グラナートは思わず魅入ってしまう。

 どうしてそうやって強請るのかなんて、彼はとっくに知っていた。彼女は何度も、それこそほんとうに百回くらいは、『あなたの歌声が好きよ』とシンプルで飾らない賛辞をくれた。

 彼女はアンセムが一等好きだった。だからこのときばかりは、彼の選択肢は限られていた。

 彼が面映ゆい気持ちでぎこちなく歌い始めると、オネスティはしっとりと濡れた瞳を伏せて、ときどき口ずさむ程度に声を重ねては、からころと首を揺らしていた。その仕草の一つ一つに胸を打たれて、グラナートはこのどうしようもない気持ちをどうやって形容しようと、いつも苦しくなった。

 グラナートは元々、歌が特別に好きだったわけではなかった。なんだって人は唄を謳い、それに点数や評価を付けたがるのか、理解の及ぶところではないとそっぽを向いていたくらい、興味なんてなかったのだ。

 今は好きかと言われれば、それだってよく分からなかったが、ただ楽しいと思う。幸せだと思う。言葉にならない感情を乗せて歌えるのは、素晴らしいことだと思った。

 そうやって、互いを想い合った歌は幸せに満ち満ちていて、ふたりだけの幸福な世界は時間の許す限り続いた。


 グラナートは短く息を吸うと、いつか生まれてきた子どもに聴かせよう、そうやって笑い合った遠くない過去の記憶を頼りに、必死になって歌詞を追い始めた。彼女が彼女の母親から受け継いで、彼女から子へ受け継がれるはずだった、子守唄。彼女が歌えば心地よい微睡みに誘われたのに、今は壊れたオルゴールのように、上手く声が出せなかった。喉がきゅうと締まり、ともすれば呼吸もままならない。こんなに下手くそな歌、捧げられたもんじゃない。だけれど彼は歌うことをやめなかった。

 やっとのことで、グラナートは涙に濡れた声を振り絞り、最後の一声まで彼女と子どものために歌いきった。

 聴いていてくれただろうか。あなたの歌声が好きよ、と。言ってくれはしなかった。

 あとはもう、堕ちるだけだ。


 屑籠まで堕ちたグラナートは、あてもなく彷徨った。ただ腕の中に冷たくなった愛しき女性を抱えて。

 翼は硝子のようにバラバラと砕けて散ってしまって、見る影もない。幼少より褒められていた柘榴の髪は、血で一層赤々とグロテスクに光り、赤いめだまのうつくしかった右目は、気を抜けば気絶してしまいそうなひどい痛みを伴っていた。閉じた右目から流れる、どろりとした赤い体液が涙のように頬を伝う。

 初めて見る星籠の外の世界は、凄惨極まりないものであった。あのとき飛び立った白い鳥も、こんな光景を見たことがあったのだろうか。

 鈍痛が絶え間なく走る足を引きずって、ようやっと落ち着けそうな場所にオネスティの身体を横たえる。赤ん坊は瞼を閉ざしており、その静かな気配から、眠っているか死んでいるかの区別さえつかなかった。

 グラナートはオネスティの、薄汚れてしまったプラチナブロンドを指で梳いてやった。レクイエムを口ずさみながら、出来る範囲で身なりを綺麗に整えてやると、やはりうつくしいひとだと、今一度思う。

 花でも添えてやれればよかったが、ここには枯れ木や、茶色く変色した落ち葉くらいしか見当たらなかった。

 つうっと陶器のような彼女の頰を撫ぜて、全身の血が凍ってしまったように冷たい唇にそっと口付けを落とせば、彼女が微笑んだような気がして、彼は、あまりに残酷な悲劇に、とうとう気が触れてしまったのかと自嘲した。しかしこの身に降りかかった不幸を鑑みれば、そのほうが好都合ではないか。こんな状況でまともでいるほうが、きっとずっと不幸に違いなかった。

 もしくは、自分の家を恨むくらいしか、この双肩にのしかかった苦しみを紛らわせる方法など思い付かない。

 彼はほとほと力尽きた。追い剥ぎに遭うのだろうか。もしかしたら、星籠では見なかったばけものに食い殺されるかも。

 もう、生きていく余力さえ残っていなかった。


「……う、うえぇ……」

 グラナートを絶望の淵から救ったのは、赤ん坊の泣き声だった。彼ははっとして、しきりに泣く赤ん坊に両腕を絡め、そのふくよかな温もりを抱き上げた。

 生きていた。小さな心臓は鼓動を繰り返し、力の限りその命を証明しようと泣いていた。彼は安堵に瞳を濡らしながら、柔らかな頰を撫で、きっといつか、子どもに捧げようと決めていた子守唄をもう一度紡いだ。

 守らなくてはいけない、今度こそ。そんな強い意志がこもったのか、歌声は震えず安定し、やがて赤ん坊は泣き止んだ。彼女は愛するひとによく似た、エコウブルーの瞳をゆっくりとまたたかせる。

「……エコー……エコーにしようか。君の名前だ。俺はグラナート。グラナート……アンセム」

 ――グラナート・アンセム。

 もう誉れ高きアナーの名は捨てた。己の誇りを守るために、誇りをひとつ捨て去った。

 柘榴の男とエコウブルーの少女。彼らがともに歌を口ずさむのは、まだすこし先の話――。

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